かたほうだけのパンプス
敦香



 セイフーのレポート用紙

※ファンブログからの引越し分


img006 (640x453).jpg

認知症になった父、住宅の移動が決まっている。
月に一回、父の荷物の整理をしに実家へ通っている。母は白内障で目がだめで、それに整理する意欲もセンスもない。弟もそういうことへの必要性に焦るとか行動はしない。

父は、何から何でも取っておくタイプ。ゴミに相当するようなメモ、伝言メモ、ダイレクトメール、手紙の下書き、大事な書類。すべて段ボール箱に放り込んでおいてあってそういう箱が何箱もあった。それを整理するのだ。母や弟は捨てちゃえば。と言っていたが、とんでもない。なかに土地相続の途中になっている戸籍とか相続に必要書類とか、家族や一族に関わる大事なことが書かれたメモなどがたっぷりあった。
そういうめちゃくちゃに詰まった段ボール箱のなかに全然関係性のない書類と書類の間にはさまっていたレポート用紙。よく使ったとみえてだいぶ薄くなっていて表紙と裏表紙の間にのこり数枚という状態だった。カビとホコリ臭さがしてモノとしてはやつれて末期的な存在価値。

レポート用紙の裏側のねずみ色の厚紙に小さな値段シールが貼ってあった。128円。そしてそのシールをよおく見るとそれはセイフーチェーンというスーパーマーケットで買ったものだということがわかった。

セイフーチェーンといえば、私が小学生から高校三年生まで暮らした街に食料品から衣料品からちょっとしたインテリア雑貨まで網羅して当時は新しいスーパーマーケットだった。

セイフーチェーンは昭和40年代に日本中に大流行したボーリング場の跡地に建てられた。
平成の今、そこらに住む人たちのなかでかつて世田谷の三軒茶屋にボーリング場があったなんてことを知っている人が何人いることだか・・・。ボーリング場は当時としてはとってもモダンで外付けのらせん階段があった。父の弟が田舎から上京したときに遊びに行ったことがあった。当時私はまだ就学前で大人たちがボーリング遊びをしていた空気だけは覚えていた。でもそれが、終わったのだ。そばを通るとボーリング場の音が建物から漏れていてちょっとリッチな感じもしていた。でもボーリング場の営業が停止し何も音がなくなった。まだ使えそうなくらいに元気はある建造物だったが、使われなくなったものは始末の悪いゴミと化していた。

何年間は放置されていた。今はもうないと思うけれどもそうとう経った頃までそのボーリング場の通りへうながす角地にあるビルに「田園ボール」という看板が掲げられていた。ボーリング場が壊されてセイフーチェーンに建て替えられて十年以上経っているのに未だにそこは田園ボールという案内となっていた。

そのセイフーチェーンに友達のにいちゃん(お兄さん)が就職していた。まさか!そこに〜。そこに就職したの。もっといい会社とかじゃなくて?会社は大きいと思うんだけれどもスーパーマーケットという庶民的なところにという意味で一応名の通った大卒のにいちゃんなのでもっと難しそうな業種や会社に入るイメージがあったから。
にいちゃんは、小柄で脇役俳優さんみたいなキャラだった。ずいぶんお世話になったから悪くは書けないけどイケメンの反対側に所属かなぁ。とにかく誰もにいちゃんの悪口言うことなんて絶対にないような実によい人だった。そんないいにいちゃんが働いていたスーパーマーケットで父はレポート用紙を買っていた。

でも、いつの間にかにいちゃんはセイフーチェーンを辞めて家業の蒲団屋を継いでいた。真面目で地味で昭和の世界に多くいたような人だった。
セイフーチェーンの値段シールを見てボーリング場のことや友達のにいちゃんのことがどっと思い出された。

父は私がせっせと荷物の整理をしていることなどわかっていない。忘れたのか。覚えていないのか。わからなくなっているのか。言えばなんとなくあーそうねとか記憶の糸はまだ薄く繋がっていて切れてはいない。

ボーリング場の音が耳元でフェードアウトして、カビ臭さがしみついたレポート用紙がたくさんの事柄の重みに耐えられなくなって彼の使命が終わったから、表紙と中身に残っているまだ使える用紙を分別して処分した。

もうボーリング場は、この世には存在してなくて人々の記憶のなかにだけあって、セイフーチェーンで働いていたにいちゃんの在りし日の姿は私たちの思い出のなかだけに生きていて、生きている父は記憶は活かせなくなってきていて・・・。




2014年06月28日(土)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加