ロンドンの爆発物テロの犯人逮捕のニュース。
悪いタイミングだなあと思いつつ、新幹線を使った移動。 何だか気持ちが悪いというだけではない。 明らかに方向違いに気分が昂揚しているJR職員を見たりするのが憂鬱なのだ。
テロリズムが問題なのは、暴力によって世界を混乱させるからだ。イギリス人やアメリカ人や日本人が大量に死ぬから問題なのではない。
* テレビやニュースでは、毎日事件が起きて人が死ぬ。 もう何百万人もの死の情報に、私たちは曝されている。だから当たり前のことを忘れてしまう。
人は必ず死ぬ。テロで命を落とさなくても、いつかは必ず死ぬ。 そして、万人に等しく、一回しか死ぬことができない。 情報として何百パターンもの死を知っていても、実際に実践できるチャンスは1回だ。 今のはイケてなかったからもう1回というような、ホームビデオの撮影みたいにはいかない。
そうだから、悲惨な死を回避するのと同じぐらいの関心でどんな最期を望むのか考えておかなければ、これはバランスが悪い。
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病院で息を引き取る割合は、高度成長期に激増した。 テレビで観るご臨終は必ず病院のピー音があるし、それを不思議にも思わない。 でも、家族に囲まれてゆっくりととか、大好きなライフワークをやっている最中にとか、海辺でとか、眠っているうちにとか、色々あると思うんである。
昨今、葬式をかつての披露宴のごとくアレンジする向きがあるけれど −葬儀の曲はレクイエムでとか、骨は散骨でとか− 葬式をやるためには死ななければいけないのだから、まずこちらを先に気にしたほうがいい。
* 死に対するリアリティがないと、怖いばかりになる。民衆の不安感情は政治の道具にされる。 危機管理や安全管理に対する政策の中に、「自分達は永遠に死なない」という在り得ない希望を含めてやしないか、と時々疑問に思う。 特に政治のリーダー達やマスコミは、国民にそんな嘘っぱちな、誰が考えてもありえない紛い物をちらつかせて、世論をいじくろうとはしてまいか。 どんな優れた政治家が民衆の上に立ったとしても、人は生まれたり死んだりするんである。
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運命という一人一枚の抽選券をもって、「あたりの死」と「はずれの死」が混じるくじを引く。 自分専用の抽選箱に細工をして、あたりの確率を高めていくのが、生きていくということだと思う。
そして私は、はずれを除いていく細工よりも、あたりを増やしていく細工のほうが、何となく最後に当たり、それも「大当たりハワイ旅行」みたいなヤツを掴めそうに思うんである。
2004年07月14日(水) 見た目から入る話
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