無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2002年11月10日(日) 永遠という名の魔女/『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』40話/『ギャラリーフェイク』26巻(細野不二彦)

 毎回感想を書いてたらシンドいので、たまに見ても朝の特撮やアニメについては省略することはできないのだが(それでも毎回やたら書いてるよな。更新が進まないはずである)、今回はそうもいかない。
 『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』40話「どれみと魔女をやめた魔女」、これまで「いい加減長く続きすぎてるんじゃないか」とか「どれみがオトナになっちゃったから『おじゃ魔女』っぽくなくなったよなあ」とか文句つけることの方が多かったが、自らの不明を恥じたい。断言するが、これこそテレビアニメ史上に残る傑作である。
 脚本は大和屋暁(やまとや・あかつき。名前でおわかりの通り、日活出身の脚本家で、言わずと知れた『ルパン三世』の大和屋竺氏のご子息である)、作画監督はキャラクターデザインの馬越嘉彦自らが担当、そして監督はもはや日本アニメの重要な一角を担っていると言ってもよい『デジモン』の細田守。シリーズ中の異色作ではあるが、これまでのシリーズの積み重ねがあったからこそ、これだけの作品を送り出すことができたのだ、と言うことができる。

 ある日の放課後、何となく遠回りして下校したどれみは、「未来」という名の美しいお姉さんと出会う。会った途端、どれみが魔女であることを見抜いてしまう未来さん。「マジョガエルになっちゃう!」と慌てふためくどれみだったが、実は未来さんも魔女であった。ホッとするどれみだったが、未来さんはもう魔法は使わないのよ、と言う。
 ガラス細工をしているという彼女に誘われて、ガラスのコップ作りにチャレンジすることになったどれみ。お礼に一週間前に越してきたばかりという未来さんを連れて、美空町のあちこちを案内してあげる。
 夕日を見つめながら未来さんは、止まっているように見えるガラスが、実は長い長い時間をかけてゆっくりと動いていることを語る。未来さんが何を伝えたいのかよくわからないのに、話せば話すほどに彼女の不思議な魅力にいつの間にか惹かれている自分に気付くどれみ。
 またある日、未来の所を訪れたどれみは、彼女が今まで出会ってきた人たちと一緒に写した写真を見せられる。その数の多さに驚くどれみ。その中には未来が「たった二日だけ」好きになりかけたという人との思い出の写真もあった。
 「どうして好きにならなかったの?」と問いかけるどれみに、「私、年上好みなの」とやや寂しげに笑って答える未来。そして、「同じ人とずっと一緒にはいたくない」とも……。
 そうして、未来はどれみとも思い出の写真を撮る。
 なかなかうまくいかなかったガラスのコップもようやく形になり、あとはゆっくり熱を冷ますだけ。
 そして、未来は「明日そのコップを取りに来て、あさってではだめ」と言う。それは、彼女が明後日には例の昔好きになりかけた人の元に行くからであった。その人は普通の人間、年は今はもう90歳を越していて、未来のことを未来の子どもや孫だと思って付き合っていて、未来自身もそれを演じ続けているというのだった。
 「こんな生き方をしてる魔女もいるの」と呟く未来は、どれみに衝撃的なことも告げる。
 「魔女の世界をもっと見たければ一緒に来て」。
 迷うどれみ。美空町のみんなと別れて、未来と一緒にたびに出てもいいのか。夕暮れの街を歩きながら、それでも未来さんへの思いを消せないどれみ。
 しかし、翌日、「未来さん、来たよ!」と彼女の家に飛びこんだどれみを待っていたのは、あの、一緒に撮った写真だけ。
 すでに未来の姿は無かった。
 「……どうして?」
 どれみの問いに答える声はない。

 抒情的である、という点でこれを傑作と呼ぶのではない。
 この作品のキモは、どれみが美空町を捨てようと決意したその一点に尽きる。
 単発のドラマではない、ここまでシリーズを続けておきながら、おじゃ魔女の仲間を捨ててまでどれみは未来さんについて行こうとするのである。見方によっては、これはこれまで『どれみ』という番組を応援してきた視聴者たちの思いを裏切る行為でもあるのだ。例えて言えば仮面ライダーがいきなりショッカーに寝返るようなものだ。ファンが怒り狂ったっておかしかない。

