|
|
■■■
■■
■ 富士登山登頂マラソン完走文学
夫の妹と会った直後の義父に会ったとき。
義父の気分の不快の度合いがなんとなくわかった。
相当受け入れがたい仕打ちに悔やみ、あきらめられない境地を私たちには直接は理解しがたい比喩を用いて吐いていた。
そのときの境地を伝えるに適当なことが思い浮かばないほどに動転して、発してしまった。
ただそれだけのことなんだろう。
「俺は学生時代に『源氏物語』を原文で二度も読んだ。二度もだぞ!二度も。師(せんせい)は、たいへん感心してくれた」
それほどまでの者に対してお前は何を言う!という意味合いを伝えたかったのだろう。
聞かされていた私たちは黙って運ばれてきた飯をがぶがぶと食べていた。
私たちはわかってないよな、聞いてないよな素振りをしていたが実のところ義父を汲んでいた。
わからなかったことは、ここで義父の気持ちでなく、なんで源氏物語の原文なんか引き合いにだすか?ってことなのだった。
義父は早稲田大学文学部卒。その名誉を振りかざせばいいではないか!夫の妹には、それが通用しないのか?
学歴の羅列や、公務員であるという職業的特権の振りかざしでも勝ち目はないのか?
それでも源氏物語原文を読んだことにこだわるのは何なのか?
それは、文学の道の見地からのことらしい。
文学者って、読書量をこなすこわけでもなくて、質の理解というはかれないものを言っても目安にならない。
歴史的文学でとてつもなく長く奥行きのある世界に二度も浸かりました。
ということでその人の文学の達観度合いを計るという意味合いでそれで「源氏物語原文」読書を目安にしているのかもしれない。
源氏物語の原文を読む力量のある義父は言ってみれば野球で言えば4番バッターであり。
駅伝で言えば花の2区であり。
トライアスロンを完走し、富士もエベレストも登頂した強豪なアスリートに匹敵するほどの文学レベルの高さ。
という格付けにこだわった故の言い分だったのだ。
だから、義父は文学者ではなく一介の公立の教師だったのかも。
義父の気持ちは汲むが文学者としてはじかれる素質をもっていたのだということを見抜かれることを発してしまっていたのだ。
明日24日は、亡き義父の誕生日だ。
2013年12月23日(月)
|
|
|