無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年12月25日(水) ねくたい綺譚/『恋に唄えば♪』(たむら純子)/『黒蜥蜴』(江戸川乱歩・JET)

 WEB現代での唐沢俊一さんのエッセイ、『近くへ行きたい』第12回に、唐沢さんが『ウッチャきナンチャき』に出演した時のレポートが。
 しまった、出演してるって事前に知ってたのに、つい見損なってた! と慌てたが、本文を読んでホッと胸をなでおろした。要するに、「結構喋ったんだけど、テレビには映らなかった」らしいんである。映ってたのは「何も喋ってない優香ばかり」とのこと。
 脱がない優香には何の興味もないので、だったら見なくても全然惜しくない。考えてみたら、多少シリアスなところがあるとは言え、ウンナンの番組ということは結局はバラエティである。ああいう番組に呼ばれる「文化人」というのは、例えば「北野大」とか「大槻教授」とか、「文化人のクセに意外とトンチンカンなことを言う人」でなければならないのだ。ホントにアタマのいい人で、ヘタに知性的なこと言っちゃうと、バカな視聴者の反感買っちゃうもの。実際の北野大さんは、多分アタマがいい人じゃないかとは思うんだけど、テレビで見る限り私ゃあのヒトのアタマのいい発言なんて聞いたことがない。多分カットされているのだろう。タレントが知性的なことを言うのは許されてるのに、もともと評論家とか大学教授とか「文化人」の肩書きを持ってる人は、決して知性的な話をしてはいけないんである。これも差別の構造だよねえ。
 唐沢さんがテレビに映るためには、トンチンカンなことを言ってくれないといけないんじゃないかと思うが、もちろんそんな道化を演じてまでテレビに出たって、唐沢さんにたいしたメリットはなかろう。
 それこそ、と学会主催の番組をまるまる作るとかしないと、唐沢さんの見せ場はないだろう。それだけの度胸のあるプロデューサーがテレビ界にいたら面白いのだが。


 しげからのクリスマスプレゼント、ネクタイとハンドタオルであった。
 なんで二つかというと、私の誕生日とのセットだからだそうである。……あの、結婚記念日のは?(・・;)
 これで私が「こんなん要るか!」とネクタイをつけていかなかったりした日には、またしげは泣きじゃくり、ご近所中に聞こえるほどの悲鳴を上げ、すわ人殺しでも起こったかとお隣さんが飛んでくるような事態になりかねない(一度ホントにあったのである)。
 自らの恥晒しと、家庭崩壊のいずれを選ぶかと聞かれて、後者を選ぶバカもいまい。私はとうに覚悟はできているのである。と言うわけで、早速、職場に買ってもらったばかりのネクタイを付けていく。
 私の家庭の事情を先刻ご承知の方もおられようが、いったい私が何を懸念しているのかご不審の読者の方のためにご説明せねばなるまい。実はしげは私にマトモなネクタイを買ってくれたことなど一度もないのだ。と要っても安物だとかインドかエジプトあたりの妙な文様が描かれてるような珍品と言うわけでもない。その全てが、あるときはドラえもん、あるときはウルトラマンと言った、キャラクターグッズなのである。
 ……想像していただきたい。私はもう四十になるのである。四十でデブでビンゾコメガネの中年オヤジの首からぶら下がったネクタイには、何人ものドラえもんが微笑んでいるのである。そんな光景、誰が見たいだろうか。そんな悪趣味なヤツは世界広しと言えど、しげただ一人であろう。
 そして今回、しげが選んだのは、いつの日かこいつと出会うことになるだろうと覚悟していた究極のキャラ者であった。
 そう、西原理恵子も大好きというあの、「ミッフィ(akaうさこちゃん)」である。
 職場に着くなり、案の定、若い子から「ミッフィですね」と指を差される。それ以上、何も言わないのはある意味私のことを恐れているのではないか。
 いや、あの、私はただ単に恐妻家なだけであって、○○○○でも○○○○でもないんだが。と言っても信用してもらえないか。
 多分、また一つ、私に関する黒いウワサが流れたに違いない。……本気で今の職場、移れんかなあ(-_-;)。

