無責任賛歌
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2004年05月29日(土) |
手術決定&女の子の国 |
行きつけの眼科がアテにならないので、もうちょっと大きめの眼科に出かけてみる。 位置的に行きやすいところでもないのだが、住宅街に近いせいか、かなり繁盛している様子で、土曜日の午前中ということもあってか、待合は満員で、ざっと4、50人の患者さんが待っている。いつでも閑古鳥の行き付けの眼科とは雲泥の差だ。 かなり待たされて、両目とも眼底検査、最初は女医さんに診てもらって、そのあと院長先生(意外と若い)に回された。 即座に「網膜に変成が見られます。予防が必要でしょう」と、先の眼科医とは全く逆のことを言う。こちらは一も二もない。今日はもう手術は無理ということなので、ちょうど来週の火曜、糖尿病の3ヶ月検診があるので、その日の午後に治療を受けに来ることにする。治療費、またたっぷりかかるんだろうなあ、と思って聞いてみたら、前の眼科の半分以下。金額にしてン万円も安かったのだ。 あああ、あの医者、ボッてやがったな。義理があってずっと通っちゃいたのだが、もう信用ができない。もう二度と行くまい、と決心したが、いささか遅きに失した感はある。義理だの人情だの、現代人にとっちゃ、足枷にしかなってないよなあと痛感することであった。
『週間文春』の林真理子さんのエッセイで、宅配の寿司が異常に不味かったので、その寿司店の社長にクレームをつけた話が載っていたが、しげはそれを読んで「この人って『客人生』しか歩いてきてないよね」と言う。 確かにクレームをつけることが生きがいなんじゃないかと思えるような品のない客はいるが、林さんの場合はそれほどでもない。社長に偶然会ったので、つい文句を言ってしまったが、ご本人が、「鬱陶しいオバサンになっちゃった」ということは自覚していて、自嘲しているのである。それに比べて、「芯のある米で握った寿司」を2時間遅れで宅配した寿司屋は、「商売人の自覚のない」と批判されても当然だろう。現実にそんな腐れた店は腐るほどあるのである。 「お前、仮にも店を構えてるんだろう、大学祭の出店のタコ焼きみたいに、生煮えベチャベチャ、食えたシロモノじゃないってレベルと同等でどうすんのよ」と思った経験はみなさんにはないだろうか? いちいち目くじら立てるのもなあ、とガマンをしていれば、相手は「これで許されているもの」とつけあがる。基本的にサービス業であることを忘れてしまっているのだ。老舗だと自惚れている店ほど、そういう傾向がまま見られる。いやね、職人気質でガンコでも、美味けりゃ文句はないけどね、不味いもの食わせといて「不味いと言うな!」というのはただの傲慢でしょう、ってことなんですよ。「不味いなら食うな!」というのも的外れの批判で、そのイカレた逆ギレぶりが情けない限り。美味いか不味いかは食ってみなけりゃわからんという当たり前のことがもうわかんなくなってるんだよねえ。 店には店の、客には客の、「分」というものがあるのだ。それがわからなければ、お互いに見限られても仕方がない。繁盛する店とそうでない店の差というのは、ホントにごくごく基本的な客あしらいで決まってくるところがある。私がウェイター、ウェイトレスの「よろしかったですか」という口調に不快感を示すことを避けないのは、それが客をバカにしている言動であることに気がついた人間なら。みながみな、言い続けなきゃいけないことだと思うからである。「クレームをつけるのもみっともないからやめよう」という判断は美徳ではあるが、既にそんな美徳が察せられる人間も死に絶えつつあるのだ。まあ死んでいいって思ってる人もいるんだろうけれどもね。
