昨日、はなとの思考錯誤の暮らしについて書いたばかりですが、今朝の放鳥タイム、はながとても不機嫌そうにしていてとうとうケージから出てきませんでした。どうしたんだろう…心配で、「たまには出たくない時もあるさ」という態度を取るのにひと苦労でした。 こちらに悪意がなくても、見慣れない柄の服を着て近付いたとか、そういうことでインコを驚かせてしまうことがあります。そういう時、小いんこ達は「ああ、あの服は怖かった」という印象を持つように思うのですが、どうも大いんこは賢い分「あの人に驚かされた」と考えることが多いようです。気をつけなくてはいけません。でも、そういう覚えもない…どうしたのか、はな。 でも夜の放鳥時は元気に出てきて楽しそうに遊んでいました。小さい子たちは滅多にそういうことがないのですが、もしかしたら彼には「今日は遊びたい気分じゃない」という時もあるのかもしれません。そりゃ生き物だもの、あるさねえ。 私が鳥たちとの生活に関していまひとつ自信を持てないのは、どうも「慈しむ」「育む」ということに自信がないからのように思います。他人の立場に立って、とか、モノを大切に、とか、凄く意識的にしかできない。当然、鳥たちだけでなく、気のおけない友人に対しても、そういう自信のない気持ちになることが多々あります。 先日読んだ「からくりからくさ」という本に、こんな文がありました。 「蓉子さんは、自分では気づかずに、いろいろな命を育んだり、慈しんだりしている。自分が懸命に学ぼうとしていることを、蓉子さんはいとも簡単に生活に織り込んでいる。結局、蓉子さんには温かい家庭があり、おばあさんがいた。自分にはそれが欠損していた。慈しむってことは、思い立って学べるもんじゃない。受け継がれて行く伝統だ。それにしてもまあ、何ということ、自分は一生、その欠けた部分を追い求めて行かなきゃならないのか、(後略)」 そんな感じのこと。でも、鳥たちに教わって、少しづつですが、学べているんじゃないか、と思います。 「からくりからくさ」、ちょっと…と思うところもあったけど(織物のヒトたちが織物の如く紡がれる世界の意思を感じるよりは普通の人が感じる方が善い物語だろうよ、とか、女性の書いたものは時々骨身に染みて痛すぎるなあ、とか)良い本でした。マーガレットの「ピーナッツバターとジェリーのサンドウィッチ」のくだりは、自分のことのようで、本当に痛かった。
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