無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年12月19日(木) オタクの明るい未来/『リンダリンダ ラバーソール』(大槻ケンヂ)

 朝、またもやしげ起きてこれず、タクシーで職場へ。
 このとき乗ったタクシーの運ちゃんがなんかボケてて、道を教えても「はあ?」とよく聞こえない様子。「右です」「左です」と、いちいち二回ずつ言わないと伝わらないのだ。
 私はタクシーの運ちゃんの話を聞くのが好きなのだが、たまにこういうのに当たることもあって、そういうときはホントに往生するのである。なんたって「右」と言ってるのに左に曲がられるから、仕方なく「次の次の角を右ですよ」と早めに言うと、次の角で右に曲がられてしまったりするのである。
 朝っぱらから神経使わされたせいか、体調がよくない。
 喉がいがらっぽく、咳も出始めたので、また風邪にかかったかと暗い気分になる。葛根湯を飲んで、体を休め休めしながら仕事。


 職場で若い子たちとお喋りしていると、なぜか「オタクはいかにして恋愛するか」という話になる。というのも話相手は二人だったのだが、そいつら二人が二人して男も女も隠れオタクだったのであった。
 まずそのオタク野郎が、「鬱陶しいオタク」の典型だったと思っていただきたい。大声でしつこくて自分の趣味を押しつけるタイプで、女の子に嫌われて当然、というやつだ。
 「お前さあ、趣味は趣味で持ってていいけどさあ、もう少し、人の気持ち考えろよ。彼女いないだろ?」
 「いませんけど」
 「女の子好きになっても、自分の趣味押しつけるばかりで、女の子から好きになられるような自分になろうなんて考えてないだろ?」
 「……まあ」
 「好きな子いるか?」
 「いやその」
 「どうせお前のことだからさ、好きだけどなかなか言い出せなくてよ、なにかのきっかけで向こうからこっちを見てくれないかなあ、とか甘いこと考えててよ、それでいて偶然目があったらついソッポ向いたりしてよ、優しい思いやりのある言葉の一つも言えなくて、会話すればつまんないことで言い合いのケンカになったりしてさ、本心はいつまでも言えないままで、それ以上関係が進まないとか、そんなガキみたいな恋愛してるんだろ」
 「あの……えらく具体的なんスけど、見てたんすか?」
 「見てなくても当たってるだろう」
 「……当たってます」
 「自分の言いたいことだけ言って、相手の気持ち考えないからそうなるんだよ。相手はお前の大事な大事なフィギュアじゃなくて生身の人間なんだぞ? 自分の思い通りになるって心のどこかで思ってるからゴーマンな態度取って平気でいられるんだよ。そんなことしてたら30過ぎても結婚できなくて、段々焦ってきてちょっとかわいいオタクっぽい女の子がいたら、『この子しかいない!』とか思いこんでムリヤリからんでストーカーめいた行為働いちゃって「気持ち悪い」って嫌われてよ、トモダチからも絶交されて独りぼっちになっちゃうとか、そんな哀れなオタクになっちゃうんだぞ。シンジくんか。だいたいオタク男ってさ、同じ趣味持ってるからってオタク女を好きになるけどさ、オタク女はオタク男が鬱陶しいから嫌いだってことに気づいてないんだよな」
 「あ、あの、なんかスゴイ、イタイんスけど」
 「ある人の実話だ」
 「うひいいいいい!」
 後ろで女の子が笑っていたので、そちらにもネタを振る。
 「女のオタクだって、30過ぎまで独身で結婚できないなんてのいくらでもいるんだぞ。ずっと同人誌でヤオイマンガとか描いててよ、コミケでいいブース取ることだけに命かけててよ、○○サマ〜とか○○サマ〜とか人目も憚らず叫んでるもんだから、『あいつに近づくとヤバいぞ』って男の間でウワサ立てられてよ、宴会のあと『ウチまで送ってやるよ』ってエスコートされてよ、ホントにウチまで送られちゃうような女になっちまうんだよ」
 「あ、あの、ムネがイタイんですけど……」
 「実話だ」
 「ああああああ!」
 「オタクだからって人と違ってていいとか、常識なくていいとか、全部言い訳なんだよ、少しは自分のやってること、見直せよな」
 もちろん、私が自分を見直して見たことなんてないのは言うまでもない。
 「心に棚を作れ!」(by伊吹三郎(^o^))。
 あの、これ冗談の会話ですから、オタクのみなさん、本気で怒らないでね。