 けれど、リアルな現実として考えてみよう。
 人には、どんなに親しく付き合っている家族、友人、恋人がいても、あるときふと、それまでの人生を全て捨てて、どこかに行きたい、誰かに付いて行きたい、と思う瞬間があるものである。クスリをやったりシューキョーに走ったりただプイとジョーハツしたりしてしまう人がいるように。
 現実を生きる、ということは大なり小なり自分の中の何かを少しずつ犠牲にしていることでもある。それが酒瓶の中の澱のように溜まって行くのを感じる者は、それがたとえ破滅への道とわかっていたとしても、あえてその一歩を踏み出したいと思ってしまうのではないか。
 思えば、どれみはシリーズが重なるたびに「シバリ」をかけられてきていた。ぽっぷがいて、ハナちゃんがいて、いつまでもドジッ子のどれみのままではいられない。もうどれみも小学六年生なのである。
 でも彼女にはたった一つの人生しか与えられないのであろうか。本当にどれみが「生きて」いるのだとしたら、そのことに堪えられるのであろうか。
 誰もが思ったことだろう。「未来」というキャラクターは、もう一人のどれみのまさしく「未来」なのであると。
 どれみもいずれ、大人の恋をする。そのときの彼女が「未来」のように永遠の生を生きる存在になっているのかどうかはわからない。ごく普通の人間と同じく、年を取る魔女として、自分の夫となるべき人と年を重ねて行くのかもしれない。けれどそれはやはりたくさんの岐路を経てどれみ自身が選んで来た道であるはずだ。予定されていた未来などではなく。
 『おじゃ魔女どれみ』シリーズは最終的には予定調和のハッピーエンドで終わるであろう。最終回でどれみが再び未来さんを追い掛ける形で終わるとは思えない。だからこそ「40話」でどれみの「迷い」が描かれる意味があったと思うのだ。凡百の「魔女っ子もの」のルーティーンから外れることを承知で、どれみが選んだ道がたくさんの迷いの中から選んだ道であることを示すために。単に「異色作である」とか、「単発で見るとそれほどでもない」といった評価を下す人もいるんじゃないかと思うが、それこそ表層的なところしか見ていないと言えるだろう。
 これは『どれみ』における『ノンマルトの使者(ウルトラセブン)』なのである。

 未来さんの声は原田知世である。
 『幻魔大戦』『少年ケニヤ』の2作の声優経験はあるが、多分それ以外には声優として起用されたことはないのではないか。
 しっとりとして落ち付いた声で、この深みのある声は誰だと驚きながら初めは全く気付かず、テロップを見てひっくり返った。長らくブランクがありながら、なんとステキな女優に育っていたことか。原田知世が『時かけ』を越える瞬間に立ち会ってしまったのだ。
 今日は奇跡の日である。

 あまりに興奮してしまったので、できるだけ書き込みはしないでいようと思っていた山本弘さんとこの『SF秘密基地』に「な、なんだ今日のどれみはぁぁぁ!」と怒涛の書きこみ。ナカミはウチの掲示板に書いたのとだいたい同じである。
 一番感激した未来さんの「私、年上好みなの」というセリフについてはあえて触れなかった。全ての感動を書きつくそうとすることは、その感激を伝え損なうことにもなりかねない。きっと、語りたい人はいるはずだ、その人たちのために、このセリフに言及することは避けておこう。それに「もとネタ、泉重千代じゃん」なんてアホなツッコミするやつがいたらヤだな、という思いもあった。
 レスがどの程度つくか、と思ったが、一日で山本さんほかたくさんの書き込みがあって嬉しかった。やっぱり結構みんな見てたのね。私の想像通りのアホな書きこみをした人もいて、それには苦笑せざるをえなかったが(^_^;)。


