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■ 本音
これは、春のうちのすぐ近くの公園の風景。私たち夫婦の今の心情です。
夫に急用ができ、急きょ東京に行き、深夜に帰って来たらもうどこの酒屋もアルコールが置いてあるスーパーは閉まっていたのでドンキホーテでアルコールを買ってきたとのこと。深夜にドンキホーテの駐車場は、今ヤンキーのたまり場になっていて車のLEDをギラギラさせたり、派手な音楽を静かに鳴らせたり?ジェームス・ディーンの理由なき反抗のような光景のなかジムニーに乗ったおっさんがひとりドンキホーテに入って行ったそうです。
ミクシィーであることで大激論が交わされていて、いつもマイミクさんのXさんの日記はコメントの山。けっこう、みんなまともな考えを持ちあわせてて、きちんと考えを持っていてもそれを発揮できずにいてミクシィーあたりで息巻いたりしているんだ。
本当は、どれも間違いで、どれも正しいのだ。えっ?どういうこと…?人によって違うのでどれがマルでどれがバツなんていえないよ!ただ、考えを持ってるということに喜びを感じる。
自分の考えを言えないもどかしさったらないよねー。倒れる以前の私は、言えなかった。自分の考えを言っても誰も聞いてくれないし、言っても無視される。女って考えもっちゃーいかんのかー!っていつも胸のなかでもやもやしていた。
私は、寄らば大樹の影で、愛を仕事にしている人にくっついて安全を確保しようとしている小さい者です。愛を仕事にしてる人っていうのは、政治関係や、医療福祉系や、デザイン・フォト系などが愛に向かっている仕事っていう解釈。そういう人のほうが言いたいこと聞いてくれるし、認めてくれるじゃない。でもそうやっていつも自分をラクな方に、ラクな方に置いているのってほんとうは、やな奴んです。ずるいというか、勝負にでないっていうか、そういうこずるい技を大人になるにしたがって身につけてしまったんだと思います。だっていつも口じゃ勝てないから、理屈で言ってもまったくかわせない。理不尽だけが返ってくる。私はそこんとこ弱いから、まっこう勝負せずにだから寄らば大樹の影なんだ。
本当は、誰になんと言われても相手がぐうの音もでないほどに言い責められるようになりたいと思っていた。でもそういうふうには私はなれなかった。いつも受け入れがたいと思いながらも受け入れたふうを装うしかなかった。虚構や欺瞞を優越させている自分がときおりイヤになる。なぜ、欲深い人や見栄に満ち満ちているような人に世界は、許しの広がりをみせ、そこでへきへきとなっている細々としている私たちの明日は、狭ばまっていくのであろうかー?! もう、イイ大人なんだから虚構や欺瞞の芝居につきあうのはイヤさ!!
2011年07月24日(日)
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