 帰りがまた、定期の見回りで遅くなる。
 しげはもう仕事に出かけているので、コンビニでチキンカレーとデミグラスソースオムライスを買って、これが晩飯。
 「ゴジラ名鑑」をいくつか買って、ようやく「メカゴジラ」をゲット。あとは「南海ゴジラ」だけだけれど、さてあと何個買えば手に入ることやら。


 夜、東京のこうたろう君から電話。
 「たまにはこちらから電話でも」とありがたいコトバ。日記に夫婦ゲンカの記述が多いので心配してくれているようだ。
 しげとは年齢差があるので、そのミゾを埋めるには軽いケンカ&たまに重いケンカは必要なのである。何しろしげに私の気持ちが伝わらないように、私もしげの考えてることが分らないのだから。
 仮にホントにリコンなんてことになれば、この日記でどれだけ私がしげに対して乱暴狼藉を働いたかの証拠になるだろうから、慰謝料は私から取り放題だろう。しげにとって不都合なことにはならないはずである。


 大槻ケンヂ『リンダリンダ ラバーソール いかす!バンドブーム天国』(メディアファクトリー・1260円)。
 いわゆる「バンドブーム」というものに私は全く引っかからなかった。
 タイトルにある「リンダリンダ」だって、サビの「リンダリンダー!」って絶叫してるのを何かの番組で見かけたことがあるだけだし、甲本ヒロトの名前も知らなかったのである。っつーか私にとっての甲本ヒロトって、『タイムボカン王道復古』でのセコビッチ・ファンの甲本浩人くんなんだけどな(誰が知ってるそんなもん)。「山本正之と組んでるアニソン歌手」というのが基本イメージなのだ。こんな覚え方されてたら、ブルーハーツファンは激怒するかもしれないが、甲本さんは山本さんを師匠と仰いでるんだから、失礼には当たるまい。ついでに言えば、甲本さんの弟が俳優で元東京サンシャインボーイズの甲本雅裕。弟さんがゲストで出演していた『笑っていいとも』を偶然見ていて知った。トモダチのトモダチの輪はなかなか面白い。
 いやまた話が逸れた。
 要するに私は「イカ天」も全く見てなくて、ロック系とは全く縁がなかったのだが、それがどうして大槻ケンヂにだけは興味を示したかと言うと、この人が江戸川乱歩のファンだったからである。
 何かの番組で、「乱歩の映像化にはもっと超豪華におカネをかけなければならない」と語ってたのを聞いて、得たりや応、と膝を叩いたのである。それから大槻さんが書いたSF小説なども何冊か買ったのだが、すぐに山の中に消えて未だに取り出せない。エッセイをいくつか読んだきりなので、大槻さんの本格的な「小説」(ひたすら自伝に近いが)を読むのはこれが始めてである。