 女優・范文雀さんが5日、心不全のために亡くなっていたことが8日に判明。享年54。『サインはV』のジュン・サンダース役があまりに有名だったために、若死になんだけれど「もうそんな年になっていたのか」という驚きの方が大きい。するってえと主演の岡田可愛もそのくらいの年になってるのか。私の世代の男なら、岡田可愛や吉沢京子あたりが「きれいなお姉さん」のイメージのベースになってると思うので、これもまたショックである。
 台湾出身の范さんがどうして黒人の役を? というのは当時スタッフの間でも疑問が出ていたらしいが、監督が范さんに惚れこんで人種なんか気にしなかったのか、范さんを売り出したかった事務所のゴリ押しか、単に黒人の役者が見つからなかっただけなのか。真相はともかく、まだ子供だった私はそんなの全然気にせず、ジュンを素直に「黒人」と認識してドラマを見ていた。逆に范さんが他のドラマに出演するようになったとき、「何で黒人じゃなくなったの?」とそっちのほうがビックリだった。

 訃報に関して誰も触れていないのが意外なのだが、ジュンの役は日本社会の中の混血児問題を「子供番組」レベルで展開していた、今思えばなかなかにハードな物語であった。池沢さとしのマンガ『あらし!三匹』にもミヒルという混血児キャラが登場して黒い肌をからかう人間に対する怒りを露にしていたが、米進駐軍の後遺症は60年代、70年代にはまだ深刻な問題として社会に影を落としていたのである。
 映画で混血児差別を扱った作品と言えば『キクとイサム』あたりが代表的なものだろうが、森村誠一原作の『人間の証明』あたりを最後にこの問題についてメディアが語ることは殆どなくなった。沖縄の米軍による少女暴行事件などを考えれば、この手の問題が消え去ったわけではないのだが、メディアは露骨にそういう日本社会の闇の部分を隠蔽する方向に進んでいったのだと言わざるを得ない。『ガンダム』のリュウ・ホセイが初期設定の黒人から白人(?)に変更されてしまったのも一つの例か。
 キレイゴトだけで日本には差別の問題なんて何もない、というポーズを取ったほうがいいのか、こういう問題を掘り起こした方がいいのか、単純にどちらか一方に決めつけることはできない。なにせ「キクとイサム」の主演の二人はこれが「実録」であったために映画出演後かえって迫害にあって、消息不明になってしまったのだから。
 しかし、この「隠蔽」が、米軍が行ってきた非道や、今も続く日本人の他人種に対する差別意識を、意図的に日本人の心の中から抹消させていった政治的な配慮であることも事実である。『サインはV』はまだスポーツもののオブラートに包まれている分、DVDとして復活することが可能であったが、『あらし!三匹』などは恐らくミヒルが「ブラック・ムスリム」に傾倒している描写などもまずいのだろう、未だに復刻されない。
 エンタテインメントとしてのドラマにあまり堅苦しい話題を持ちこむのは野暮ったいのだが、語り方の難しさはあるとしても(何しろ日本人の大半はものごとを極端に単純化しないと理解できない)、ジュン・サンダースが『サインはV』の中でどういう位置にあったか、それに触れた記事が少ないのはそれはそれで違和感を感じるのである。「骨肉腫に侵され、志半ばに倒れる悲劇のヒロイン」ってことしか書いてないけど、病気のことだけがクローズアップされるのはどうだかなあ。「生まれも不幸で死ぬのも不幸(本当は不幸ではない人生だったと視聴者に思わせたいにしても)だなんて、そんな理不尽なことがあっていいのか」と、我々は当時、まずそのことをあのドラマから感じながら見てはいなかったか? でなければ、病に犯される以前からジュンが憂いに満ちた表情を見せていたことを、我々はどのように受け留めていたと言うのだろうか。

