もぐみりん
もぐ



 今年が終わって明日は新年

今日は寝ないで明日の朝まで起きていられたらいいと思う。
そう思いながら、きっと寝ちゃのだろうなあ、とも思うけど。

紅白を見て、他の番組もつまみ食いして、ちょっとあきたら本を読んでみたりネットしたりぼーっとしたり。はたまたお酒を飲んで今年を振り返りいろんなことを、本当にそれこそいろんなこと あんなことこんなことえーーーっそれも?てな感じに思い出して、そして来年を夢見て、ニタニタしたり泣いたり落ち込んだりひとりで照れたりと、おかしい行動だけど、そんなことをね、しながら年越しをすると思う。

いつになっても季節を感じることができるのは、私が日本人だからということだけじゃなく、家族があるからなのでしょう。
あったかい部屋で人の気配を感じることのしあわせ。

来年の抱負、どうしようかな。
大好きなひとみんなに、いろんな想いを伝えたい。

良いお年を!

2006年12月31日(日)



 言葉

自分が発することばより、自分が編みこんだ言葉を 文章を 大事に思う。
だから、人が私に対して発信してくれる言葉より、文章に反応が強い。

どうでもいい文章はすぐにわかる。
どうでもいい人からのどうでもいい文章はどうでもいい。
仲良しからの文章でも、それぞれの事情があるから時々で仕方ないと思う。
だけど、ある人からの文章だけはダメだ。
敏感すぎる。反応しすぎる。
逆に、発信するときも考えすぎる自分がいる。

面倒だな、と思う、本当に。やっかいな。
だけど、譲れない。
文章は私だから。

こだわりというよりも、頑固もここまでくると天晴れだ。

2006年12月30日(土)



 ずれ

体が重たいと思い、こりゃやばいかなと体重計に乗ったものの、ぜんぜん大丈夫・・。こういう感覚と実際がずれるときはよくないと、経験上ふと思う。
こんなことが続くと年末年始にぶっ倒れるパターン。
とはいえ、そういうことがわかってきただけ自分への理解が深まってきてるなあ、とすぐに自分をほめてしまうあたり、まだまだまーだまだ甘いです。

でもね、本当にこういう感覚のずれはなにかがずれている証拠なので「あれ?」と振り返る材料にすると良いと思う。
本能、というほど大層なものではないけども、誰もが持っている自己管理能力なのです。
これと同じく自分を知る・守る材料としては、
「こわい」「はずかしい」もあるよ。
どちらも負に思えるかもしれないけど、これに振り回されるのではなくそれを機に考えたりするのはとても有効ではないか、と思うのです。

2006年12月26日(火)



 許す気持ち

何があっても人のことを悪く言わないおばあちゃんでした。
もうずいぶんと前に亡くなっているのだけど、それは本当に優しい人で、私は怒られた覚えがありません。あ、しつけられたことはたくさんあるけども。それはマナーでありルールであったから、怒られたとは違うものね。

今日は近所に買い物にでて、その帰り道に思い出したのがおばあちゃんのこと。
たくさんの苦労をしたと聞いている。
夫である私のおじいちゃんにあたる人もいろんなことをする人で、それは波乱にみちた人生だったろう。お酒もそれはもうたーんと飲み、暴力も振るったらしい。子どもたち4人も、それぞれがいろんな人生を送っているから気苦労もたくさんあったろうし。
そんなおばあちゃんだけど、いつも文句など言わず、にこにことそれは本当に優しい人だった。いつもほめてくれる人だった。弱音をはいたところも見たことはないし、聞いたこともない。

だけどそんなおばあちゃんが唯一弱音をだしたのは、病気になってもうかなり病状が進行しているときのこと。
おばあちゃんは息子である私のおじさん家族と同居していたのだけど、一番遠いところに住んでいるうちの母に、ある日の夜遅く電話してきたそうだ。
「さみしいよ、れこちゃん(母の名)、すぐきて、すぐきて」
と言ったそうだ。
すぐにいけるところではない。それはおばあちゃんにだってわかっている。なのにそんな電話をせずにいられなかったおばあちゃんの気持ちを思うと、私は本当に泣けてくる。
そして、すぐに行ってあげられないことがうちの母にとってもどんなにつらいことだったろうか、と思うともっとギュっとした気持ちになる。
それ一度きりだったというが、一度きりだったからこそたまらない。

