ニューヨークの病院で米国初の子宮移植を計画、というニュース。
性と生殖に関する技術や倫理は、恐ろしい速度で変化している。 そして少しずつ、確実に普及してゆく。
ひとたび普及すれば、 生まれてきた命を否定することは、ほとんど難しい。
自分の友人や同僚や親戚とか、身近な存在に対して、 「私の生命倫理に照らし合わせると、あなたは生まれてくるべきではなかった」と、果たして言えるだろうか。
多分、絶対に私はそれを言えないだろう。 もし「それは本来あるべきでない」と思ったとしても。
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倫理というのは、たやすくひっくり返る。 オセロゲームみたいに、一瞬で反転する。
そうだから、この先、生殖技術が普及してゆけば、 現在当たり前のようにしている生殖や分娩をすることは、 前近代的で野蛮な習慣と言われるようになるかもしれない。
セックスなど野蛮な行為を通して生まれた命は野蛮なものである、 産婦まかせの不安定な分娩によって誕生した命は不安定なものである、 本能にまかせた生殖や分娩行為は、野蛮な習慣である、 将来、そうした価値観をもつ人が現れるかもしれない。
私は「私の生命倫理に照らし合わせると、あなたは生まれてくるべきではなかった」という科白を、 親切な誰かに押し殺してもらわねばならないかも知れないのだ。
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倫理や価値観など、いつでもひっくり返る。 そして、何かを否定しなければ自分が肯定されない、 そうした状況においては、なおさらである。
要するに、「己の存在理由」という根本的な問題において、 二つの事実が真に同時に肯定されるとは、私は思えないのである。
その矛盾が顕在化する将来、彼らにどのような救いが有効なのか、 申し訳ないが、今の私にはわからない。
2006年01月19日(木) 2005年01月19日(水) 草稿
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