 范さんの話が横ちょにいってしまったが、『サインはV』後、范さんはやはりどこかミステリアスな雰囲気を漂わせる役柄を演じることが多かったが、ジュンを越える役を演じることはついぞなかった。
 私が印象に残っているのは1978年の「横溝正史シリーズ」中の異色作『夜歩く』のヒロイン、古神八千代である。
 夢遊病患者という設定の、今だったらなかなかドラマ化しにくい役だったが、まるで坂口安吾の『不連続殺人事件』を想起させるような奇人たち(このキャストがまた他の作品には見られぬほど異色である。谷隼人・南風洋子・村井国夫・原泉・菅貫太郎・岸田森・伊藤雄之助といったクセのある面々)の中にあってヒロインを務めるにはただ楚々とした美人では無理である。范さんの個性は八千代役によくあっていた。言い返れば范さんのような逸材を日本の映画界はやはり死蔵していたと言える。


 休日なので1日かけて日記書き。少しは書き進められたがほとんど焼け石に水である。適当なとこでまたワープせにゃならんかなあ。
 晩飯は近所の福一ラーメン。あまり遠出したくなかったので、あまり美味くはないのだが近場ですませた。
 棚に『少年マガジン』のバックナンバー36・7合併号が置いてあったので、しげに『コータローまかりとおる!L』の最終回を読ませる。と言っても打ち切り、掲載誌移行なので、厳密な意味での最終回ではないのだが。
 「なんだ、ウチキリじゃないじゃん」としげは「ダマされた」ってな顔をしているが、連載が別の形で続くとしても、本誌で打ち切りになったという事実は変わらない。連載前読切時代からのファンとしては寂しい限りである。


 マンガ、細野不二彦『ギャラリーフェイク』26巻(小学館/ビッグスピリッツコミックス・530円。
 しかしこれが26巻もネタが続くとは思わなかった。名実ともに細野さんの代表作になっちゃったけど、もう、『どっきりドクター』や『猿飛』みたいな少年マンガの世界には戻ってこないのだろうか。

 巻頭の『ちゃぶ台の値』、わざわざ平仮名でタイトルつけてるけど、読者に読めないだろうという配慮だろうか。「ちゃぶだい」とキーボードに打ち込むと、即座に「卓袱台」と変換してくれるんだけど。でも本編で語ってるとおり、今時卓袱台使ってる家庭はホントになくなっちゃったんだろうから仕方ないのかな。
 「ちゃぶ」というのは中国語で「飯」の意味である“cha‐fan”ないしは“cho−fu”が訛ったもの、と辞書にある。明治期、横浜・神戸で外国人相手に開かれていた小料理屋を「卓袱屋」と称したと言うから、世間に普及したころは結構ハイカラな響きだったのだろう。泥棒の隠語で「売春婦」という意味にも使われてたそうな(^_^;)。
 こういう庶民文化にも「美」を見出す視点は嬉しいのだが、結局はゲストキャラにとっての価値しかない、みたいなところでドラマを収束させちゃうとなんか物足りない印象がしてしまう。消えてしまったの調度と言えば、卓袱台だけではなく、蚊帳や蝿帳や水屋や茶箪笥や煙草盆や豚の蚊取り線香立て、ほんの二、三十年ほど前にはありふれていたものが今はもう見られなくなっているのである。短編だけにどれか一つに話題を絞らないといけないのはわかるが、文化は一つのものに象徴させて語れるものではない。桃山文化を茶器だけで語っちゃヘンだってことと同じである。
 『誓いの錠』は『チビ太の金庫破り』を換骨奪胎してるし、どうも今巻の話はどこか「借り物」めいている。そろそろネタ切れなのかな、細野さん。30巻くらいで区切れよく終わったほうがよくはないかな。そしてまた少年マンガの傑作をどうか一つ。

2001年11月10日(土) AIQ機動!……いや、とっくにしてるんだけども/『不死身探偵オルロック』(G=ヒコロウ)ほか
2000年11月10日(金) 今日は本読みすぎて感想書ききれない/『クトゥルー怪異録』(佐野史郎ほか)ほか