 私は「筋肉少女帯」の曲も殆ど知らない。「高木ブー伝説」もサビの部分しか知らない。「ボヨヨンロック」も聞いたことがない。
 なのにこの小説が面白くて仕方なかったのは、これがまさしく「青春小説」だったからだろう。
 バンドブームとはいったいなんだったのか。全てのものが消費されつくしていく時代の流れの中では、それもまた流行歌の歴史の一つの徒花、と切って捨てることもできようが、その渦中にあったものたちは自らを表現すべく、蠢き、あがいていた。けれど、彼らが表現したかったものはいったい何だったのか。
 実はそんなものはない。彼らにあったのは何かを表現したいいという思いだけであり、それが奇矯なスタイル、奇矯なライブを作り出していった。大槻さんはそう喝破する。舞台でゲロを吐いた男達もいたが、それはなんの表現にもなっていないという意味でまさしく彼らの表現だった。
 無意味さが無為ではないことを示すのが青春小説の謂であるとすれば、まさしくこれは青春小説の名にふさわしい。この小説の切なさはそこから生まれてきている。
 どこに向かって行くのかわからぬまま、殆ど全てのバンドが嵐に飲みこまれ、遭難して行った。そして死んでいった者たち。バンドブームが終わり、イロモノになっていった池田貴族が最後にロックに帰って行く姿は切ない。その曲を私は聞いたこともないのに。
 大槻ケンヂは一応、生き残りはした。けれど失ったものもやはりあった。それはまさしく「青春」そのもの。
 浮気がバレて別れたかつての彼女、コマコとの再会でこの物語は終わる。
 多分、この最終章は大槻さんのフィクションではないかと思うが、コマコは別れた日に大槻さんとした約束を果たしてもらうために、再び大槻さんに会って言葉を伝えるのだ。
 「ラバーソールを買って」
 もう今は誰もそんな厚底靴を履く人はいないだろう。昔のファッションがとてつもなく恥ずかしいのはそれがバカの証明だからだが、コマコは大槻さんに「神様がオーケンにバカやっていいって言ってくれてんだよ」と語る。
 バカの思い出を抱いてコマコは去っていく。けれど、背中を向け、去って行くコマコの姿を大槻さんは描写しない。大槻さんと二度と会うことはないだろうその後ろ姿を、私は勝手に想像する。
 そのとき、コマコは自分の靴をラバーソールに履きかえただろうか。
 読み終わった私がちょっと気になったのはそのことだった。

2001年12月19日(水) 厳密な計算/『透明な季節』(梶龍雄)/『コータローまかりとおる!L』2巻(蛭田達也)ほか
2000年12月19日(火) 多分、ココロが病んでいるのです/『名探偵コナン』30巻(青山剛昌)


2002年12月18日(水) つらいよねえ、やっぱり/『“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期』(デイヴ・ペルザー作/田栗美奈子訳)

 ちょっと楽しい話題から。
 東京書籍発行の中学教科書『新しい社会 公民』の記述の中で、新潟県中里村の「雪国はつらつ条例」を「雪国はつらいよ条例」と誤記していたことが判明。
 もちろん東京書籍は来年度用の教科書では修正する措置を取ったそうだが、村の方は「雪を克服しようとしているのに、まったく逆のイメージが広まってしまった」とカンカンに怒ってるそうだ。
 村が怒るのは当然だけれど、申し訳ないことにこういうニュースは大好きである。文部科学省もこのミスに気がつかなかつたってんだから痛快じゃないの。
 原因はパソコンへの入力ミスということで、打ちこんだ人も多分「雪国はツライよ」と信じきっていたに違いないね。だってさあ、「南国はツライよ」とか「常夏はつらいよ」とかじゃあイメージが結びつかなくて誤記のしようがないもの。これが「雪国」だからしっかりハマっちゃったのである。
 それにヒドイ話ではあるが、これで「はつらつ条例」はかえって有名になったんじゃない? こういう事件がない限り私だってそんなん知る機会なかったと思うし。怒るほどマイナスイメージにはなってないと思うけどなあ。雪国の人がはつらつとしてるってんなら、こういうミスも笑って赦してやるくらいの度量があったらよかったと思うんだけど、どうかね。
 それにしても「条例」とは言ってるけど、具体的にはどんなこと記してあるのかねえ。「第一章・雪国人は雪国人としての誇りを持たねばならない」とか?
 「第二章・雪国人は雪との平和的な共存を図り、雪だるま・カマクラ・雪合戦などの雪国文化を後世に伝えるべく努力すべし」とか。
 雪国の商工会議所のあちこちにこれが張られてて、みんな朝礼で唱和してから仕事にかかるんだよ、きっと。
 せっかくだから「ホントはこうです」って宣伝すればいいのにねえ。どうも役所ってとこはアタマが固くてイカンよねえ。