昨日からまたまた「どうしたらしげは家事をするようになるか」ということを延々と話していたのだが、ともかく「家事をしようとする」と、「失敗したらどうしよう」という妄想がしげの活動を規制してしまう。なにもあれもこれも全部やれと言ってるわけではないのだから、とりあえず「食事と掃除と洗濯だけでも毎日するようにしたら」と何百万回も繰り返し言ってたことをまた言ったら、「じゃあ、食事と掃除だけする」と言う。これも何度もしげがそう言っては守れなかったことなんで、たいしてアテにはできない。 それでも一年発起した気になったのか、しげ、買い物をしてクリームシチューを作る。でも鍋いっぱい、軽く十人前くらいは作るものだから、到底今日中に食い切れる量ではない。戦前の大家族かい、ウチは(-_-;)。性格が大雑把だから、微妙な加減というものがわからないのである。気持ちは嬉しいのだけれども、そもそもしげの大雑把な性格そのものを変えなけりゃ、問題は解決しない。普通の日常的な、誰でもできそうな簡単な家事だって、今のしげにはムリなのである。 しげがきちんと家事に勤しむ姿を、いつの日にか見られるものかと期待して十一年が経ったが、私はまだ期待し続けないといけないのだろうか。
斎藤美奈子さんの『紅一点論』をパラパラと読み返す。 明日から『キューティーハニー』が始まるので、そのあたりだけを読み返しておこうと思っていたら、ついつい全部読み通してしまった。タイトルにある通り、特撮・アニメにおけるジェンダーを、少年少女用の「伝記」の系譜の流れから見直す、というコンセプトの評論だから、作品論とはちょいと違うのだが、作品を「男の子の国」「女の子の国」に二分化したときに、何の注釈もなく『キューティーハニー』を「女の子の国」に入れてしまっていることに、改めて首を傾げてしまった。……当時、女の子が中心で見てたのか? あれ。永井豪だぞ。まあ、後に『キューティーハニーF』と、ホントに少女向けアニメになっちゃったので、昔のアニメも、見てた女の子がいたことはいたんだろうなあ、と思いはするのだが、『F』に相当違和感を感じたことは事実なのである。 斎藤さんは『ハニー』について、「戦うヒロイン」としてはあまりに突出していて、後続作品が続かなかった、と主張している。けれどもそれにはどうにも疑問を感じないではいられない。『ハニー』だけが浮いて見えるのは、そりゃ、テレビアニメの系譜だけで見るからで(そもそも「女の子の国」に分類すること自体、無理がある。ヒロインが女の子だから、ということであれば、あまりに短絡的な分け方だ)、昔から永井豪マンガを見続けてる立場からすれば、『キューティーハニー』は特に突出している作品でもないのである。 永井豪の「戦うヒロイン」はもちろん『ハレンチ学園』の柳生十兵衛から始まっている。『あばしり一家』の悪馬尻菊の助、『ガクエン退屈男』の錦織つばさなど、初期の永井豪ヒロインはたいてい戦っていた。『デビルマン』の牧村美樹だって、決して守られるだけのお姫さまではなかった。『キューティーハニー』以降だって、『けっこう仮面』というトンデモナイものがあるのである。今度の『キューティーハニー』で特別出演の永井豪がハニーを見て「けっこう!」と叫ぶのは、ハニーとけっこう仮面がひと繋がりの存在であることの証拠だろう。 私が永井豪にずっと引かれ続けていたのは、登場する女の子たちがみんな「強かった」からである。というよりも、「女の子は強い」ということのほうが私にとっては自然であった。私は女だらけの家で育ったし、私の母はいかにも「戦前の母」で、伝法で磊落、スカートなんてはいたこともないし、ゴキブリなんか平気でつぶすし、ドブネズミも素手で掴まえる、店に殴りこんできたヤクザの胸倉つかんで投げ飛ばすくらい、腕っ節も強かった。若いころはしょっちゅう竹を真剣で気合いとともに切ってたというが、戦前はそういう「強い女」は母に限らずいくらでもいたのだ。 だからまあ、『宇宙戦艦ヤマト』の森雪が「だって古代くんが死んじゃう!」なんてブリッコしてるの見てると、私は「こいつこれでも女か?」と鳥肌が立っちゃうくらい気持ち悪く感じてしまうのである。 