有史以来、ヒトは直立歩行の負荷をかけている。 だから疲れたときは横になるのがとりあえず有効と、このたびの事件で実感した。 「寝てれば治る」というのはあながち間違いでない。
というわけで味をしめて、横になって駄考。
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世界が時代の波にさらされ動揺するとき、 信頼できる表現者が何を考えているかは、気になることだ。
そういう理由で、村上春樹氏が次に何を表現するのか、この数年間ずっと気になっていた。 もちろんその関心と期待は、彼の作品の要である長編作品に向けられたものだった。
でも、彼がした最近の大きな仕事は「グレートギャッツビー」の翻訳だった。
彼がこのフィッツジェラルドの小説をいかに大切にしてきたとはいえ、 翻訳である以上、自分の世界を100%反映させてものではない。
少し驚き、なぜだろうと思った。 この人は再び、世界とコミットすることをやめたのだろうかとすら思った。
だからその真意が書いてあるかなと、訳者あとがきを先に読み始めたのである。 そこには、自分の人生上の計画を少し前倒しして翻訳にとりかかったとあって、 その理由には別のことが書かれているけれども、 翻訳版を読み終えた後、この前倒しは彼にとって世界とのコミットメントであったのだと、勝手に思う。
彼はどうしても、この物語を今この時代に再生したかったのだ。
古びた言い回しの煤を丁寧にぬぐい、物語の本質である輝きまで磨き上げ、 現代に生きる物語として大修理をした。
その成果からは、この作品の真髄であり村上氏が言うところのアメリカン・ドラマツルギー −人々の崇高な理念で始まり、経過は幾分喜劇的であり、最後は悲劇である−が、 今のアメリカというふるまいの中に、少しも変わらない姿で存在することが、浮かび上がる。
たぶん村上春樹氏はアメリカを映す鏡を磨いたのだろう。 そこに映る姿の一部は、すでに日本にもしみついている。
2005年03月06日(日) 下山道 2004年03月06日(土) 家畜人ヤプーである状態
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