 珍しいことはウチでも起こるという話。
 仕事帰り、迎えに来たしげが愚痴を言う。
 「今日、水漏れがあったんよ」
 「なにそれ」
 「上の階の洗濯機の配管が壊れてて、天井から水が漏れてきたと」
 「それでどしたん」
 「仕方ないから管理会社に電話して直してもらった」
 「直ったんならいいやん」
 「よくないよ、工事の人がくるまで、管理会社の人とずっと世間話しなきゃならなかったんだから」
 「なんて?」
 「『本やビデオがたくさんありますねー』とか、『ガンダム』見つけて『ファンでしたー』とか『イデオンがどうの』とか」。
 どうやら結構オタクな兄ちゃんだったらしい。
 そういう会話は確かにしげは苦手だろうが、それも世間との付き合い方の勉強になるというものだ。
 帰宅して見ると、なるほど、天井にヒビが入っていて、水が漏れた跡がある。洗面器を置いてあるのが昔の貧乏長屋の風景みたいだ。あと数センチずれていたら、DVDプレイヤーにかかっていたところで、危機一髪であった。
 これの修繕費、当然タダなんだろうな。


 今日もしげは早出だと言うので一緒の食事はなし。
 昨日同様、ほっかほっか亭で新発売のガーリックチキン弁当を頼んで食う。こちらの方が昨日のテリヤキより好み。
 新製品に飛び付く、というより、もともと私は定食屋などでも一通りメニューを制覇しないと気が収まらない性格なのである。
 同じものしか頼まないしげと趣味が合わないのも仕方ないか。


 デイヴ・ペルザー作・田栗美奈子訳『“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期』(ソニー・マガジンズ/ヴィレッジブックス・650円)。
 ベストセラーの文庫化。
 作者自身がいかに母親から虐待を受けて来たかって経験を語っているだけだから、本来ツッコミの入れようもないはずなんだけれど、一人称の伝記というのは、ともすれば客観性を失う危険を秘めている。
 読んでいて母親の折檻の異常さ、特にデヴィッドを風呂場に閉じ込めてガスで苦しめるなんてのは戦慄ものなんだけれど、そういう描写を読まされるたびにどうにも疑問が涌きあがって、素直に「かわいそう」とか「ひどいなあ」とか思えなくなってしまうのである。つまり、母親の虐待の動機が全く語られない点、それと父親の見て見ぬフリ、この二点が引っかかって、なかなか読み進められないのである。
 もちろん、子供であるデヴィッドにもそれはわからない。彼はいつの間にかどういうわけか兄弟三人のうちたった一人だけ、虐待され始めたのだ。彼が考えていたことは、現実に目の前にある虐待という事実からいかに逃げるかということだけで、「どうして自分が?」と思う余裕すらなかったのである。
 読者は受け入れるしかない。
 親は子を憎み、殴り、刺し、虐待し続けるものなのだと。父親の放置も緩やかな虐待であろう。
 なぜそんなことをするのかと両親に聞いても、恐らく彼ら自身、答えられないだろう。本当は、理由などないのだから。親が子を愛するのに理由がないように。

