かたほうだけのパンプス
敦子



 パスタプロント

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ミネストローネをはじめとした魚系のメニューがおいしいの。ということでメヒコ風のカジュアル食堂へ行った。友達Sは、カウンターで注文なれしているみたいで、これとこれで英語らしき言葉を発して人差し指一本をたててから店内を目で席を探した。行こうっ!
店内には私たちのほかは誰もいなかった。
あとからタンクトップとか季節感なんて無視したいでたちのメヒコ人なのか?スペイン語圏の子ずれの女性がどたどたと入ってきた。
そこで食事してからカールズバットへ行った。
キレイなところ見せたいのよ。でも、ごめん、中へは入場料がかかるから。と園の外からもじゅうぶんきれいな花畑を見せてくれたときにSは携帯電話を受けていた。


ごめん、急きょ行くことになったからと、カーナビをたよってデルマーに向かった。Sは現地で東日本大震災への支援ボランティアグループ「サンディエゴジェーン」を立ち上げていた。
ロスからSに会いに来てる人がいるという。
その頃のSたちは必死だった。日本を離れて外国に住んでも本国を思う気持ちをカタチにしようと結束を組み、ボランティア活動や動員出来るイベントの立ち上げ等に懸命だった。

待ち合わせは、デルマーのマンゴータルトがおいしいと有名なパスタプロント。
うん、行ったことあるよ。でもしばらく行ってないな。そう言いながらもSは間違えないでパスタプロントの駐車場へ車をつけた。
ロスからわざわざ来たというのは、50代後半くらいの女性。TシャツにGパンというラフな身なりは構わないタイプ。
とってもハンサムな男性と座っていた。
彼ね、新婚旅行中なのよ。air bnbというサイトを通じてやって来たお客様らしい。奥様は体調不良で連れてこれなかったという。大丈夫でしょうか?はい、ありがとうございます。礼儀のいい青年。
ari bnbというのは、現地の人の家の空き部屋を泊まらせるというサイト。カウチサーフィンと言って、ちゃんとしたベッドの部屋というよりリビングのソファーでいいならと一般宅のカウチソファーを泊まり歩くというようなスタイルの旅。50代後半くらいの女性ISIさんは、そういことでairbnbというサイトに募集を載せていて今まで様々な旅行者が訪れたという。世界中からやってくるので、なかにはパソコンを持っていちゃったり、トラブルつづきだというカウチサーフィンの実態を話しはじめた。
注文して出て来たマンゴータルトは大きくて、大きくて。ここへ来る前に寄った魚系のメヒコ系の店トロッパーズでの食事の後だし、コーヒーもカップなみなみと出てくるし・・・。ここはアメリカ、盛りがチガウナ〜。

彼女らを引き合わせてくれたA美さんは、どうかなー?と互いの顔色を伺っていた。

ISIさんは、ロスでアニメ系のフェスで相当数の動員があったことを話しはじめた。日本から無料か、低価格でフィルムを貸してもらえるからそれの上映でチャリティにする件でSの反応をみていた。Sは、上映する映画をまだ見ていないとか、借りれるものなのか?とか、どこで仕入れたのかH田真二がチャリティでコンサートを開いてもいいよと言ってくれているなど情報が飛び交う。

二時間ほどそういう話があって結局まとまらず店を出ることに。A美さんは、帰ろうとするSに詰め寄るようにして、どうかなぁ?と聞いてくる。答えらしい答えを返さずにSは、じゃっ!と私が車に乗ったらすぐにエンジン吹かしてパスタプロントを後にした。



2014年06月29日(日)



 セイフーのレポート用紙

※ファンブログからの引越し分


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認知症になった父、住宅の移動が決まっている。
月に一回、父の荷物の整理をしに実家へ通っている。母は白内障で目がだめで、それに整理する意欲もセンスもない。弟もそういうことへの必要性に焦るとか行動はしない。

父は、何から何でも取っておくタイプ。ゴミに相当するようなメモ、伝言メモ、ダイレクトメール、手紙の下書き、大事な書類。すべて段ボール箱に放り込んでおいてあってそういう箱が何箱もあった。それを整理するのだ。母や弟は捨てちゃえば。と言っていたが、とんでもない。なかに土地相続の途中になっている戸籍とか相続に必要書類とか、家族や一族に関わる大事なことが書かれたメモなどがたっぷりあった。
そういうめちゃくちゃに詰まった段ボール箱のなかに全然関係性のない書類と書類の間にはさまっていたレポート用紙。よく使ったとみえてだいぶ薄くなっていて表紙と裏表紙の間にのこり数枚という状態だった。カビとホコリ臭さがしてモノとしてはやつれて末期的な存在価値。