 有休休暇が余ってたので、半日で帰る。
 あとはひたすら寝たので、特に書くことなし。


 マンガ、たむら純子『恋に唄えば♪』(角川書店/アスカコミックスDX・588円)。
 優香主演の“あの”映画のコミカライズである。
 絵柄がかわいらしかったので、つい買ってしまったのだが……いいじゃん、これ。まさしく正統派少女マンガ、映画版のストーリーと全く同一でありながら、マンガ版の方が圧倒的に面白い。
 実は堀田あけみが書いた小説版も読んではいたのだが、その甘ったるい自己陶酔型の文章に閉口して、とても感想を書く気になれなかったのだ(貶してるように見えても私ゃ書く価値のある作品しかレビューはしないよ)。
 ところが、小説よりも映画よりもよっぽど甘ったるいかと思っていたマンガ版が、メリハリの利いた「作品」として仕上がっているのに驚いたのだ。
 まず主役のユミが優香のようにバカに見えない、これが実に大きい。
 壷男がテレビのクイズ番組の司会者に成りすまし、ユミをサトルのいるオーストラリアに旅立たせようとするシークエンス、映画版じゃどうしてユミが旅立つ気になったのか、心の変化が全く見えて来なかった。しかしマンガ版では、ユミ自身がサトルに会わないではいられないことを自覚する心理変化の過程を、サトルに贈るはずだったクマのぬいぐるみを見つめる視線で語らせているのである。こういう普通の演出ができれば金子修介も少しはマトモな監督になれるんだけどねー。コメディは、コメディだからこそ、キャラクターの演技には真実味がなきゃ訴える力は生まれないという基本的なことを押さえてほしいのである。
 壷男のデザインも三頭身でかわいらしい。やっぱ竹中直人じゃ感情移入できないよ(~_~;)。『恋に唄えば♪』に関してはこのマンガ版だけ読んでおけば充分。まあ、ドラマツルギーなんかどうでもいい、オリャあ、生身の優香が見られる映画の方が断然いいんだ! と主張するのなら、そりゃもう勝手にしてくださいませ、としか言えまへんな。


 マンガ、江戸川乱歩原作・JET作画『名探偵登場! 黒蜥蜴』(朝日ソノラマ/眠れぬ夜の奇妙な話コミックス・840円)。
 恥ずかしい角書を付けてくれてるなあ(-_-;)。
 金田一にエラリー・クイーンにシャーロック・ホームズと来て、ついに明智にまで手を出しましたか。誰が何しようといいけど、JETさん、どんどん作画技術が低下してるのはなぜ? コマワリは読みにくくなるわ、背景が疎かになってキャラの位置関係すら解りにくくなるわ、そのキャラも以前に比べて寸詰まりでクドイ絵になって人間味が感じられなくなってるわ、誉めるとこまるでないじゃん。
 でさあ、明智を描くんなら、少女マンガだから美形になっちゃうのは仕方ないとしても、せめて髪はモジャモジャノ雀頭にしてくれよ。金田一はそうしてたろ? キャラデザイン、同じでいいんだからさ。
 原作にはいつも明智に協力する警視庁の恒川警部・浪越警部・中村警部・花田警部のいずれも登場しない。明智対黒蜥蜴の対決をスッキリさせるための乱歩の配慮だと考えられるが、JET版では「丸目屋警部」という警部を登場させている。こういう脇キャラを出さないと、話を転がせなかったんだろうね。
 まあ、この程度の改変はご愛嬌だが、ラストを全く変えてしまって、爆破の中で黒蜥蜴の生死がわからなくなり、明智が「黒蜥蜴は本当に死んだのだろうか?」と述懐するなんて、アンタ、『怪人二十面相』シリーズをここに持って来てどうするのよ。陳腐なだけじゃん。