 私もかつて、子供のころ、父親から「虐待」と言ってもいい折檻を受けたことがしばしばあった。難しいのは、一方で父親に熱愛されたことも間違いない事実として認識していることだ。この矛盾をどう理解すればいいのか?
 母親は私に「お父さんはアンタのことがすごく好きだから、自分の思い通りに育ってくれないのが悔しいんよ」と説明した。
 だからってなあ、殺そうとまでするかなあ。酔っ払ったオヤジに鉄板でアタマ殴られたこともあるんだぞ(私は事故で頭蓋骨にヒビが入っているので、ショックで死ぬ危険もあったのである)。親は子にそんなことまでするのか。いや、酔っ払ってるからこそ本性が現われたのかもしれないが。
 子供のころの私にとって父親は恐怖の対象であった。父と話ができるようになってきたのは皮肉なことに父が病気で老いさらばえてきてからである。今ならケンカして私が負ける心配はない。

 デヴィッドの母親がデヴィッドを憎んで虐待していたのか、それはわからない。あるいはそれが母親の歪んだ愛情の形だったのかもしれないとも思う。それで死んでしまう子も存在するとしても、やはりそれは「愛情」としか言えない場合もあるのだ。
 愛情なんて、もともと人と人を繋ぐものとしては極めて不確定かつ危険なものである。移ろいやすく、アテにならない場合も多い。「家族の絆は愛情」とか、能天気に言い放って平気でいられる人間が多いのは、実は潜在意識の奥底で、その絆が簡単に解けることを知っていて、リセットの準備をしているのではなかろうか。
 でなきゃ、どうしてこんなに欧米でも日本でも離婚率が高くなっているのか?
 子を育てるシステムとして、「個人個人の愛情によって結ばれた家族」というのは、実は極めて持ちが弱いのである。『オトナ帝国の逆襲』でしんちゃんは「ずっとみんなといたいから」と叫んだが、実は原作マンガでは「ずっといっしょ? それもちょっとな」と現実的なことを言っている。ハタチを過ぎても親元から離れないパラサイト・シングルが増えている状況を、果たして「家族の絆」などという甘いコトバで語れるのか?
 疑問が膨らんでしまうのは、デヴィッドの母親は、息子を一生自分の手元から離すまいと思っていたのではないか、という気がするからである。デヴィッドがオトナになって「自立」すれば、自分の行為が白日のもとに晒されるのである。そうならないようにする意図がなければ、どうしてあれほどの虐待を続けられものだろうか。母親は「虐待」という絆で、デヴィッドとの永遠の関係を夢見ていたようにすら思える。実際にデヴィッドは、その虐待される関係から抜けだし、救いを求めることがずっとできなかったのだ。
 これが悲劇でなくてなんであろう。
 子供って、できるだけ早く自立させるもんだと思うんだけれど、違うかね。少なくとも「優しさ」とか「思いやり」とか「気遣い」とか「助け合い」が「強制」される世の中って、すごく気持ちが悪いと思うんだけど、どうかな。

2001年12月18日(火) バラゴンには女の人が入ってるんだよ/映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』ほか
2000年12月18日(月) もしかしたらあなたも覗かれてるかも/『だから声優やめられない!』(山寺宏一)


2002年12月17日(火) 買ったからには見まくるぞ/DVD『七人の侍』『赤ひげ』『蜘蛛巣城』『姿三四郎・最長版』

 昨日外に締め出したしげ、朝になったら帰って来るかと思ったら、音信不通のまま。
 これで仕事場に迎えにも来なかったら、また二、三日追い出しておこうかと思ったが、仕事を終えて駐車場に出てみると、ちゃんと車を乗り付けている。ただゴメンの言葉はない。いやに静かに大人しくはしているが、反省しているわけではないのは分ってるので、早晩またケンカになるであろう。
 しげ、仕事が早いと言うので、コンビニで落としてもらって、自分一人分の夕食の買い物。近所のほっかほっか亭を覗くと、新発売とやらの「てりやきチキン弁当」を売り出していたので、それを買う。ちょっと味が濃いが、まあ悪くはない味。