おばあちゃんの最後にはうちの母がそばにいてあげることができた。それだけは本当によかったと思う。最後の数週間は一緒にすごしてあげることができたのだけど、その中のある日、一緒に病院にいくときだと思うのだが、うちの母が羽織っていたショールを見て、
「それきれいだね、いい色ね」
とおばあちゃんが言い、
「じゃあおかあちゃんにあげるよ」
と、母やおばあちゃんにそのショールをプレゼントした。
おばあちゃんは嬉しそうに、そのショールを羽織っていったそうだ。

おばあちゃんが亡くなったあと、部屋を整頓していたらそのショールがきれいたたまれてしまわれていたのをうちの母が見つけたのだが、それはきれいなままで、きっとその後使わずに大事にしまわれていたんだろう、と。
母は、それをそのまま持って帰り、そしてそのまましまった。
あの時、一度だけ身に着けてしまったのかな、と思いながら。
そしていろんなことを考えて、そのまま使わずにしまったのだろう。

この話は前から聞いていて、ほとんど記憶の奥底に沈んでいたのだけど、なぜか今日鮮明に思い出された。
言葉にできない想いが渦巻いているように感じて、晴天のクリスマスソングが流れるのんきな地元道を歩きながら、私は本気で泣きそうで、でもなんとも優しい気持ちになってしまって、きっとおかしな顔で歩いていたことだろう。

メリークリスマス。

2006年12月24日(日)



 満たされた気持ちとさみしい気持ち

このふたつの気持ちは表裏一体だと思う。
満たされたと感じてしまうと、あとからさみしいと思う気持ちがやってくる。
逆も、たまにあるかな。

週明け早々、大好きな人と心が通うようになった気持ちで満たされた。
すてきな人たちと触れ合えたことでさらに満たされた。
それじゃあね、とひとりになってから、さみしい気持ちで満たされそう。

色々な感情があるから、だからこそ心の色は変わる。
そのことは心を柔らかにもするし、硬くもする。
時に心の声を聞くことはとてもつらい作業になるけれども、決して閉ざしてはいけないなあ、と思う。


心とたくさん話をして、たくさん泣いて笑って落ち込んで喜んで、一喜一憂・喜怒哀楽、あらゆる変化を楽しめるように。強く優しい私になりたい。

2006年12月19日(火)



 本屋にて

今日は午前中からでかける用事があって、でもそれはあっという間に終わる用事だったからもちろん時間は余った。
だからといって寄り道する気は起きなかった。
あー。もっと寝ていたかったね、できれば引きこもりたかった。
そんなことを思いつつ、それでも電車に乗って都心側にでてきたんだからどうせなら用事すませりゃいいよな、と思ったりもしていた。

結局、最後の繁華街最寄り駅は通り過ぎて、私はそのまま地元の駅に着いた。

さあ、家にまっすぐ帰って、そのまま引きこもろーぜ!
と思いつつ。
でもでもでも、本が読みたい。刺激が足りない。
引きこもりするにも材料はいるだろーさ。
そう思って、決して在庫は多くないけど安心できるいつもの本屋に寄った。
案の定、いるのは週末休日ひまをもてあましたおとーさんや家族連れ。
店員もまだまだぼんやり、起きちゃいない雰囲気。
でもそのゆるさはとても気持ちがよい。
休日はそれくらいのゆるさがちょうどいいな、って思う。

そんな中、4冊本をゲット。
選んでいる途中、文庫コーナーのはしっこで膝をついて真剣に文庫を読む女の子、推定6〜7才を発見。昔の自分を見たようでこみ上げる笑いと思い出とせつない気分やら懐かしい気分やらに襲われた。


