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敦香



 東京竹富郷友会第89回


2014.5.25國學院大學たまプラーザキャンパス内にて第89回東京竹富郷友会<が開かれた。
大正14年、竹富島から上京した崎山用枝初代会長で嘉利勇士会として銀座(京橋)の蕎麦屋の二階で創立総会を開く。
沖縄復帰後くらいまで本土では沖縄バッシングが強かった。
沖縄八重山、竹富島から勉学のため、仕事を求め、そして何よりも長男以外は家を分家していくため次男以降のほとんどは、石垣島や沖縄本島、九州、関西そして東京へと散っていくのであった。沖縄は昔、特異の存在とされていたらしい。

今回の新会長のお父様が以前会長をしていたときに正式に「東京竹富郷友会」となった。
竹富島は、その大昔、西塘(にしとう)様が八重山から初めて首里城に上って職務を果たしたことから西塘様を称えている。
西塘の名を用いて会の名称とするかといろいろあったらしい。沖縄本島では西塘会と言っている。竹富郷友会は、四国にもあるらしい。それは戦争中、竹富島に在留した方々と固い絆で交流が続いていた。
今回会長となった瀬戸克氏のお父様は竹富島の蒐集館を開いた上勢頭亨氏の弟で会長を以前務めていた。
以前は、竹富島から上京した純然たる竹富人にて郷友会は行われていた。
その各々が家庭を築いてその子供たち二世。さらに二世の子供たち三世。私は三世。
一世の方々が中心でやっていた頃から、二世三世に継いでいって欲しいというのが課題になっていた。
子供たちにすれば、親父の田舎のことだろー。お袋の田舎のことだろーという面があった。二世三世の親が次男や次男以降や嫁入りした女性は何も持たずに島を離れるのだが、なかには、長男でいずれ島に戻って家を継ぐ者もいる。私が竹富島のことから離れるわけにいかないのは、島に未だに受け継ぎがうまくいっていない事柄が残されている。そのため竹富について調べている。単なる郷愁の人もいる。竹富島の熱烈のファンの人もいる。
以前は、会は単なる田舎の郷愁の会で関係ないと思っていた。でも問題が次々と出てきたり、興味深いことや私しか知ることがなかったことが次から次と出て来た。
今回の二世の会長は、私が幼いころから身近な人だった。私が倒れたときに連絡くれた人だった。というより彼だけが早々に心配してくれていた。
今回の会の役員はほぼ二世、三世という構成。以前はオール男性だった。そして女性も役員をやるようになってきた。今のような状況を会を大正時代に創立会長をした崎山用枝さんが聞いたらどう思うだろう?
今年から新しいモードになっていく東京竹富郷友会をどうぞよろしく



2014年05月27日(火)
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