 併録の『人でなしの恋』、これもネームに失敗してるよなあ、京人形がきちんと描けてないしなあ。それに夫の目の前で人形壊しちゃダメだって。「描かないことによって想像させる」ってとこにあの原作の怖さがあるんだよ?
 しかもラストをまた陳腐な形に改変してしまってる。人形を恋する夫を自殺(心中)に追いこんだ妻が、今度は自分が人形の虜になるって……そういうもんじゃないだろう(-_-;)。
 自分の個性を出そうとして原作をいじくって失敗した典型的な例だよなあ。まだ古賀新一版の『人でなしの恋』の方がよっぽど出来がいい。自分に才能ないことを自覚してよ、先輩の描いた作品をきちんと参考にしてよ、もちっと謙虚に自分の作画のどこがマズイか考える位のことはしてほしいものだね。

2001年12月25日(火) 怪獣道なんてないよ/『30独身女、どうよ!?』(岡田斗司夫)ほか
2000年12月25日(月) 男はみんなえっちだってば/『羊のうた』5巻(冬目景)


2002年12月24日(火) ノロい呪い……座布団取っちまいなさい(^_^;)/『桃色サバス』7巻(中津賢也)/『蟲師』3巻(漆原友紀)

 さて、これはトンデモ本関連の話題ということになるかな。
 オーストラリア・メルボルンのモナッシュ大学のマーク・ネルソン氏が、英医学誌に、「ツタンカーメンの呪いはデッチアゲだった!」と発表。
 1922年、墓を開けたメンバー25人全員の死亡日を調査・特定したところ、平均で70歳ぐらいまで生きていたとのこと。
 でもそれって既に『トンデモ超常現象99の真相』に書いてなかったかなあ。今さらって気がするけどねえ。
 だいたい、この「ファラオの呪い」っての、オカルト事件の中じゃあ、もともと一番信憑性のないネタだったんである。私がこの事件を知ったのは、多分、小学生のころ買ってた学習雑誌のオカルト特集を読んだのだろうと思うが、その時点で「呪い」とするにはちょっとムリがあるなあ、と思わざるをえないものだったのである。
 発掘の直後に死んだのって、出資者のカーナボン卿一人だけだし、肝心の発掘者であるハワード・カーター自身が結構長生きしている。1874年生まれで、発掘時は既に48歳。しかし死んだのが1939年、65歳の時で、発掘から17年も経っている。随分遅効性の呪いもあったものだ、と苦笑したものだった。

 でも記事をよく読むと、今回の発表は、「呪いの否定」そのものより、「誰がこのデッチアゲを仕掛けたか」ということを暴く目的のもののようだった。
 言われてみればあまりにもありきたり、仕掛け人はマスメディアだったのである。
 ネルソン氏は、「英タイムズ紙が発掘について独占報道したため、歴史的発見から締め出されたライバル新聞社が呪いの話をでっち上げたのはほぼ間違いない」と主張。新聞記事にあった「『王の平穏を乱す者には早い死が訪れる』という呪いの言葉が墓に彫り込まれていた」というような記録は全くなかったのだそうだ。
 ……なんだか女に捨てられた男がストーカーするのとたいして変わらん心理だよなあ。新聞にジャーナリストとしての矜持があるというのは真っ赤なウソで、どこの国でもいつの時代でも、新聞その他のマスメディアは大衆を愚弄し、権力に阿り、自らの思想を過信し、狂っているのである。


 先日買い損ねていたDVDを買いに、博多駅の紀伊國屋に行く。
 『プリンセス・チュチュ』のDVD第1巻なのだが、本来25日の発売予定だったものを、天神ベスト電機のLIMBでは21日の時点で既に店頭販売していたのである。
 予約を入れていたのは紀伊國屋の方だったので、当然こちらも売っているものと、取りに行ったところ、「24日にならないと出ない」と断られたのだ。
 「でもベスト電機ではもう売ってましたよ?」
 「それは規約違反です!」
 ……まあ、そうなのかもしれないけれど、既にあるものを出さずに隠しておくことの方が客をバカにしてると思うがな。