なんだかねえ、日本は長らく男尊女卑の社会で、女は家に縛られてて、男の言いなりで従順にさせられてって、それが封建社会の姿だった、ていう人は多いけど、それって、もともと武家社会という、日本の人口から考えればほんの1%に過ぎない世界のイメージが、明治維新以降、拡大されていったせいで起きた錯覚なんじゃないの? 少なくとも、昔からビンボーだった「庶民」の家庭は、女だって働かなきゃならなかった。家庭に閉じこめてなどいられない。ヘタすりゃ稼ぎは父親より大きいから、家庭内での母親の発言権が父親より上だったところだって、腐るほどあったのである。 「戦後、強くなったのは女と靴下」と言うが、私には「女は弱くなって、その分卑怯になった」と思えてならない。もちろん、そうでない女性もたくさんいるだろうが、男に甘える女、自分の弱さを売り物にする女、男に尽くすのが使命と考えているような女が糞にしか見えないのは、私の場合、確実に母親の影響である。 私が『ヤマト』に殆どハマらず(キャラクター造形的には出てくるやつが全てナルシストばかりで、とてもドラマなどと言えるシロモノではない)、『ガンダム』で一番好きだった女性キャラがミハル・ラトキエで(ファーストシリーズ中、殆ど唯一と言っていいくらい生活感のある「働く少女」であった)、『エヴァンゲリオン』に一番燃えた(精神を病んでるか愚かなやつばかりだが、これだけ「甘えのない」女性キャラばかりが登場したアニメも滅多にない)のは、確実にそれぞれの作品の女性キャラの存在の大きさに比例している。 斎藤さんは、女性ヒロインのエポックメーキングであった『ダーティペア』についても全く触れていない。見たことがないか、SFについて語る素養が全くないかで、「逃げた」のではないかと思われるが、あの作品くらい、「SF」という「男の子」の世界に、女の子が殴りこみをかけてしっちゃかめっちゃかにしてくれた痛快な作品もないのだ。星一つ破壊し、何百万という人間を死に至らしめておきながら、その張本人二人が「可愛いから許される」なんて物語が、SF以外のなんだと言うのだろう。「女の子」はその存在ゆえに、全ての罪が許される。女性の絶対優位を標榜したあの作品を無視していては、せっかくの斬新な批評も画竜点睛を欠くものだろう。できれば斎藤さんにはもう一度「仕切り直し」をしてもらって、新たに増補改訂版を出してもらいたいものなのだが。
高知県の小学校で、校庭のごみ集積場の上に「女子のスクール水着と体操服を15枚ずつ用意しろ。でないと、学校設備を壊す」と脅迫文を張った無職の男が逮捕。 ……そうかあ、よっぽどほしかったんだろうけど、「無職」だから買いたくても買えなかったんだろうなあ、思い余っての犯行なんだから、情状酌量の余地は充分にあるでしょう、学校も山本周五郎のように「これを持って帰りなさい。けれどもう二度とこんなことしちゃダメだよ。また水着がほしくなったら、来なさい」とか言って、許してやんなさい。うそ。 脅迫文に、「身長1・6メートルのサイズ」と指定されていたってことは、飾って楽しむだけが目的ではなくて、自分で着るつもりだったってことなんだろう。学校側が無視していたら、「要求を5枚ずつに減らし」たっていうのが何ともいじましい。もともと15枚要求していたということは、毎日着替えるとしてほぼ2週間分、取っかえ引返えしたかったってことなのか。あるいは体操服を敷き詰めてその上で寝転んでみたかったとか。……やっぱ、職に就いて金稼いで自分で買えよって。 でもまだハタチなんだよな? ハタチで働きもせず、考えてることは小学生の水着と体操服のことだけってのがなあ。いや、今はこれ、笑ってもいられるけど、この程度の性衝動も抑制できない人間が、逮捕されたからって反省するとも思いにくいんだよね。恐喝未遂だから、まずたいした罪には問われないだろう。すぐに社会復帰して、更に本能をエスカレートさせていって、ホントに取り返しのつかない犯罪を引き起こす危険性だってあるのだ。想像を逞しくすると、今回の事件は「前哨戦」であって、次にはその服を着せる「中身」を誘拐してくる腹づもりだったのかもしれない。160センチという指定サイズが「自分のため」じゃなかったとしたらどうか。 日本の法律はまだまだ性犯罪に対して甘いと思うんである。