2002年11月09日(土) 探偵って卑下しなきゃならない商売なのかね/映画『トリック 劇場版』

 ここんとこなんとか週に一本は映画に行けるようになっている。
 しげとの休みがちょうど合ってるおかげだけれど、一緒に行動することが少ないと、しげの機嫌はどんとん悪くなっていくので私もホッとしている。
 なんせ私にベタボレなしげは、私がちょっと目を逸らしただけで寂しがって「いや〜ん!」と言って抱きついてくるのである。傍目には嬉しそうな光景であるかもしれんが、日頃クッカーで腕の筋肉をレスラー並に鍛えているしげに「フンギュッ!」と抱きつかれるのである。マジで上と下からナカミが出そうになるのだ。逃げると「オレのこと好かんと〜!」と言ってダイダロス・アタックを掛けてくるのである。死ぬって。
 まあダマ婆さんに「お爺さ〜ん!」と襲われるようなもんだと思っていただければよろしい。
 しげのココロを落ちつかせるためには、日頃から「ボクはいつも君のこと思ってるよ」ビームでもしげに発してなければならんのだろうが、私はフツーの人間なのでそんな怪しいビームは出せない。仕方なく、できるだけ一緒にいて、しげが泣いたり怒ったり○○したりしてもすくに機嫌を取り結ぶことができるようにしてなきゃならんのだが、そのためには見に行く映画も厳選せねばならない。面白い映画だと見終わったあとは私もしげもニコニコなのだが、つまんない映画だと、途端にしげの眼は三白眼と化し、「なんでこんなつまんない映画にわざわざ連れてきたんだ二時間ずっと苦痛だったぞケツは痛いし腹は下るし酸欠起こして頭痛はするしこれはオレへのイジメかそうかそうなんだなこいつオレのことなんてなにも考えてないんだクソ悔しい悔しいどうしてくれよう」と言う目つきに変わっているのだ。
 で、今日、見に行く予定の映画は『トリック 劇場版』である。
 ……これって自殺行為か?(^_^;)

 トリアス久山に向かう車の中で、前を行く車を指してしげが、「あれヤン車やね、で、オレたちと一緒のとこへ行くよ」と言い出す。
 マンウォッチングの趣味でもあるのかと聞いたら別にそういうことではないらしい。私には見た目どういうのがヤン車なのかは分らないが、少なくともトリアスに行くなんて断定はできないと思ったので、その旨をしげに告げたら、「絶対だ」と主張する。
 「なんでトリアスに行くって断言できるんだよ。別の用事かもしれないじゃん」
 「だってトリアスから向こう、何もないよ? ヤンキーがこんな寂れた所、トリアス以外にどこに行くんだよ」
 「わかんないじゃん、もしかして誰か家族が危篤で、慌てて家に向かってるとか」
 「賭ける?」
 「いや賭けないけどね」
 で、間もなくトリアスに着いたのだが件の車、しっかりトリアスに入っていきやがった。しげが勝ち誇ることと言ったら。日頃から頭悪い頭悪いとなじられつけてるから(言ってるのは私だが)、ちょっとばかし知恵が働いたことが嬉しくて仕方がないのだろう。でもやっぱ偶然だよな。

 ずっとずっと昔、当時の彼女に「喫茶店で道行く人のマンウォッチングでもしようか」と言ったら、スゴイ形相で嫌われたことがあった。他人のことを勝手に憶測するのは卑劣で汚らわしく、人の道に悖る行為だそうである。
 でもエスパーでもない限り、人は自分以外の人がどんな人間か分らない。だからいつだって「この人は何を考えているのだろう?」なんてことが気にかかる。しげなど一時期は(今でもそうかもしれないが)他人を「敵か味方か」だけで考えていた。無条件で相手を信頼することができないから、人は人を外見や素性で判断する。もちろんそれは偏見であり差別であり、だからこそ昔の彼女の言わんとすることも理解はできるのだが、実は人はその偏見を通してしか人を判断することができないのである。
 そして人は自らもまた他人から「見られて」いるのであり、そのことを覚悟しなければ人は人の中で生きて行くこともできはしない。私は風采も上がらない中年だが、だからと言ってその事実を否定して「オレを中年と呼ぶな!」と叫んだりしたら世間からは「アホか?」としか思われまい。我と我が身が周囲にいかに見られているかという事実を受け入れず、現実から目を背けていれば、それは逆に自らの尊厳のみを絶対視した他者への蔑みとはならないか。
 昔の彼女の態度は美しくはあったのかもしれないが、「私は他人を差別なんかしていない」という思いこみがその心を支配していたのも事実である。どうせ偏見から逃れられないのなら、自分の「罪」を認めちゃった方が自分に正直になれると思うんだけどねえ、私が「汚らわしい」人間ならシャーロック・ホームズも明智小五郎も平塚八兵衛も薄汚い外道、とうことになると思うがね。