レポート用紙の裏側のねずみ色の厚紙に小さな値段シールが貼ってあった。128円。そしてそのシールをよおく見るとそれはセイフーチェーンというスーパーマーケットで買ったものだということがわかった。

セイフーチェーンといえば、私が小学生から高校三年生まで暮らした街に食料品から衣料品からちょっとしたインテリア雑貨まで網羅して当時は新しいスーパーマーケットだった。

セイフーチェーンは昭和40年代に日本中に大流行したボーリング場の跡地に建てられた。
平成の今、そこらに住む人たちのなかでかつて世田谷の三軒茶屋にボーリング場があったなんてことを知っている人が何人いることだか・・・。ボーリング場は当時としてはとってもモダンで外付けのらせん階段があった。父の弟が田舎から上京したときに遊びに行ったことがあった。当時私はまだ就学前で大人たちがボーリング遊びをしていた空気だけは覚えていた。でもそれが、終わったのだ。そばを通るとボーリング場の音が建物から漏れていてちょっとリッチな感じもしていた。でもボーリング場の営業が停止し何も音がなくなった。まだ使えそうなくらいに元気はある建造物だったが、使われなくなったものは始末の悪いゴミと化していた。

何年間は放置されていた。今はもうないと思うけれどもそうとう経った頃までそのボーリング場の通りへうながす角地にあるビルに「田園ボール」という看板が掲げられていた。ボーリング場が壊されてセイフーチェーンに建て替えられて十年以上経っているのに未だにそこは田園ボールという案内となっていた。

そのセイフーチェーンに友達のにいちゃん(お兄さん)が就職していた。まさか!そこに〜。そこに就職したの。もっといい会社とかじゃなくて?会社は大きいと思うんだけれどもスーパーマーケットという庶民的なところにという意味で一応名の通った大卒のにいちゃんなのでもっと難しそうな業種や会社に入るイメージがあったから。
にいちゃんは、小柄で脇役俳優さんみたいなキャラだった。ずいぶんお世話になったから悪くは書けないけどイケメンの反対側に所属かなぁ。とにかく誰もにいちゃんの悪口言うことなんて絶対にないような実によい人だった。そんないいにいちゃんが働いていたスーパーマーケットで父はレポート用紙を買っていた。

でも、いつの間にかにいちゃんはセイフーチェーンを辞めて家業の蒲団屋を継いでいた。真面目で地味で昭和の世界に多くいたような人だった。
セイフーチェーンの値段シールを見てボーリング場のことや友達のにいちゃんのことがどっと思い出された。

父は私がせっせと荷物の整理をしていることなどわかっていない。忘れたのか。覚えていないのか。わからなくなっているのか。言えばなんとなくあーそうねとか記憶の糸はまだ薄く繋がっていて切れてはいない。

ボーリング場の音が耳元でフェードアウトして、カビ臭さがしみついたレポート用紙がたくさんの事柄の重みに耐えられなくなって彼の使命が終わったから、表紙と中身に残っているまだ使える用紙を分別して処分した。

もうボーリング場は、この世には存在してなくて人々の記憶のなかにだけあって、セイフーチェーンで働いていたにいちゃんの在りし日の姿は私たちの思い出のなかだけに生きていて、生きている父は記憶は活かせなくなってきていて・・・。




2014年06月28日(土)



 ブログを引っ越したのは・・・

※一時的に作ったブログ「ファンブログ」から今年の3月にパソコンを買い替えた。今後の人生をどうするか、それまでは漠然としていたけれど、きちんと立て直し動くことに。その手始めがパソコンを買い替えたことだった。
いくつか試験的にブログを作ったが、試験的なことで終わった。
私は、8年前に倒れたのだ。生死をさまよった。私は、眠っていて私自身が覚えていたことと家族の言うことが食い違う。

もし、私の以前のブログから追って読んでくれた人がいたら、この女ちょくちょくブログ変えて落ち着かんなーと思わるだろう。そう、私自身まだどの、どこ行きの乗り物に乗るか決め兼ねていた。

実は、ちょっと背伸びをしてWordPressのブログをはじめてみた。が、扱いに戸惑った。私がやりたいこととずれていることにも気づいた。そもそも私はライフハックとかいうジャンルの人間ではないし、IT業界のITが居心地いいわけではない。

ネット接続やウェブ運営のノウハウに興味がないわけではないが、それが私の特意とするところではないのできつくなってきた。そういうブログを立ちあげて運営している人がかっこいいと思うけれども私には結局無理なヤマだった。

ノマドとかいう属性って今風でかっこいいじゃないですか。でも私は違った。ノマドで生き方を方向転換した人、多くはITにアレルギーがない私よりずっと下の世代の人たちだ。世代は関係がないが、私が就職したころは、まだ算盤をはじいていたくらい昔なのだ。
でも、社会はコンピュター化するんだと企業がこぞってシステム変更しだした。その頃まだ多くの会社にはFAXはなくて、FAXは、会社に一台しかなくていちいち手動で切り替えていた。だから仕事がおそいし、そして遅れた。