2003年05月29日(木) 追い込み日記/アカデミズムな男 2002年05月29日(水) 管理ってそういうことじゃなくてよ/DVD『絶叫屋敷へいらっしゃい!』/『ガンダムエース』7月創刊号ほか 2001年05月29日(火) ヒステリー・ヒストリー/『オサムとタエ 早春残光編』(村野守美)ほか
2004年05月28日(金) |
神経科に行こう!&デジモン新作 |
金曜日はしげの通院の日。 診療のあとはいつも、しげがその日お医者さんとどんな話をしたのか、報告してくれるのだが、今日は何となく嬉しそうな顔をしている。 「ねえ、オレ、通院して何ヶ月になるか知ってる? 7ヶ月だって!」 「まあ、そんなもんだろうな」 「今日、お医者さんから『何ヶ月通ってるか分かりますか?』って聞かれたから、『わかりません』って答えたら、そう言われたんよ。3ヶ月くらいだと思ってたからもうビックリ」 「おれが退院してからも3ヶ月経ってるんだから、それくらいにはなるやろ」 「で、『効果はありますか?』って聞かれたから、『相変わらず家事をしないって言われてます』って答えたら、『じゃあないんですねえ』って言われた」 「……『言われた』じゃなくて、するようになれよ」 神経科のお医者さんが患者さんとどんな話をするのか、興味はあってもなかなか具体的に耳にする機会は少ない。プライバシーの問題があるから当然ではあろうが、何かにつけ排他的になりがちなこのクニでは、神経科に通ってるってだけで偏見の目で見られてしまいかねない。 しげが通院していることも日記に書こうかどうしようか、最初は迷いもしたのだが、考えてみたら、「書いちゃマズイかな」と考えること自体が偏見を偏見のまま放置することになる。別に差別撤廃なんてキレイゴトを口にする気はないが(そんなのは理想論どころか妄想だ)、私は世間が、しげ程度のいかれぽんちの存在を許容できないのなら、世間自体に存在価値はないと考えているのだ。狂ってない人間なんて、いない。 神経科に通ってることをカミングアウトした本も、少しずつ増えてきている。私が最初に読んだのは、大原広軌・藤臣柊子共著の『精神科に行こう!』だったが、私はこれを読んで「ああ、精神科(神経科)って、もっと気軽に通えるとこなんだ」と知って、随分、気が楽になった。もっともしげの方はこれを読んだ当初は、かえって「やっぱり頭のおかしいヤツが行くとこじゃん。もし診察されてそのまま入院させられて帰って来れなくなったらヤだ」と、いったいいつの時代の話やねん、と言いたくなるような妄想に取りつかれてしまったが(そんな描写はこの本の中には全くない。念のため)。こいつ、やっぱり治療を受けた方がいいなあ、と思ったのはしげのそのセリフを聞いた時からだった。 他人とうまく付き合えない人間ばかりが神経科に通わなければならないというわけではない。それもまた偏見である。「自分は社交的で人間関係を作るのが得意である」と考えてる人間だって、誇大妄想なのである。たいてい「そう思ってるのは自分だけ」で、まあサムいギャグばかり飛ばしている中年オヤジに多いパターンだ(^o^)。須らく、人はみな神経科に通って構わない。 病院の名前とか、具体的なことを書いてそちらに迷惑をかけちゃまずいから、それは避けるが、会話の内容などは、もっと知られていいと思う。そうでないと、いつまで経っても「神経科はコワイところ」というイメージが消え去らない。 今の病院の先生、しげが最初に診療を受けた時に、「合わないなあと思ったら別の病院に変わっていいんですからね」と言ってくれたそうで、それだけでも信頼できるかなと思っている。 「ねえ、『カイリショウ』って知ってる?」 「聞いたことはあるな」 「前に、先生から『病名がほしかったら付けてあげますよ』って言われてたから、『ほしいです』って言ってみたんよ」 「ほしいのかい(^_^;)」 「だって、劇団のウリになるじゃん」 「……うーん、なるといえばなるかなあ」 「『夢と現実の区別はつきますか?』