 マンガ、中津賢也『桃色サバス』7巻(完結/少年画報社文庫・620円)。
 まあ、ラストは『ネジ式』ですな。こういう話は予定調和で終わるしかないので、意外性がないからって別に怒りません。
 今まで出し惜しみしてたカゴメのヌードもたっぷり登場、ナニも出来たし、まさしく大団円である。
 でも私としてはvol.103「黄金色に輝いて」のように、「ただひたすらウンコをガマンするだけの話」のような徹底的に下らないギャグの方が好きだったりするんだが(^o^)。ギャグに気品は要らんのよ。


 マンガ、漆原友紀『蟲師』3巻(講談社/アフタヌーンKC・560円)。
 うわあ、こんなに早く3巻が出た……と思ったら、掲載誌を移籍してて、執筆のペースが早まったせいなんだね(『アフタヌーンシーズン増刊』から『アフタヌーン』本誌へ)。こりゃてっきり作品の質も落ちちゃいないかと心配したんだけれど、そんなことはない。作品によっては、「まだこれほどのレベルのものが書けたか」と舌を巻くほどの完成度。才能というのはこういうものを言うのだよ。
 オビには大友克洋の『幻想と郷愁が静かに語られ、心に沁む作品です』の推薦文も。うーん、一般的には大友さんが誉めると「箔が付く」って感覚なんだろうなあ。私ゃ逆に、Dr.オートモに誉められても「贅肉が付く」だけじゃないかとしか思わないが。「こんなに太れる!」……さあ、何人がこのギャグ覚えてるか(^o^)。
 『錆の鳴く聲』(「錆」はホントは旧字体)。
 カラーページ付きである。この色遣いがまた素晴らしいんで、できれば1巻もカラー付きで再販してほしいくらいだ。
 本作のヒロイン・しげの歌う聲は、「小柄な体に似つかわしくない、太くかすれた、けれど、甘く渋みのある残響を持つ、不可思議な響きの声」である。その声が人の体に目に見えぬ「錆」を涌かせ、村人たちの四肢を不自由にしていく。そのことに気付いたしげは、自らの声を封印するが、村人たちは自分達の病の原因がしげにあることに薄々気付いている……。
 緊張感あるなあ。
 『蟲師』はどの話もどこかに人間同士のディスコミュニケーションがあり、それは果たして越えることのできない壁であるのか、という問いかけがある。何しろしげの声は生来のものだ。自分自身の努力でどうにかできるものではない。人を傷つけたくなくても、自然に傷つけてしまわずにはいられないのである。だから、しげはこれまで「詫びる」ことでしか生きてこられなかった。
 読者はしげを哀れむか? そうではないだろう、「人を傷つけずにはいられない」というのは、人間の持つ「業」であるからだ。意図せず人を傷つけたことのある人ならば、しげの悲しみの重さと、それに耐えようとする健気さが理解できるはずだ。我々はみな、しげと同じように「罪の十字架」を背負っているのであり、たとえ救われる日が来なくてもやはり生きていかなければならない存在なのである。
 しげが救われるのはある意味では偶然である。
 もしかしたら、しげはあのまま村人たちに責められ、殺されていたかもしれない。しかしそうだとしてもしげは決して村人たちを恨んだりはしなかったに違いない。
 その力強さが我々を勇気付けてくれるのだ。