会社でパソコンを導入するというのは、その頃は人手がいらなくなることだと察知できないくらいにボンクラな人が大半だった。何のために企業がコンピューター化するんだ!と言っているのがよくわかってなかった。かっこいいからとか、時代だとか、今は文明がすすんですごいから導入するのねくらいにしか言ってなかった。誰も「あなたをいらなくするためよ」とは思ってなかった。
人件費カットできて低コストしたら企業はいいのだ。でも、依然として賃上げ要求のストを労組たちはやめなかった。
私は、年下の世代から(私は’60年代生まれ)バブルを知っている世代というふうにしかみられていないかもしれないけれども、そうではないのだ。バブルゆえに方向転換させられた人や事業名を変えられた企業や人の欲に絡んで生き死にした人を知っている世代なのだ。

はじめの投稿にしてはとんがってしまった。が、それまでのブログは、人寄せしたかったから気取ろうとしていた。でも、私はそんなにいい人ではないし、本音をため込んでいられる方ではない。私が好きなブログの人はみな、本音を書いている。だから気取るのはやめよう。ありのままを書いておこう。


2014年06月26日(木)



 竹富島リゾートについて

何年も竹富島へ行ってなかったので、竹富島憲章で決まっている土地売買はいけないと思っていたが、いつの間にかそっくり売られてしまっていた。

「竹富憲章」これって意味なかったわけだ?!

あくまで聞いた話だけをここに記しておこう。

まず、竹富島は、昔から商売はしていけないと言われていて、明治時代中期人頭税が終わって物納から金銭による納税に変わった。
それまで金を見たこともなかった人々にお金という概念が生まれた。
人頭税の重圧から解放されたといえ、お金がないから何もできず、でも金を得る手段は知らない。
そこで、一部の人が、多くの人が農作業しかできないので、農作業で得た豆だとか、収穫したもの織ったミンサーなどをまとめて石垣島へ売りに行って金にしてくれる人が現れた。
そういうことを「アチョーロー」というらしい。私の曾祖母の弟がそれで稼いでいた。
でも、島内では、商売自体はやってはいけないという暗黙のルールのようなものがあった。
戦後だけど島内で商売を始めた者がいたがうまくいかなかった。
でも戦前から島に一軒だけ商売をしているところがあった。
なぜだかそこはそれで成り立っていた。

物納から金銭による納税に変わった時点で金を得る構造にならないとおかしいのだけれども、竹富島では、商売はあまり受け入れられなかった。
現在は、いくつか営業している商店、民宿も何件かある。
竹富島に店がどっと並んでアウトレットモールみたいだったら島の意味はどうか?

そんな特性を持つ竹富島が観光リゾートに売ったのはなぜか?
それは、あまりにも島の土地を売って外へ行く人が増えたので、竹富憲章を作ったのだそうだ。
ところが、あまりにも一生懸命だった当時の町長が島の放置状態な土地を勝手に町長の名義に書き換えていた(噂)
これは、そういう事情にあったXさんから聞いた話だ。

町長にしてみれば島を守る苦肉の策だったのだろう。お蔭で守られた部分がある。
ところが、町長の島の土地守りに支援してくれていた沖縄本島のK場組が経済的におかしくなって支援から手を引いた。
それまで町長が売られた土地を買い戻したり、死守するためにやってきた支援してくれる後ろ盾がなくなった。

それで、借金が加算でみっちもさっちもいかなくなった。
そこへいろいろなところが申し出てきた。
そのなかには、外国資本もあった。
外国に買われてしまうよりはましということで、竹富島の街並み保存を守ること、島の決まりに理解を示してくれる一企業に売ることになったというのが顛末らしい。
本当は、島内外の人は大反対だが、みな一応は賛成にしているかたちをとった。
このことについて島の人は、あまり語りたがらない。
今さら言ってみたことで返ってくるわけでもない。

カタチは譲っても手放しているわけではないのだ。
今、島に住む親戚のおじさんや石垣島の*竹富村(登野城)に住む人々も同じで心中、穏やかではないはずだがポーカーフェィスしているだけさ。
※石垣島の登野城には、竹富島出身者が多く暮らしているので別名竹富村と自分らで呼んでいる





2014年06月19日(木)



 竹富島を調べることになったのは・・・

先祖の地沖縄県「竹富島」を調べ、未来永劫に残すための歴史・文化探求保存をする気になったのは今から一年半ほど前、私に供養を求めている先祖がいるとSNSのチャットで霊視されたことが発端。
歴史の興味や趣味とかではなく、すでに亡くなった血縁の声なき声を探し、先祖からの持越しとなっている事を解決していくことが目的。