って聞かれたから、『つきません』って言ったら、『それは“乖離症”と言えますね』って言われた。いろいろ聞かれて、この次までにもっとカッコイイ病名決めてもらうことした」 「……決めてもらうものか? そういうのって」 「だって『物忘れがヒドイ』だけじゃ、“健忘症”ってことになっちゃうじゃん。“健忘症”はヤダ。まだ“記憶喪失”の方がいいよ。ウソにならない程度にカッコイイ病名の方がいい」 病名に注文つける患者というのも何なんだかなあ(~_~;)。
キャナルシティで映画『ビッグフィッシュ』。こないだ見た芝居『バナナがすきな人』も息子にウソ話ばかりついてる父さんの話で、父と子の断絶とその関係の回復の物語だったけれども、これもコンセプトは同じ。こちらは映画だけによりファンタジックだったが、『バナナ』よりもずっとウェルメイドだったので驚いた。近藤芳正さんの方がティム・バートンよりもずっと「乾いた」人だったんだなあ、と比較ができるのが面白い。これもまたカミサマを頂くクニの人と、そうでないクニの人間との違いであろうか。
昨年で「東映アニメフェア」が終わってしまって、劇場アニメを単発公開しかしなくなってしまった東映動画(「東映アニメーション」と社名が変わっても、やはりこう言いたいのである)だが、次の新作が完全フルCGの『DIGITAL MONSTER X-evolution(仮)(デジタルモンスター ゼヴォリューション[X進化])』になったそうである。デジモンの映画シリーズ自体は子供ダマシの手抜きのない、濃密かつメリハリの効いた演出で、「東映動画健在なり」を感じさせてくれて新作が楽しみなくらいだったのだが、どうしても『ワンピース』や『どれみ』とかの添え物イメージが抜けず、損をしていたと思う。だからこうして一本立ちした形で新作が作られることは嬉しいのだが、よりによって“フルCG“〜? ハッキリ言っちゃうが、CGはもう確実に一つのカベにぶつかってると思うのである。ドリームワークスの『シュレック』もパート4までのシリーズ化が決定されたと言うが、ホントにそんなことしていいのか、と疑問に思う。あそこに出てくるキャラクターの中で、最も動きが不自然で魅力に乏しかったのが「人間」であるフィオナ姫だった。CGでは「人間」は描けないのだ。ピクサーの『トイ・ストーリー』の時にもそのことは感じていたのだが、あれからCGは殆ど進歩していない。一時期の日進月歩がまるでウソのように、この5、6年は停滞している。結局、これまでのCGはカリカチュアされたキャラクターしか描けていないし、これからそれを越える映像を作ろうと本気で考えているスタッフも少ないように思う。 『デジモン』シリーズは、部分的にCGは使っていても、あくまでセルアニメーションとして評価されてきた作品である。デジタルだからデジモン、という発想は短絡的なだけじゃないだろうか。しかも、そのCGアニメーションの制作を担当するのは、香港のCG制作会社『Imagi International Holdings Limited』なのである。……なんだ、外注どころか、日本アニメってわけじゃないのね。東映動画がますます自分の首を締めるようなことにならなきゃいいんだけれど。 監督はTV版『デジモンアドベンチャー』『デジモンアドベンチャー02』のシリーズディレクター、角銅博之。脚本は平成『ガメラ』3部作や、『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』の伊藤和典と、『エアマスター』の川崎美羽の二人。実力のある方たちだから、つまらないものになりはしないとは思うけれど。
2003年05月28日(水) すっ飛ばし日記/耽美かヤオイな女たち 2002年05月28日(火) 素敵なあなた(はあと)/CD『ぼういず伝説』/『コメットさん☆』DVDBOX2ほか 2001年05月28日(月) 才能がないなんて言い訳だ/DVD『チャーリーズ・エンジェル』
