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■ ローマ11章・もしそうでなかったら
よその教会のウエブ礼拝
ついにローマ11章に入りました。
うんうんと頷きながら聞きました。
「ところが、彼に対して何とお答えになりましたか。
『バアルにひざをかがめていない男子7千人が、
わたしのために残してある。』
それと、同じように、今も恵みの選びによって残された
者がいます。
もし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのでは
ありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みで
なくなります。」
(ローマ11:4〜6)
1節の
「すると、神がご自分の民を
退けてしまわれたのですか。
絶対にそんなことはありません。」
という問いへの答えとして、旧約のエリヤの話を
引き合いにして、神の恵みの選びによって
残された者がいる。と。
礼拝では、私たちへのメッセージとして
「私たちがクリスチャンになったのも恵みによる」
「自分の義によるものではない」
ということが語られていました。
なのに、「恵み」でスタートしたはずなのに、
いつのまにが、「自分の義を立ててしまう危険」
についても語られていました。
本当に本当にそうで、常に覚えておかないと
そう陥りがちです。(私も)
自分のやっていること、
こんなに奉仕をしている、こんなに献げたetc・・・
その行いによって、自分が合格点をいただいている
と思ってしまう。
そう合格不合格なんて関係ない。
なのに、クリスチャン同士で点をつけあってしまう。
逆に、出来ていない自分をみるときには、
こんな自分ではもうだめだ。神に見放されたと思う。
神は決して見放しません。
救われたのは「自分のゆえ」、でなく、
「わたしの聖なる名のための熱心による」のだから。
(エゼキエル39:25)
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、まただれも
わたしの手から彼らを奪い去るようなことは
ありません。」
(ヨハネ10:28)
「優越感」と「自己憐憫」は裏表で、
ただ恵みによって救われたことを忘れているから。
自分の足で立っていると思うから。
「もし、恵みによるのであれば、
もはや行いによるのではありません。
もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」
宣教師のたとえで
雪の日に、父親に手をつながれている小さな男の子の話
を思い出します。
長靴を履いて、自分で雪の上を歩いていると
思っていても、
転ばないよう常に支えてくれている父の愛があります。
2022年09月12日(月)
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