自分の好みが体系的に整っているものであるのは、 自分が体系的でないからと常々承知している。
とにかく自分は気まぐれで、興味のゆくところは体系とは程通い。
だから、情報の海の中で網を打つ場所はまるで一貫性がないのだが、 ときどき、偶然に同じ魚が連続して網にかかることがある。 こういうつながり方を、私はどちらかというと大切にする方である。
そういうわけで、「裁判」というキーワードで3つの話。
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「裁判員制度 根底に動員の思想」という見出しで、 西野喜一さんという新潟大教授の方の新聞記事。 この方は、東京地裁判事補、新潟地裁判事などを経て現職にいる、裁判のプロである。 興味深かった部分は以下のとおり。
国がつくった法制度を絶対的なものとして、その枠内で思考せよと強要するのは、思想統制につながる危険性がある。という指摘。
陪審員制をとる米国の事例から、裁判員制度によって誤判や冤罪が増えることは、まず認識しておかなければならない、という指摘。 人が人を裁く以上誤りは避けられないが、誤りが発見しやすく、かつ救済ができるようにしておかなければならない。ところが裁判員制度はその目的にかなっておらず、憲法が保障する「公平な裁判所で裁判を受ける権利」を侵害する疑いがあるというわけである。
さらに西野氏が一般市民に向けたコメント。 「裁判員制度がこの国とわれわれに何をもたらす可能性があるのか。主権者として生きるとはどういうことなのか。一人一人がまじめに問い、考えて、行動してほしい」
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映画監督である周防正行氏が書いた「それでもボクはやってない」という本。
周防監督による同名の映画がある。 監督はある冤罪事件をきっかけに裁判制度に強い関心を抱いたそうである。 映画制作にあたって法律や裁判の猛勉強をし、数多くの裁判を傍聴し、関係者へのヒアリングを行なった。
そしてこの本は、監督が映画の中で未解決だった部分を本にしたものである。
本の構成は、映画の全シナリオ、削除したシーンの解説、そして「刑事裁判の心」の著者である元裁判官の木谷明氏との対談、となっている。
この「刑事裁判の心」という本は、監督が映画制作を心に決めたきっかけとなった本なのだそうである。
興味深かった部分は数多いが、特に裁判員制度に関して1点。 木谷氏との対談の中での、周防監督のコメントである。長くなるが引用。
「裁判員制度に関しては、「あなたは人を裁けますか」といった形で宣伝していますが、これは裁判の経験がない一般の人達を怖気づかせてしまうのではないですかね。つまり、法廷で明らかになった証拠を基に、目の前に立つ被告人が有罪であるか無罪であるかを自分で考え、判断しなさいと言っているように思えてしまう。「裁判員」が判断しなければいけないのは、そこじゃないと思うんですよ。「検察官の有罪立証に、なるほどその通りだと思えば有罪。一つでも有罪立証に疑問があれば、無罪」こう伝えるべきだと思う。要するに、最終的に裁くことになるのは被告人かもしれないけれど、実際に裁判で裁かなければならないのは、「検察官の有罪立証」である、ということです。自分で勝手に証拠を判断し、組み立てて、有罪か無罪かを判断するのではなく、検察官の証明に納得したかしないか、それを言えばいいのだと考えています。」
検察官の有罪立証というものが、いかに一般常識では納得いかない疑問だらけのもので構築されているか、という確証があるコメントだと思う。
納得したら有罪にすればいいんですよ。でも皆さんきっと納得できないと思いますよ、と監督が暗示する根拠は、映画の中に表現されている。
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3つめ。最後の裁判は、「オキナワノート」に記載された「強制集団死」の内容をめぐって著書の大江健三郎氏に損害賠償を求めている裁判。11月9日に本人尋問が行われたその新聞記事。
この老いた作家は、色々な評価がつきまとう。 ノーベル賞作家と賞賛されたり、一方で詭弁者と揶揄されたりするわけである。
はっきり分かるのは、その評価のどちらもが、 この人の、揺るぎない言葉と表現の力に起因していることである。
記録から、この老作家への反対尋問はさぞやりにくかったことと想像する。 この老作家は、全身全霊と作家生命を賭け、燃え上がるようなエネルギーでもって、 この裁判を戦うのにもっとも適切な表現を紡ぎだしている。 そういう静かな気迫が、記録から伝わってくる。
この裁判の行方は、最終弁論が21日に大阪地方裁判所であって、 年明けに公判となるそうである。
2006年12月18日(月) 協力か介入か
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