 ヴァージンシネマズに予定の時間より20分ほど早めに到着。まだ開いている店もないので、しばらく外でぼんやり。寒がりのしげは車の中で震えている。
 手持ちのオペラグラスで雲の向こうの飛行機なんかを眺めていると、しげが車の窓を開けて「貸して」と言って取り上げる。
 何を見るのかと思ったら、「ああ、やっぱり! あそこにユニクロがあるよ!」と言う。私の視力じゃ見えないがあるのは間違いない。なぜなら今し方その側を通りすぎてここまで来たからである。てゆーか、何度も久山には来てるんだけどなあ、記憶力ないんか。なかったな。
 やっぱりしげの知力はこの程度である。

 10時を回ってようやく映画館が開く。
 『TRICK トリック 劇場版』、公開初日の1回目だけれど、客は十数人程度。小学生くらいの子連れの親子もいて、この子らも深夜テレビ見てたんかなあ、今時の親は子供の夜更かしとか別に叱らなくなってきてるらしいからなあ、と、親に9時には寝るように躾られてた自分のことと引き比べて隔世の感を覚える。

 相変わらずの極貧生活を送っている自称天才奇術師の山田奈緒子(仲間由紀恵)は、糸節村の青年団と名乗る二人の男女(山下真司・芳本美代子)から、自分の村に来て「神」を演じてほしいと頼まれる。300年に一度、村に起こるという災いを、神が来臨して救うという伝説があるというのだ。
 金になるならと喜び勇んで糸節村に入った奈緒子だが、そこには「亀の呪い」を訴える占い婆・菊姫(根岸季衣)と、先客の「神」(竹中直人・ベンガル・石橋蓮司)が三人もいた。
 埋蔵金を探しに来た日本科学技術大学教授の上田次郎(阿部寛)も合流して、「災い」の謎を解こうとした矢先、お約束通りに連続殺人事件が起こる。謎を解く鍵を握るのは奈緒子の母・里見(野際陽子)か!?

 自分で書いといてなんなんだが、あらすじだけだと一見面白そうだよな。露骨に『八つ墓村』のパクリだけど。テレビシリーズでも『黒門島』とか『六つ墓村』とかやってるから、結局性懲りもなく、ということになる。
 実際、濃茶の婆みたいな菊姫が出て来ても、それはパロディとして笑えるどころか、出来の悪いモジリ、失笑のタネでしかない。紹介される手品のトリックが殆ど子供だましなのは製作者も自覚していると見え、上田次郎の友人たちも糸節村の人々もみな一様に奈緒子の手品を見て白けるが、それがドラマのつまらなさをかわす効果を全く上げてないことに監督は気付いているのだろうか。「どうせつまんない手品見せて、回りが引くんだろうな」という予測がつく段階で、白けるのは観客もなのである。ギャグのレベルも信じられないくらい低いし。
 「お二人の関係は何なんですか?」
 「毎晩まぐわってます」(←村の方言で紙相撲のこと)
 こんなギャグで笑える人間いるのか。
 肝心の事件のトリック、犯人についても全くと言っていいほど意外性がない。『ケイゾク』のころはバカトリックではあってもまだ露骨なパクリは少なく、オリジナリティのあるものもあって許せたのだが、『トリック』にはそもそもミステリを構築するためのトリックというもの自体がない。監督の堤幸彦は「これはミステリではありません」と言ってるそうだが、じゃあミステリっぽいシチュエーションを持ってきてること自体、大間違いではないのか。
 それに、ミステリ以前にマトモなドラマとして考えてもあちこち破綻しまくってるんだけどねえ。オープニングの伝説の奇術師・ロベール・ウーダンのエピソード(口で弾丸を受け止めるってやつね)、これが本編に殆ど絡まないのもドラマ造りってものを堤幸彦が根本から知らないことの証拠だ。
 ラスト、三百年前の呪いの正体がいよいよ明かされるわけだが(ミステリじゃないということだからバラしちゃってもいいだろう)、地下水が三百年の間にたまって鉄砲水となって村を襲うのである。折りしも真犯人が狂気に走って山火事を起こしていた。奈緒子と上田は鉄砲水の「栓」となっていた亀石を動かし故意に鉄砲水を起こして山火事を消す……って、そもそもその水で村が水没するって設定じゃなかったの? 自分で作った設定、しかもドラマの根幹に関わる設定を作者が忘れちゃしょうがねえよなあ。奈緒子はやたら登場人物たちのおかしな言動に対して突っ込みを入れるが、まず監督に突っ込み入れるべきではないのか。