 もう一つ、このマンガについて触れておきたいことは、「音」の表現についてである。
 マンガで「音楽」を表現することの難しさを、昔、『サルまん』で竹熊健太郎は語っていたが、そりゃ楽譜で表せるような音楽を伝えることはムリに決まっている。いくら背景に音符を書きこんだって、楽譜を読めない人にはただの落書きにしか見えやしない。
 ではマンガに「音」を伝える能力が全くないのかと言うと、そんなことはない。文学の神髄が「詩」であり、楽譜が存在しなくとも「詩」が単独で「音楽」でありえるように、マンガもまた読者の脳に働きかけて「音楽」を喚起する力があるのである。
 そこで、「錆が涌く声」という設定の素晴らしさについて考えてみたいのだ。
 いったい、みなさんは「錆」の涌く声というものがどのような声なのか、想像がつくだろうか? 「花」が咲く声でもなければ、「虫」が涌く声でもない。そんなのは「きれいな声だろうな」「汚い声だろうな」というだけのことで、我々の想像力を少しも刺激しない。
 しげの声は、人々を病に陥れ、そしてまた人々を救う声でもある。善でもなく悪でもなく、幸福と不幸をともに内包した、まさしく「神秘」の声である。こんな「声」は想像の中にしか存在しえない。実際の楽曲で表せるものではない。だがしかし、我々はしげの声が「蟲」となって山々や村々を経巡るのを見たとき、確かに彼女の「声」を聞くのである。
 これが「マンガ」だ。マンガによってしか表現できないものだ。
 しげの声は村を救ってのち、変質する。
 「潰れ果てたが奇妙に美しい聞き覚えのある唄声」に。恐らく読者もみな、その声を聞き、その美しさに気付くことだろう。

 一つの短編にいちいちこんなに長々と書いてちゃいつまで経っても終わらないのでほかのはごく簡単に(^_^;)。
 『海境(うなさか)より』。
 二年半前、沖に出て妻をもやのような蟲に取りこまれた男・シロウ。
 時を経て、彼はまた沖にあの時の「もや」を見る。
 澁澤龍彦なども小説の題材に使った「うつほ舟」伝説をモチーフに、「浅茅が宿」的夫婦の情愛を描く。
 異界が現世と違う時間が流れていることは、お伽話にはよくある設定だが、それを「不幸」としてではなく「せめてもの救い」として捉えた好編である。

 『重い実』。
 凶作の年ほど豊作になる奇妙な村。村人はそれを「別れ作」と呼び、「豊作の代償に『弱い者』がご先祖さまに取られる」と口々に言う。
 贄の印は、口内に生える「瑞歯」。そして今年、瑞歯が生えた男は、この村に豊作をもたらしたはずの祭主だった。
 「永遠の生命」をモチーフにした物語は数あるが、これほどに美しい物語は珍しい。萩尾望都の『ポーの一族』、諸星大二郎の『暗黒神話』、あさりよしとおの『ワッハマン』(^o^)に並ぶ傑作だろう。大地が永遠であるならば、永遠の命も決して恐れることはないのではないだろうか。

 『硯に住む白』。
 硯師のたがねが作った硯は、彼女の婚約者を殺し、持ち主を次々に死に至らしめていく。そして今度は蔵の中にしまわれた硯をいたずらした子供達が病にかかって……。
 今巻では一番オーソドックスな妖怪退治ものかな。もちろんこれもよくできた短編なんだけれども、ほかのが傑作揃いだと印象が薄くなってしまうのがなんとももったいない。
 『旅をする沼』に登場した収集家・化野(あだしの)先生の再登場、かつ失敗談としても楽しめる一編。