 初めてアニメ『スパイラル』を見る。
 クリスマスに合わせてか、プレゼントを買う話で、本筋からちょっと離れている印象。思ってたより出来はそう悪くなさそう……と思ったら、作ってるのが『少女革命ウテナ』『エクセルサーガ』のJ.C.STAFF。ああ、こりゃもう少し早めに見ておけばよかった。トリックに難があるのは分るけれど、原作は必ずしも志が低くはないんで、アニメのデキがよければ追っかけてみてもいいかなと考えているのである。


 さて、今日は黒澤明ボックスのまとめ見。一度見てるやつばかりだし、筋は先刻ご承知、という方もおられようから、今回見て、改めて気づいたところだけ。
 まずは途中まで見てたDVD『七人の侍』後編。
 これも語りだすと長くなりそうだなあ。できるだけ短くいこう。
 最初に見たのは多分中学生か高校生のころだと思うけれど、そのときは登場人物に好き嫌いが結構あった。
 七人の侍で好きなのは、久蔵・勘兵衛・五郎兵衛・七郎次・平八の順で、勝四郎と菊千代は嫌い。百姓はみんな嫌いだった。要するに足引っ張るやつが嫌いだつたのだね。
 ところがこのトシになって見返してみると、この嫌いだったはずの青二才たちが全く逆にいとおしく見えてくるのである。百姓の利吉の軽率で平八が、菊千代の先走りのせいで五郎兵衛が死んだと言うのに、中学生のころは腹を立ててた私が今は「それも仕方がないよなあ、若いんだし」という気持ちになっているのである。それどころか彼らの若さ故の苦悩が昔よりヒシヒシと伝わってくるのだ。
 考えてみたら、黒澤監督は常々「私は青二才が好きだ」と公言していた。たとえ失敗しても、人を傷つけても、そこで泣き、自らを責め、そこから先に進もうとする意志が若者には見える。それをこそ黒澤監督は「オトナ」として愛したのだろう。
 なるほど、平八が死んでも五郎兵衛が死んでも、勘兵衛たち「オトナ」は、一切その責任を利吉や菊千代に着せようとはしなかった。彼らの「若さ故の過ち」はオトナが引き受けなければならない自らの罪でもあるからだろう。
 ……そう思うと現実のオトナって、みんなオトナになりきれてないトッチャンボーヤばかりだよなあ。いったいいつから日本は「オトナ」のいない社会になってしまったのか。
 メイキングには、当時の撮影風景もチラリと収録。


 DVD『赤ひげ』。
 これもまた「青二才」の物語である。パンフレット(これがもうムチャクチャ分厚い)によれば、史実の小石川診療所には赤ひげこと新出去定のような名医はおらず、診療所と言うよりは隔離所のようなもので、病人はあまりここに入りたがらなかったと言うことだ。とすればこれもまた「映画」という名のファンタジーであるのだろう。
 ファンタジーではあっても、その描写の仕方自体は実にリアルだ。
 加山雄三演ずる保本がその高慢から診療所のお仕着せを着るようになるまで、随分時間がかかる。
 六助の死、女の手術、おくにの告白、狂女に殺されかけ、瀕死の佐八に彼の過去を聞かされ、そしてようやくお仕着せを着るのである。自分がここで何をしなければならないか、若造が気付くにはこれだけの手間がかかるということだ。その間、赤ひげはただ保本を見守って待っているだけ。
 この「待つ」ということが今のオトナにはできないのだね。患者に触れ、彼らの心を知ることができれば、自然に自分のすべきことは知れるものだという信念と、若造への信頼がなければ、「待つ」ことはできない。オトナがオトナになりきれないのは、つまりは自らを信じることすらできなくなってるからではないのか。
 ……なんだか青臭い教育論になりそうだからこのへんでやめるけど、説教するだけが能じゃないよなってことは言えるのではなかろうか。
 あともう一つだけ。食事のシーンで去定と森半太夫、保本が三人並んで食事を取るシーンがあるが、これ、『家族ゲーム』で森田芳光がやってた手だなあ。もちろん先にやったのは黒澤さんのほうなので、また私の中で森田芳光の評価が低くなってしまった。


