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■ 空を見る 皐月も終わり衣替え 移ろう季節追いかけるよに
急に気温が上がって、汗ばむ日が続いた五月の後半。
練ちゃんは、時々潜り込んでいた猫炬燵や、潜り込んでいたり最近はふかふかと身を埋めていた座椅子の掛蒲団からも脱却して、私の仕事部屋の椅子を居場所と定めました、つまり、春も去ったのです。
室温や湿度、風の流れを総合して、一番、居心地のいい場所を探すのは、猫の得意技。うっかり、出先で手間取って帰宅が遅くなると、娘を持った父親のように玄関からトイレにまでついてきて、うにゃうにゃと文句を言う練ちゃんも、やはり猫なんですね、と実感する季節の変わり目。
練ちゃんの体調は相変わらずです。歳ですし。 食欲もあり、多少の爆弾は抱えていますが、おおむねご機嫌に過ごしているので、よし、としますか。
来年、オリンピックを控えている一環として、ベジタリアンやビーガンについての番組企画が目に付くのは、私が食いしん坊だから、でしょうか。
宗教上や健康上の理由に基づく彼らの主張は、当然のことだと思います。 思想上(環境保護?)の理由に基づく主張も、理解できます。 薬剤や化粧品のための動物実験、人間の食のために不自然な食事を強制的に与えられる食肉動物、それをすべてフラットにすることが、果たしてできるのか、というジレンマは私にもあります。 ただ、過激な集団になると「肉食は人間以外の種の搾取だ」と主張し、精肉関係者を襲ったりする事件が海外では頻発していると聞いて、それについては「う〜ん」と思わざえるを得ません。
理由は2つあります。
その1: 確かに、今の食肉生産の現場と流通・市場とその消費に問題がないとは思いません。 食肉用の牛1頭を養うための穀物量と、人間が必要とする穀物の量を比較した場合、餓死者の何人が救われるか、などという比較があったりします。 また、フォアグラを作るのは、虐待ではないのか? あるいはサシの多い和牛をつくるのは、虐待ではないのか? 難しい問題です。 食べてなければいい、というのは、そうなのですが、そこに絡んで発展してきた食文化というものもあります。それを否定していいのだろうか、という疑問があります。 まあ、文化なんて余禄の一部、ましてや食文化なんて、とも言えるかもしれません。 でも、人間はもともと、木の実などを採取し、時に動物を狩り、獲物を得たときは、干し肉にするなどして、命をつないできた歴史があるわけです。そこも、否定するのだろうか? という、非常に素朴な疑問です。
その2: こちらのほうが、メインなのですが。 肉食を拒否する彼らは結局、代用肉(大豆由来)や代用乳(豆乳)を使うわけです。 植物油をたっぷり使って調理された代用肉に、たっぷりのトマトソースをかけた料理を見て、なんか違うよな、という印象がぬぐえません。結局、普通の豚肉を使ったソーセージをラードで調理してトマトソースをかけたものの代用を求めているだけ、としか。 肉を食べていなければいいのだ、というのが彼らの主張ですが、じゃあ、植物ならいくらでも搾取してもいいのでしょうか? 代用肉のために大豆の需要が上がったら、日本の豆腐や揚げや湯葉はどこにいくの? 高級品になってしまうの? それとも、世界中に大豆畑が広がるの? その大地を肥沃な地として維持していくのは、だれ? 何?
他の種を搾取するな、というなら、植物だって一つの種です。 動物のように鳴かないし、動かないし、自己主張しないし、だから、搾取することに痛痒を覚えないというのなら、片腹痛いです。
植物だって、種をつないでいくために葉を茂らせ花を咲かせ、根や茎に栄養をためたり実をつけたりしているのに、人間はそれらを搾取しているのです。 コメもムギも豆も、すべてそうやって、手に入れているのです。 だから、お米の一粒を大事にする、それが、命をいただくことだから。 その意識なく、肉じゃないから肉の代わりにいくらでも消費する、というのは、「違うよな」としか思えない私は、偏屈なんでしょうかね。
2019年05月30日(木)
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