 『眇(すがめ)の魚(うお)』。
 「すがめ」とは片目、めっかち、あるいは斜視、やぶにらみのこと。「すがめで見る」という言い方をした時には「横目で見る」という意味になる。昔、差別語に指定されたこともあったが、みんなが使わなくなったら差別語であることも忘れ去られた(^o^)。おかげでこうして堂々とタイトルに使われました。
 なんと「蟲師」ギンコの誕生編(カラーページ付き)。ギンコって本名じゃなかったんだね。「ギンコ」は「銀蠱」だとわかったけれど、本名の「ヨキ」ってのは「斧」って意味かなあ。
 岩崩で母を失った物売りの息子・ヨキは、森に住む片目の女、ぬいに拾われる。ぬいはかつて「蟲師」を生業としていたのだが、ある時「トコヤミ」に夫と子供を捕われた。それ以来、その「トコヤミ」の住む池のそばに六年も住み続けているのだという。
 「こんな恐ろしい蟲、どうして生かしておくんだよ」
 ヨキの詰問にぬいは静かに答える。
 「畏れや怒りに目を眩まされるな。皆、ただそれぞれがあるようにあるだけ。逃れられるモノからは知恵ある我々が逃れればいい。蟲師とは、ずっとはるか古来からその術を探してきた者達だ」
 「蟲師」の時代設定が今からやや昔に設定されているのは、現代の我々が「あるようにある」ものを否定しているからではないか。口では「偏見をなくそう」と言いつつ、他人の欠陥を、世の闇を忌み嫌う人間のいかに多いことか。
 醜いもの、汚れたもの、奇妙なもの、狂ったもの、害をなすもの、それらもまたこの世界を構成する一つのものではないのか。「蟲」はその象徴である。そして「蟲」を心の内に潜ませていない人間は誰一人いないだろう。
 ヨキは銀蠱に出会う。トコヤミの底に住む目のない魚に。そしてトコヤミから出て再び現世の光を見るために、片目と記憶を失う。闇から抜け出すためにはなんでもいい、思いつく名を自分の名とすればいい。
 そして、そのときからヨキは「ギンコ」となった。
 ギンコもまた、いつかはトコヤミに飲まれる日が来るのかもしれない。それが「蟲」を見続ける者たちの宿命であるなら。ギンコは「再び会おう」と約束した人達とももう会えないのだろうか。
 でも、いや、だからこそギンコは蟲たちを見続ける。自らが「あるようにある」ために。

 短く書くつもりがまた長くなっちまったな。いや、これもいつものこと。
 でも実はこれでも全然書きたりないのだ。こういうのはいったいどういう蟲に取り憑かれてるんだろうね?


 しげ、クリスマスイブだというのに外出である。
 なんでも職場の人たちとパーティーをするという。
 「冷蔵庫にケーキ入れてるから、店が終わるころに持ってきてくれん?」
 「店が終わるころっていつだよ」
 「さあ、12時過ぎるかも」
 「自分で取りに来いよ! 明日オレ仕事だよ!」
 全く、自分は甘えて当然って顔して、ヒトの都合は全く考えないのである。
 結局、私が寝てる間にケーキは取りに来たらしい。
 最初からそうしろ。

2001年12月24日(月) イブの焼肉/DVD『三毛猫ホームズの推理』/『シベリア超特急』ほか
2000年12月24日(日) 昼寝したので今日の休日は短かった/『ルパン三世』7集(山上正月)


2002年12月23日(月) 料理は好きなんだけどね/『帰ってきたウルトラマン大全』(白石雅彦・荻野友大)/DVD『アリーテ姫』/DVD『椿三十郎』ほか

 天皇陛下、もう69歳か。
 体調もよくないようだし、平成もそう長くはないだろうなあ。あと10年前後と見て、さて、私がくたばるのととどっちが早いか。
 きっと今の皇太子が践祚したあとで皇室典範の改訂が行われるんじゃないかな。女性の即位を認めるように。となると未来の「玉の輿」は男か。ハタ、と気付いたが、女性が天皇の場合、その夫の呼称はどうなるんだろう?


 岡田斗司夫さんがいよいよ食玩プロデュースに乗り出すそうである。
 ここまでありとあらゆるバラエティーなものが出回っているのに、ここでもう一つ、というのはなかなか大変じゃないかと思うのだが、さてどんな企画なんだろう。
 「岡田斗司夫」の名を関する限りはオタク度の高いものでなくてはならないし、かと言って売れそうにもないものじゃしようがないし。関西人の悪い癖で、ノッちゃうと「オ○コマーク事件」とかトンデモナイ発想をしたりするからなあ、岡田さんは。海外SFドラマコレクションの類なんかだといかにも「らしい」んだけど、今一つインパクトが薄いしなあ。
 もしかして岡田さん自身のフィギュアとか(^o^)。オタアミで売ろう♪
 なんにせよ、そのうち具体的な発表があるだろうから、期待して待ちましょ。もちろん私はオトナ買いしちゃいますよ。


