辻井喬氏の記事。 「世界のその先が見えてしまう人だとしても、人は絶望してよいというものではないのです」と書いてある。
辺見庸氏の記事。 「自分の言葉に身体をかけて責任を持つ単独者であり続けなさい。にせ金の言葉と対極にある自分の言葉を、へどもどしながらでも話す存在。その人が放つ光はかすかな微光のようなものかもしれないが、それが単独者の崇高さだ。私も固い結晶体のような本物の言葉を、残りの生で命の限り紡いでいきたい」という。
高村薫氏の記事。 「これからは地方の時代」なるタイトルで書かれているが、弱弱しい。 天下国家を論じることへのあきらめのように感じられる。
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私の好きな人たちは皆、これほどまでに絶望している。
教育基本法改正案が可決されたことを象徴として、 この国の地軸がぐらっと傾きを変えたことを感じている。
同時に、彼らは自分の抱える無力感と絶望を、 どうやって次の希望へつなげようかと考えている。
人の尊厳をこれ以上目減りさせないために何が必要か、 気力をふりしぼって思考を止めずにいることが、切ないほど伝わってくる。
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しかしながら−彼らに敬意を表しつつ− 無芸無才の私は、いっそもう、声を大にして絶望を唱えようと思う。 この国に絶望していますと、家の前に張紙でもしたらいいとさえ思う。
不満や反対の声は、残念ながらもう為政者の誰の心も動かさないし、 理詰めの反論も、過ちを質し、正す力をもたない。
どれも、意図的に見過ごされるか、 筋違いの無駄な動きを喚起するだけである。
だから、そんなことはもうやめて、 良心ある国民は−私は−ここで一旦、絶望を唱えようではないか。
どうせなら世界中のクリスマス騒ぎに便乗して、 先進国日本では、国民が国の未来に絶望していることを、 この際大々的に、国際社会へむかってアピールしたい。 はっきり言ってもうお先真っ暗ですと、何の要求もなく、ただ主張したい。
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年の瀬に捨て鉢な悪ふざけはおやめなさいと叱られそうである。
言訳をするならば、もう駄目だと思っている本心を偽り、変に頑張るのは、 それは美徳ではなく、今そこにある病を悪化させるだけだと思うのである。
何よりも、もう嫌だこんな国、と声を大にして言えなくなったら、 −今と同じ状況でそう思うことすらなくなったら− それは本当に終わりなのだ。
2005年12月19日(月) 2004年12月19日(日)
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