霊視されたことが、心の隅に引っかかっていた。
やろう!できる!絶対にやろう!と思い動きだしたのが去年の一月頃から。
はじめは手探りで、わからないことがわからなかった。
でもやっていく毎日。急には見えなかった何かは、ぼんやりとシルエットのよように姿を現しはじめた。

まず認知症になってきた父から少しずつ話を聞き出した。
認知症の年寄りは、今を覚えて今に使える知識を今覚えることは出来ないが、昔のこはよく覚えていて話す。

父から話を聞き、関連を調べ、また聞き調べ。
そして竹富島へ行き、検証しようと!
ということで今年の二月に竹富島へ。
行くことにったのは、これもSNSから。
それは・・・

父は、日本統治時代の南洋、サイパンのガラパン島で生まれた。
父の場合は、戦争が始まるというので強制的に日本へ帰された。
父のような日本統治時代の南洋からの帰還者の「南洋群島帰還者」の会が作られていた。
会で何度も慰霊のために南洋へ行ているらしい。
そこで「南洋群島帰還者の会」のSNSにアクセスしたら、私が辿っている先祖のことのために協力を得られることになった。
南洋群島帰還者の方から直接お話し聞きに一緒に八重山へ行きませんか?ということから八重山へ行くことになった。

実は、それが不思議なことの連続となった。
これは、竹富島の「力」かな?(不思議な?)といい方に考えることにした。

私は、8年前に脳卒中で倒れて左半身に麻痺がでた。日々、回復中だが、今現在は杖を使用して歩行している。
杖なくても歩けないことはないが、道の悪いところや、ずっと立ち止まっていることはできない。
日によってバランスがとれない。だから一人で遠出は無理だし、想像もしなかった。
彼らの支援があるということで安心しきって行くことを決断した。
が、行く直前の二三日前に大雪。
そして行く直前にSNSで知り合った「南洋群島帰還者の会」の人から一緒に行動できません。
との電話が〜。
航空チケットとホテル取っちゃったのでキャンセルはもうできないのでダメもとで行くことにした。

飛行機に乗るまでに何度も絶対絶命かっ?!と思うような想像もしなかったようなことが続いた。
もうダメかもしれない!ということの連続を乗り越えられ、
石垣島の新空港「南島(ぱいぬじま)石垣空港」へ到着。

※南島(ぱいぬじま)とい言い方は、かつてはあまりいい意味では使われていなかったが、
今では、ちょっとかっこいい意味合いで使っているみたいだ。

空港には、前日に急きょ迎えに行くからと電話をくれた親戚が迎えに来てくれていた。
そして、ぎりぎりで船に乗せてもらえて竹富島へ。
竹富島の桟橋で風に吹かれ、民宿を営む親戚が待っていてくれた。

飛行機に乗って石垣島へ着いてからとんとん拍子だった。
以前もそうだった。
今からちょうど30年前。
あのときも一人だった。

今回は、30年前に迎えてくれた人のほとんどが亡くなっていたり、話すことができなくなっていた。
けれど、私が結婚するまでの本籍地の土地を守り続けている民宿を経営する親戚のおじ夫婦は元気だった。
そこで色々聞いた。

ひとつは、私の供養を求めている先祖が誰なのか?
ひとつは、祖父の死ぬまでの軌跡についての手がかり。
そのほか色々聞いた。

一泊しか予定してなかったが、石垣島で親戚のところへ泊まったり、短い日程の間に密度の濃い情報が得られた。

そこで私がやらなくてはいけない先祖からの持越しの問題が見えてきた。

こういうことになるとは思ってなかった。
南洋群島帰還者の会の方とではここまでのことはわからなかった。
きっと、先祖が導いたのだと思った。

私がこうなったのは、私にしかできないことだからなのだろう。
父方の先祖の問題。
母方の祖母の実家の問題。
父方の祖母の家系のこと。
東京在の竹富島出身者の二世、三世、四世・・・。
とにかく世界に過去未来に散って行った竹富島の血縁のある方のために未来永劫に伝えるための活動をし続けるのだ。







2014年06月18日(水)



 ヘルメット

ラリー参戦のために夫が取り寄せたヘルメット。

夫が言うには注文から7か月かかった?
まあ、人づてに頼んだので、直接自分で頼んだらもっと早くに届いたのかもしれない。

昔、バイクに乗っていたのでヘルメットは何度も買って持っていたことがあるという夫。

今回ヘルメットを購入するのは数十年ぶり。

持ってみるとけっこう重いそう。

フルフェイスもあるらしが、夫はこれにした。

首を鍛えないといけないと言い出した。

ヘルメットをつけて運転する。
コドライバーの指示を聞いて運転することを想定するという。




2014年06月17日(火)
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