今年も火の祭り。
「お祭りおめでとうございます」の挨拶を交わしながら、夜道を神社へ歩く。 今年のY君夫妻は当番ではないから、すっかり観客を決め込んでいる。 Aは、知らないおじさんから「こわいぞう」などと言われて、既に顔面蒼白。
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この夏の間ずっと、間違って出かけてしまった祭りの、 嫌な後味を引きずっていた。
すきまなく照らし出す照明、 スピーカーから止むことなく繰り返されるデジタル音楽、 企業名が入った法被の一糸乱れぬマスゲーム、 道端にうつろな目をしてしゃがみこむ茶色い若者達、 飽和する露店商と、そこいら中に張り巡らされる警備体制。
何という廃頽か!と気分の悪い思いで家に退散した。 早く忘れ去りたかったが、管理社会へ向かう世の中を象徴するように、 その風景は自分の中に居座った。
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その口直しの、秋祭りなんである。
暗闇のなか、流星みたいに境内に向かってはしる火で、祭りがはじまる。 今年はうまいこと火が渡ったね、と口々に安堵する。
あいかわらず、あきれるほどの火の粉と炎。人々の熱気。 しかも、その狂気は「この上なくめでたいこと」と承認されている。
おそらく、初めはささやかな炎の奉納だったのだろう。 何十代もの世代をかけて、いつしかこんなにエスカレートし、 おかげで祭りの当番は、相当念入りな準備が必要になった。 何しろ祭りの成功は、その年の縁起を左右する重要事項と皆認識している。
子どもが泣き、震え上がるような本格派の馬鹿騒ぎを、 大人が皆一同に、大丈夫だ、めでたいのだ、といえるのは、 時間をかけた信頼関係あってこそかもしれない。
そして、今どきの世の中ではもう、この上ない贅沢品といえるこの祭りは、 この先もずっと引き継がれる力強さをもっている。
境内に降り注ぐ火の粉が、今年はやけに美しいなと感じる。 日本ももうだめだと悲観気味な私に、金色の粒が、大丈夫だと降り注ぐ。
2005年09月30日(金) 毒入り林檎パイ 2004年09月30日(木) 日記の初日観察日記
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