2007年12月19日(水) |
憤慨を禁じえない定義 |
今年も年越しは山の家で過ごす予定である。 むろん、それまでに仕事を一段落しなくてはならないのだけれど。
山の家がある集落はあと10年もすれば消滅するだろう。 今の世帯の様子をみれば、よほど新しい住民が入らない限り、そうなる。
でもしかし、美しいあの山で、朝日を拝み夕日に頭を垂れ、 その場所と不可分な存在として暮らす人達に向かって、 ここは限界集落ですねなどとはとても言えないと思っていた。
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そう思っていたら、今朝の新聞の記事。 下伊那郡の町村長で構成される下伊那郡町村会という組織の会合で、 「限界集落」という表現を自分達は使わない、という方針を示した、というニュース。
「そこに住む人たちに罪もないのに「おまえのところは限界だ」と言われるのは憤慨を禁じえない」とコメントする下条村という村の村長。
この下伊那郡町村会が位置する、飯田下伊那地方という長野県の南側の地域には、 「限界集落」に該当する集落、つまり65歳以上が人口の半数以上を占める集落が、458地区のうち約20%の88地区あるのらしい。
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この言葉は、本来は「限界に至る前に対策が必要」という意味でそのように命名されたのだが、素直に読んだとおりの「既に限界」という意味で広がった。
限界という表現を使うのならば、限界内閣とか限界政党とか、 そうした現実が他にもうようよあるだろう。
頑張っているささやかなコミュニティに、そんな意地の悪い表現を適用するのは、 学者先生が何と言おうが、やはり思いやりがなく不適当だと思うし、憤慨を禁じえない村長さん達には、中央にないがしろにされたその怒りをエネルギーに替えて−映画「ウェールズの山」の住民みたいに−、ぜひ未来へ進んでほしいと願う。
2006年12月19日(火) 絶望アピール 2005年12月19日(月) 2004年12月19日(日)
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