無茶をするAを親の強権をもって牽制した後に、しばしばある涙の告白の一つが、 私と同じにやってみたかった、というもの。
模倣というのは、お手軽に自己実現を可能とする方法なのである。
* 愛知のスーパーで、一歳の男の子が亡くなった事件。 大阪の学校で、教員が刺殺された事件。
殺人事件に関して、加害者を庇う気持ちは毛頭ない。 犯罪というのは、法に照らし合わせて罰せられなければならない。 その一方で、犯罪社会学という分野は何をやっているのだ、という不満がある。
学校での殺人も、子どもを無差別に殺すことも、もはや全く驚愕ではない。 そういう事実を客観的に捉えるべきだ。 マスコミも、もういちいち驚くふりをする必要はない。 もう少し深い報道を、市民は求めている。
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模倣は、たやすく実行可能である。 偽札事件や、振りこめ詐欺や、個人情報流出、みんな拡大再生産されている。 犯罪だけではない。 個人の怒りや不満をぶつけるような、数々のマナー違反や嫌がらせや小さな暴力だって、所詮は全て模倣なのだ。
善い振るまいと同じ量と力をもって、悪い振るまいは伝播する。 日本の場合、これは圧倒的にインターネットの力だと私は思う。 ウエッブの世界というのは、破壊と創造が一つに宿る何かの宗教神のように、 可能性の器であるだけだから、それ自体を否定することはできない、と私は思う。 ウェッブの世界で善と悪のどちらが勢力をふるうかは、結局のところ政治や経済のありようであり、 そういう意味で、今の政治にはこれまでにないスピードで多くのことが求められる。
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殺意や暴力や悪意がこれほどまでにたやすく模倣される社会では、 もう次世代の子ども達に、社会的であれ、と言うことはできない。 模倣犯罪者たちは、すさんだ社会を反映した、という点で、 それも、既に検証された方法で反映した、という点で、 極めて社会的な資質を備えている。決して異質な人間ではない。
だから思う。今必要なのは、社会性などではなく、力強い個性だ。 良い行いをしなさいなんて、誰だって言えるし、誰だってそう思う。 でも善意の模倣は、その母樹を失いつつある。
だから、現実的で実効性があり、未来を託すことができる言葉があるとすれば、 社会には、沢山の悪意や、策略や、それを支える金勘定なんかの誘惑が蔓延しているけれど、 どんなに異端になっても自分は自分の道をゆく、という自立した個をもちなさい、 簡単に人の真似をしてはいけないよ、と伝えることぐらいなのだ。
2004年02月18日(水) 馬鹿でもないし迷走でもない恐怖
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