 DVD『蜘蛛巣城』。
 説明は要らないだろうが、シェークスピア『マクベス』の時代劇版である。
 最初劇場で見たときにはセリフが割れてて殆ど聞き取れなかったんだけれど、ノイズが取り除かれて音声もシャープになり、日本語字幕もつくので随分見やすくなった。
 今見るとまさしく舞台を意識してる演出をしてるな、と判るのは、殺人のシーンが殆ど省略されているからである。城主・都築国春を鷲津武時が殺すシーンも、盟友三木義明を家来に暗殺させるシーンもみなカット。けれどこれは鷲津が自らの罪から目を逸らし続けたことの象徴でもある。結局彼は身分不相応な野心に身を滅ぼした、哀れな小さな人間に過ぎないのだ。
 もともとの舞台がそういう脚本になってるのだから、日本に舞台を移しているとは言え、これは原典に忠実な映像化と言えるだろう。
 昔見たときには気付かなかったが、チョイ役で「蜃気楼博士」井上昭文や、「コロンボ」小池朝雄、「ムーミンパパ」高木均などが出演してたのを見つけるのも楽しい。


 DVD『姿三四郎』。
 ご存知の方も多いと思うが、黒澤明のデビュー作である本作の完全版は今のところ存在しない。戦後の再映時に、上映時間の制限を受けてネガからカットされ、そのまま紛失してしまったのだ。カット部分は二十分に及び、その部分は現在、字幕で解説されている。
 以前から「海外には日本映画の失われた作品が埋もれているのではないか」というウワサはたびたびあった。しかし、それがどこにどういう形で残されているかは皆目見当がつかなかった。ところがソ連邦が崩壊したことがこの「失われたフィルム」探索に一筋の光明をもたらしたのである。
 戦時中に満州からロシアに移送されたフィルムの中に、『姿三四郎』の編集版があり、そこに日本版にはないシーンがいくつか発見されたのだ。今回DVD化されたのは、そのカット部分を復元、挿入した、現時点における「最長版」である。
 残念ながら、あまりにも有名な、猫が飛び降りるのを三四郎が見て、投げられても着地する方法を思いつくシーンは今回も発見されなかった。このシーンを亡母は当然見ていて、生前見ていることを自慢して、私を悔しがらせていたものだったが。
 川崎のぼるのマンガ、『いなかっぺ大将』で全く同じエピソードが披露されるが(そのときの猫がニャンコ先生)、これはもちろん『姿三四郎』へのオマージュである。
 今回の復元シーンで最も長いのは、月形龍之介演ずる檜垣源之助が、村井半助の娘・小夜(原作の乙美に当たる)に言い寄るシーン、父親の半助に婚約を取り付けようとするシーンである。これがないと、三四郎との三角関係がはっきりしないよなあ。全く、このシーンの復活は実に喜ばしい。
 村井半助を試合で傷つけてしまった三四郎は、小夜の誘いにも「顔向けができない」と会おうとしない。このシーンも今回の復活。とか何とか言いながら、次のカットでちゃっかりと小夜と一緒に歩いているのだから、カタブツなようでいて小夜に惹かれてしまっている三四郎の純情さ、かわいらしさがここで強調されることになる。こういうユーモラスなシーンは、やっぱりカットされちゃ困るね。
 せっかくこれだけ復元されたんだから、東宝、リバイバル上映くらいしたらどうか。そういう発想がないから、この国では映画文化がいつまで経ってもマトモに評価されないんである。

2001年12月17日(月) はったらっくおっじさん/『BEST13 of ゴルゴ13』(さいとう・たかを)
2000年12月17日(日) 今世紀最後のゴジラ/映画『ゴジラ×メガギラスG 消滅作戦』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)