2005年09月24日(土) |
生物化学的信仰要求量 |
Aと1日過ごす。
森の精気漂う朝の公園で、コーヒーを飲みながら新聞を読む。 土曜日のお楽しみである。
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「祈り失った現代の労働」という見出しの、内山節の定期連載記事。 今回の彼の論調は、いつになくホットだ。 「私たちの時代は、根本的な何かが間違っている。」という結びは、哲学者という肩書きで表現すべき域を出ているかもしれない。
概要を記録する。
かつて日本の社会には、仕事と結びついて信仰されてきた様々な神様が存在した。 山仕事には山仕事の、漁業には漁業の、商いには商いの、芸事には芸事の神が、 明確な教義や布教の必要性もなくその世界に携わる人々の手で守られてきた。
そうした信仰は、仕事における他者の存在、つまり、すぐれた仕事というのは、自分からの働きかけと自分の外から働きかけられることとの重なり合うなかに成立するという仕事観があったからだ。
そして仕事において技を深めるというのは、外からの働きかけに心を傾け、学ぶということにほかならないものであった。
仕事から神や祈りが消えた現代の労働は、何を失ったのだろうか、と氏は自問する。 以下抜粋すると、こういうわけである。
「働きかけられながら働くことを忘れたとき、仕事のなかから他者がみえなくなった。あるいは、他者は消費者、納入先、発注者というように、自分の側から設定した他者にすぎなくなった。(中略)労働者が自分の働きだけになったからこそ、市場での勝者になることが目的となり、仕事とは自己実現であるなどというような品のない言葉が、大手を振って通用する時代が生まれたのではなかったか。 私たちの時代は、根本的な何かが間違っている。」
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「労働」というテーマでつづられているけれど、多分これは、人生の質と同義だろう。 −もっとも、生き様と仕事というのは不可分である場合が多いのだが−。
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誰しも実は、他者の存在を感じて祈りたいと、そう思っているのだ。 だからあれほど、結果の見えないものへ、こぞって熱狂する。 ゲームスポーツとか、あろうことか選挙にまで。 あの熱狂は、決して戦略の分析やなんかを楽しんでいるのではないのだ。
そうやって無意識のうちにに求めてしまうぐらい、 人智を超えた他者を意識することは、人生を支えることに不可欠である。 しかし簡単にその欠乏を表現できるものではない。 BOD(生物化学的酸素要求量)みたいに数値化もできない。
不可欠であるのと同時にまた、内山節が言うところのそうした 「祈りや信仰」は、本来カジュアルで自然で、実用的なものだ。 焼き魚の横の大根おろしみたいに、自分の傍にあって然るべきものなのだ。
そういう在りようを捻じ曲げ、暮らしから祈りを欠乏させている一因である 「宗教」というのは、まったく罪だなと思う。
2004年09月24日(金) リセエンヌの男料理世界
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