帰り道はいつも通る道ながら、でもいつもと逆に歩く道のりだった。
同じ道のくせに、逆から見るだけで随分と違う様相だった。
鳥居なんてあったか?
なんとか山ってなんだ?入ることができる季節と時間がきまってる?なんだろーなー。
これは知っているな、遊歩道だ。ん、時間もあるから通ってみようかな?と思ったら、足が進まなかった。通りたくないらしいのでやめた。
家の近くは相変わらず鳥が多いけど、あれ、なんてきれいな色をした鳥なんだ?と、はじめて見た鳥。

発見はやまほど。
その発見にいたった時間はほんの数分。
だけどその日時にそこを通る確立はいかばかりか?
必然の意味を見た気がした。

2006年12月16日(土)



 信じることから

すぐにふっと不安になったり、疑ってしまったりする自分のことがとても嫌になることがしょっちゅうある。
どうしてだろう?
なんでだろう?
なにを思ってそんなに不安に、相手を疑ってしまうんだろう?

信じることが欠けていたからだと気がついてハッとした。
信じていないから、不安になる。
信じていないから、疑う。
そしてなによりも、信じていないから勝手に悲しい気持ちになる。

信じることからはじめよう。
そう思うことは簡単か?そうすることはすぐにできることか?
きっとできる。
心をあげて信じてみよう、と思った。
傷ついても割れてもきっと大丈夫。
信じないで勝手に壊れて傷ついた心は癒す自信はないけども、自分で決めて相手を信じて壊れてしまったとしたら、それはきっと信じたというそのことが自分の芯を支えるでしょう。

信じることからはじめます!

2006年12月14日(木)



 怒りのち笑い

理想だったりする。

大体にして、いろんなことにそれはもう簡単に怒ってしまうわけです。
仕事になるとそれはもう特に顕著で、カーっとなるのも早ければ、すぅっと冷めていくのも早かったりするんです。
間隔が短い分、消費も激しいとも言えるのかも。

そんな日々が過ぎていると、人と接する部分で「お、いいな」と思うのが”怒り のち 笑い”という関係。
今は師走で、たいていの社会人はあくせくしているので、顔の見えない電話などは殺伐したやりとりになりがち。
でも私の仕事は電話でのコミュニケーションがメインだったりするので、そういうときこそ「声だけでいかに相手を!?」に挑戦してしまうのです。

本日も挑戦、そして相手の笑い声をゲットしました。
単純に、とても嬉しい(笑)。


短気がちなこのごろ。
空気も乾燥するし、人の内部も殺伐と乾燥しがち。
そんなときの潤いは、なにはともあれやっぱり笑い!

2006年12月13日(水)



 思い込み

yahooで「思い込み」の意味を調べてみたら、
”深く信じ込むこと。固く心に決めること”
とあった。

「あの子は思い込みが激しい」
といったとき、それはほめ言葉なのか、それとも逆なのかちょっとわからなくなりました。
頑なに思い込んで融通がきかない、というニュアンスが強い気がしてたけど。
「あの子は固く心に決めるとそれを貫く」
という、強い意思をほめているようにも取れるのね。

そう思うと、やっぱり言葉というのはとても難しいツールだ。
ひとつの単語でも人によって解釈が違うのであれば正しく伝わることはないのかな?と考えてしまう。

だけど、いざ話してみると案外通じることもある。
言葉はその人のなにかが一緒に含まれることで、はじめて、「本当の言葉」として相手に届くのかもしれない。

言霊の意味を調べてみたら「古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた。」とある。
発した人が乗せる想いがあってこそ、それはきっと意味を成すのかもしれないね。



2006年12月09日(土)



 子ども

大人子どもがいま苦手です。
子ども大人はいいの。子どもだけど大人ぶるのは。
大人なのに子どもみたい、でも大人だと思っているそのアンバランスさが私はいまとても苦手。

大人は楽しい。だけどそれは自分で責任を取れるからなのだー!
と、大きな声で、声にならない心の声だけどね、叫ぶ毎日です。


さて、自分を振り返ってみると。
大人子どもでしょうか?子ども大人でしょうか?

2006年12月06日(水)



 止まらない

がまんしてもしても、涙が少しだけでてしまう。
さみしいのだと、思う。
会いたいのだと思う。
好きと、大好きだと、大事だと。

ふう。



2006年12月01日(金)
初日 最新 目次 MAIL


My追加