浅間日記

2007年05月01日(火) 静かに耐える

鷲田清一「『待つ』ということ」。

「現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。私たちは意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。偶然を待つ、自分を越えたものにつきしたがう、未来というものの訪れを待ち受けるなど、「待つ」という行為や感覚からの認識を、臨床哲学の視点から考察する。」

「臨床哲学の視点」とは一体何のことやら、と思いながらも、
タイトルと、そして裏表紙に書いてあったこんな文章に興味を誘われて読む。



「それではAとは一体なんだろうか・・・・Bであると考えられる」の繰り返しからなる、待つことに関する考察。

日記には書くべきことを書いたと見切りをつけた自分を、
大きな間違いと反省する。

私はただ、何か深い穴に通じている気配のある場所の、
その表面をなぞっただけ、否、眺めただけである。

掘り下げたものと場所を見つけただけの者では、
到達する地点がこんなに違うのか、ということを見せつけられた。
自分が手詰まりとしたその次の手を教えられた碁のようである。

哲学という専門分野の人は、こんなに執拗に、失礼ながら、
さして有益でもないことを考え続けられるものなのか?

思考の深さは、一体何の違いによるのか。
思考を継続しようという哲学的探究心みたいなものが、あるのだろうか。




自分が足を止めた地点へ、深い深い穴を掘り続ける。
そういう力を、鷲田氏の真似でも何ででも自分のものにしたい。
強く、そう思う。

時代の不条理に対して、自分を損なわず静かに耐える力というのは、
−そういうものが必要だとしたら−、
それは多分、暗い穴をひたすら堀りすすむような、深い思考で培われるに違いない。

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