2004年05月27日(木) |
「義理」もまあ、ありがたいけど。 |
ここんとこ、鬱陶しいことが続いているが、今日、キャナルシティから劇団四季のミュージカル『ユタと不思議な仲間たち』の招待券が送られてきた。こないだ、抽選に応募したのが当たったのである。四季嫌いのしげだけれども、タダなら文句はあるまい。ずっと前からこの芝居、見たかったんだけれども、なんか機会を逸してたんだよなあ。 もっとも、招待日は決まっていて、それが平日なのである。……まあ有休取って、何とかしよう。でも同僚にはナイショ(~_~;)。
二日経って、眼の具合、特に変化はない。 つまりよくもなっちゃいないが、悪くもなってはいない。右と左と、両方に血管のような首吊り縄がぶら下がっているわけだがら、眼球を動かして(要するに寄り目にして)像を重ねれば、首吊り縄が3Dになって見えるかとも思って試してみた。ところがそうすると、縄と焦点が合わなくなって、縄そのものが見えなくなってしまうのである。 ……おお、ということは焦点がズレればこの縄も見えなくなるってことじゃん! ……って、寄り目で生活なんてできゃしないって。
職場でも、私の目の具合を心配して、同僚が次から次へと「いかがですか?」と聞いてくるのだが、なかなか返事が難しい。 心配をかけないように、と「全然大丈夫でした」とウソをつくわけにはいかない。何しろこれでまた病院通いの回数が増えるのである。当然、仕事を同僚に肩代わりしてもらわねばならない回数も増える。それじゃ、「大丈夫じゃないじゃん」ということになってしまうから、やっぱり正確に病状は説明しておかなければならない。そうなればどうしても気遣われてしまうのであるが、心配してもらったからといって、目がよくなるわけでもない。壊れたものは元には戻らないのだ。 同僚にしたところで、具体的にどう気遣えばいいのか分からないのは困ってしまうと思うのだが、私とて「こう気遣ってくれ」と言えるような具体的なものは何もない。しょうがないので、お互いに「大変ですねえ」「いやどうもご迷惑をかけます」と不得要領な会話を交わしている。せいぜい「すみません、時々気づかずにぶつかっちゃうかもしれませんが、インネンつけるつもりはありませんから」とか、ヘタな冗談を飛ばすくらいのことしかできないのだが、これで相手の気持ちが和らぐわけでもない。 同僚が私に対して心配そうな顔をするのは「義理」である。「所詮は他人事」と冷たく突き放すようなモノイイをしたいわけではないが、「同情」の気持ちはあろうが、「愛情」のような強い感情ではないから、心底からの心配ではないことは事実である。ゆえに、「心配し続けなければならない」状況を強いられ続けることは、しょっちゅう顔を付き合わせてなきゃならない同僚にとっては苦痛であるし精神的な負担にしかならない。同僚がみな、しょっちゅう「近ごろ、調子はどうですか?」と尋ねるのは、気候の挨拶よろしく無意識的に投げかけられているけれども、その言葉の裏から、「調子がよければ余計な心配せずにすむのになあ」という感情が見え隠れしている。そういう要らぬ気遣いをさせてしまうことがまた私に溜め息をつかせることになっている。 誤解なきように願いたいが、私は「義理」で心配されることを不快に思っているわけではない。確かに「義理」というのは「人情があるフリ」であるから、誠実ではないという見方もできるけれども、カミサマじゃあるまいし、人間、そんな誰彼なしに博愛主義になれるわけでもない。「人情がある“フリ”だけで済ます」「“フリ”を“真実”として受け入れる」という、日本人の「腹芸の世界」が、ここでも人間関係を成立させる潤滑油として機能しているのである。これは美徳と言っていいものだろう。 けれど、フリはフリに過ぎないのであるから、「義理」を感じなければならない状況があまりに続くようであれば、そこに「無理」が生じてくる。かける言葉もなくなれば、自然、「遠巻きにされる」ことも生まれてくる。