 今日は一日、日記書きと昼寝。
 しげが「料理作ってくれたら、片付けはするよ」と、今まで1億5千万と飛んで3回は繰り返した言葉を信じてカレーを作ってやる。なんで信じるかな、オレ。
 市販のカレー粉を混ぜ合わせ、予めバターで炒めた肉汁で再度炒めて、醤油とフルーツジュースと牛乳で味をまろやかにする。近所のカレー屋のカレーよりよっぽどコクがある。
 しげ、「美味い美味い」と食って、皿に山盛り二杯おかわりするが、やっぱりそのまま片付けもせずに放置。食ったらもう約束を忘れているのである。シナプスの切れる速度が常人の三倍は速いんじゃないか、こいつ。


 マンガ、藤子不二雄A『黒ベエ』2・3巻(完結/ブッキング・410円)。
 全11話で完結しているが、白眉は8話の『黒ベエ、白ベエになる!』。
 かわいい少女に出会って、悪行の数々をたしなめられる黒ベエ。少女に惚れた黒ベエは、悔い改めて黒い服を脱ぎ捨て白服にイメージチェンジ、「白ベエ」としてよいことをしようとするが、やることなすこと大失敗、かえって周りに迷惑をかけまくってしまう。それを見た少女が黒ベエに投げかける言葉がスゴイ。
 激情するわけでもなく淡々と冷静にこう言うのだ。「君の心は服ぐらい変えてもどうにもならないほどシンまで黒くそまっているのだわ」
 いや、確かに黒べエはそういうキャラクターなんだけど、そこまで身もフタもない言い方するのか(^_^;)。その少女は水鉄砲で黒インクを黒ベエに浴びせ、「きみにはやっぱり黒い服の方がよく似合うわ!!」と言って去る。
 黒ベエの頬を伝う涙。けれど、これはそれで正解だったのではないか? 人の持つ欲望を含めたドス黒い部分、これをキレイゴトだけで否定してしまうことは人間のありうべき尊厳自体を否定しかねないのだ。
 いいじゃないの、悪人で。自分を善人だと信じてる既知外より、よっぽどマシだよ。


 白石雅彦・荻野友大編著・西村祐次資料・円谷プロダクション監修『帰ってきたウルトラマン大全』(双葉社・2310円)。
 「誕生30年&DVD発売記念」とオビにある。オイ、もうそんな昔か。感覚的にはついこの間なんだがなあ。初期ウルトラ世代の感覚だと、もう「帰りマン」以降は世代が代変わりしてるんだけど、もう今の若い人にとってはこれすら「古典」なんだよなあ。しげですら『80』以降の記憶しかない……ということは、今の10代、『ティガ』が最初のウルトラマンってことになるのか。うーん(-_-;)。
 しかしハヤタとモロボシダン、郷秀樹が出会う設定上の矛盾について、何か解説があるかと思ったら全然なかったなあ。これ、もう「今さら触れるなよ」ってことなのかね。私ゃ未だに納得してないんだけど。


