安倍総理の「美しい国」。
どんな思い入れがあるのかわからないけれど、 藤原正彦氏の著作「国家の品格」の向こうをはったのか知らないけれど、 政治家が政治の舞台で「美しい」という表現を使用するのは、 やめてほしいなあと思う。 別に安倍総理でなくても、また彼の理念の方向に関わらず、そう思う。
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芸術表現というものは−絵画や音楽や舞踊とか−、そのまま受け取るしか術がない。 言葉にできない部分に、喜びと意味がある、ともいえる。
でもこれは、芸術を受け取る側の気持ちとしては、つらいところなのである。 村上春樹だって、音楽評論で言っている。 「聴けばわかるし聴かなければわからない。でもそう言ってしまったら元も子もないので」と。
では、例えば音楽なら音楽でうけとめた感動を、 なにか他の、言葉でない表現方法で返そうという、芸術家同士のような −あるいはある種の原始的な−やりとりを試みるのも楽しいけれど、それはあくまで余興である。
芸才のないもの−私のような−がそんなことをしたら、 変換ロス99%、まるで伝達の意味をなさない。 芸術による感動のアウトプットは、難しい。
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芸術表現に感動した人は、何とかその感動を言葉で表現したいと願う。 無理を承知で思う。
そして我々は有史以来、苦慮に苦慮を重ねた結果、 「美しい」という言葉を開発したのだ。
だから思う。 国策など、他にいくらでも表現のしようがあるではないか。 政治の土俵なら、もっと具体的な言葉を使えばよいではないか。
この尊い言葉を、そっちの世界にもってゆかないでくれ。
できれば芸術評論家とよばれる方々には、ぜひにでも総理に苦言を呈し、 それは芸術を人生の友とする者にとっての権利侵害であることを主張していただきたい。
2005年10月01日(土) 狂気のオクトーバー・フェスタ
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