「義理」は、人間関係を長期に渡って継続させて行くツールとしては、そのスペックが甚だ不安定でアテにできないものなのである。しかし、これまで日本人はあまりにその「義理」という「交際マニュアル」に頼り過ぎていたために、それ以外の方法を考えることができなくなってしまっているのだ。日本人にいつまで経っても国際交流ができないのも、そもそも「義理」が通用しない外国人に対して手も足も出ないせいも大きい。 「義理」の機能は認める。それは、希薄化しようとする人間関係を常に強固に結びつけようとする手段として有効だからだ。しかし、それはかつての生活空間がごく狭い、運命共同体的なムラ社会において効率的なものであった。行動範囲がこの五十年で飛躍的に拡大し、希薄な人間関係しか結べなくなってしまった日本人間において、「義理」で結びつく人間関係は既に不可能になりつつある。 いい加減で、そういう「フリだけ人生」から脱却する方法を考えていったほうがいいと思うんだけど、どうですかね。御託をグダグダと並べてしまったが、要するに「病人なんて世の中にはゴロゴロしてるんだから、いちいち心配なんてしないでくれ」ということなのである。いや、病人には物理的にできないことはあるのだから、そのことを知っておいてほしいとは思うのだが、それを「苦痛」と思うような脆弱な精神は、持たないでいてほしいのである。 まあ、そういう「義理」に守られ続けてきた人たちにとって、それが難しいことだってこともわかっちゃいるんだけれども。
……とかなんとか考えていたら、友人のグータロウくんから、「心配なんかしてねえけど、目の調子はどうだい?」と電話がかかってきた(^o^)。わかってらっしゃることで。
「オレオレ詐欺」の被害が増えているというニュース。ふと気になって、父に「引っかかってない?」と電話したら、「トシヨリ扱いするな!」と怒鳴られた。いや、トシヨリ以外でも騙されてるけど……と言い訳しようとしたら、「バカや」とヒトコトで切って捨てる。全く、博多の人間のメンタリティとは言え、相変わらずミもフタもないモノイイである。 確かに、詐欺事件の中でも、「オレオレ詐欺」についてあまり同情する気になれないのは、被害者に対して「なんで別人だって気づかないんだよ」という、マヌケさがどうしても先に立ってしまうからだ。実際、ムスコ本人が2階にいるってのに、そのことに気付かないでニセムスコからの電話に引っかかった母親とかもいるんだから、これを「バカ」と言わずに何と言おうか、ってなもんである。犯人の罪を追及するより先に、被害者のバカのほうが笑いの対象になってしまうのだ。 詐欺を働く方も、こんなに「バカばっか」ならば、さほど罪悪感を感じないですむのも当然である。成功率が高くなければ(つまりバカが多くなければ)、こんなにお手軽に「オレオレ詐欺」が「流行」するわきゃない。「バカをバカにして何が悪い」というへリクツがここでも働いているわけだ。 「バカがいなけりゃリコウが目立たん」とは、マーク・トウェインおよび私の父の言葉だが、バカばっか増えてもねえ。世の中ナメてかかる犯罪者を防止することも国民の義務とちゃうか。家に鍵をつけるのと同じくらいに、こういう詐欺に引っかからない、というのは最低限、できなきゃならない能力なんじゃないかねえ。 しげに、「お前は引っかかるなよ」と言ったら、「払う金なんてない」と言われた。ごもっともである(~_~;)。
2003年05月27日(火) すっ飛ばし日記/メジャーかマイナーな男たち 2002年05月27日(月) また仕事休みました。/『コメットさん☆』DVDBOX/『ああっ女神さまっ』24巻(藤島康介) 2001年05月27日(日) 今度の芝居のキーワードは「裸」です/『ヨイコ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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