 DVD『アリーテ姫』。
 結局、福岡までは来なかったんじゃないかなあ、世評はすごく高かったというのに。というわけで今回見るのが初めて。『名探偵ホームズ』の片渕須直氏の初監督作品ということで興味を持ってたんだけど、片渕さんの名前知ってる人も少ないんだろうなあ。
 原作はダイアナ・コールスの『アリーテ姫の冒険』。と言っても映像化に当たっては結構アレンジがされているらしいが、未読なのでよく分らない。映画の方は一言で言ってしまえば、深窓のお姫様が、魔法使いに攫われたのち、ただの一人の人間として生きて行く決意をするまでの物語である。
 非常に丹念な作りがされてしいるし、中世の世界のように見えたものが、実は失われた科学技術の崩壊したはるか未来世界の話、とわかって驚くような仕掛けはあるのだが、全体的にひたすら地味である。作画は丁寧、演出も堅実で、CGIのさりげない使い方も見事なのだが、アニメーションとしてのカタルシスには乏しい。同じようなテーマを映像化するなら、1960、70年代の東映動画だったらもっと楽しく派手に演出してくれたものなんだが。
 もちろん本作は、惹句にもある通り、「自分に迷い、自分にできる何かを探しているすべての世代の人たちに見てほしい、こころの冒険の物語」である。私のように「今さら自分に迷ってるほどヒマ人じゃねーよ、自分にできることなんてもともとない、そんなふうに考えるのはただの思い上がりだ」と思ってる人間にとっては無用の物語である。私にできることはせいぜい「アリーテちゃん、がんばれ!」とかげながら応援することくらいだ(^o^)。
 けれどやはりこの映画は「今」の人に見てほしい、そして感想を聞いてみたい、と思わせる物語である。具体的に名前を上げはしないが、この日記の読者であるあの人やあの人が見たらどう思うかなあ、とか想像しながら見た。
 アリーテは美人ではない。求婚し夜這いしてくる隣国の王子たちも、別に人間としてのアリーテを求めているわけではない。それを知悉しているアリーテは、門番の目を盗んでは街中を身分を隠して歩き、自分がここで何をして生きていけるかを模索する。それはまさしく「自分探し」の彷徨だ。
 しかし、本来、文学や芸術はそういった個人のさ迷いの果てにある「世界」を描こうとすることに主眼があった。そう考えると、この『アリーテ姫』の物語は、ラストに至ってようやく「物語」が始まるのであって、本編自体は「文学以前」を描いたものとしか言えない。もっとはっきり言えば、「人間」の物語はようゆくこのラストから始まるのである。
 そういう物語を現代の若い人が本当に欲しているとすれば、そういった人たちはまだ「人間ではない」ということにもなる。「あなたはまだ人間じゃないでしょ?」と言われて、若い人たちはそれでもこの物語に感動してしまうのだろうか。実際、私が「すべての世代の人たちに」という言葉を不遜に感じてしまうのは、「いいオトナがさあ、今更自分探ししてるようじゃ、人として情けないじゃん」と思ってしまうからである。
 だから私は、こういう映画が作られてしまう「時代」が悲しいなあ、と思うのだ。まあ、太宰治や三島由紀夫にかぶれる人を哀れむのと同じような感覚なのね。


 DVD『椿三十郎』。
 黒澤明『用心棒』シリーズの第2作(第3作は監督が代わって稲垣浩監督の『待ち伏せ』。岡本喜八の『座頭市と用心棒』は番外編と見るべきだろう)。
 原作は山本周五郎の『日々平安』で、メイキングで小林桂樹が語っているところによると、本来、主演は小林さんの予定だったそうである。確かに原作のイメージなら小林さんのほうがうってつけだ。チョイ役出演の小林さんが、タイトルロールでは三船敏郎、加山雄三に続いて三番目なのにはそういう理由があるのだろう。
 もちろん、その主役交代は前作『用心棒』の大ヒットで「三十郎ものをもう1本」と東宝から頼まれたためである。そのせいで三船敏郎の三十郎、いかにも山本周五郎的世界を体現している入江たか子や団令子の間にあって実に居心地が悪そうであった。居心地が悪いのは仲代達矢演ずる室戸半兵衛もそうであって、本来、彼がその悪辣な知恵を弄するのは、藩を乗っ取ったあとであったはずである。三十郎に「あいつは虎だぜ」と言われちゃいるが、その虎としての本領を全く発揮しないまま物語は終わってしまう。
 だから、あの有名な血飛沫のラストシーンは、全く山本周五郎的でない二人のキャラクターの憤懣が爆発した瞬間であったのだ。さて、原作者はあれをどう見たことか。
 仲代達矢がインタビューで「ラストではあの血飛沫が出た途端に記録の野上(照代)さんが逃げ出してねえ」と笑っていたのが楽しかった。

2001年12月23日(日) 幸せを配る人/映画『アメリ』/『あひるの王子さま』2巻(森永あい)ほか
2000年12月23日(土) 天皇誕生日スペシャル/『本格推理マガジン・絢爛たる殺人』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)