 そんなにつまらないなら、なんでわざわざ見に行くかというと、もちろん第一の目的は仲間由紀恵である。『ケイゾク』の中谷美紀の時もそうだったが、女優にヘンなことさせてキャラクター性を強調する演出には堤幸彦は長けている。「テメエラのやってることはマルッと全てお見通しだ……って誰もいないか」という一人ツッコミの間なんか実にうまい。糸節村のテレビ欄が『暴れん某将軍』ばかりなのを見ながら「一生住みたいくらい……」とウットリする演技なんかまさしく入魂。美人女優のわりにはこの人、姿勢がイマイチ悪いので、使いようが難しいのだが、こういうキテる役をやらせりゃいいのだな。
 ただやっぱりドラマとしてはとても評価できるものではない。殆ど不条理劇を見に行く感覚でないとフツーの映画を期待している向きには辛かろう。何しろ登場人物たちの殆どがいったい何をアイデンティティとしていて、どういう行動原理を持っているのかさっぱり掴めないのだ。作者が多分何も考えていないからである。見ているうちに笑っていいのか怒っていいのか、段々わからなくなっていくのだ。
 『ドグラ・マグラ』より『ハム太郎』より、『トリック』の方がよっぽどトリップ・ムービーだと思うがどうか。

 深夜出勤のせいで、『トリック』の内容を全く知らないしげに、「小説読んどく?」と予め水を向けていたのだが、「つまんなかったら見たくなくなるから読まない」と言い返されていた。けれど、こっそりコミック版の方を読んでいたしげ、マンガのほうは単に「つまんなかった」と言うだけだったのが、映画の方はそのわけのわからなさに困惑したようだった。
 「ねえ、これ、なにを面白がればいの? なにが面白いと思ってこんなの作ってるの?」
 と私を質問責めにするが、既知外の発想なんてわかんねーよ。

 しげ、ユニクロで練習着が買いたいというので、道に迷いながら(しげが表示板の矢印を見落として逆方向に歩いていたのだ)到着。私は特に買うものがないので、ベンチでぼんやり待っていたのだが、そこへちょうど通りかかった男の人の眉毛が、絵に描いたように『こち亀』の両さんにソックリだった。冗談じゃなく、数字の3を横にしたように黒々と、海苔を貼りつけてんじゃないかってくらいに太かったのである。世の中にはいろんな人がいるものなのだなあ。今日の一番の収穫はこれかも。って、なんの収穫か。
 しげは結局、気に入った品が見つからず。


 昼飯、「村さ来」に入ろうかと思ったがこんなに早くにはやっていない。繁華街でならそうかもしれないが、トリアスは家族客だって多かろうに夕方から開いても集客力ないと思うんだがなあ。
 しげはなんと「村さ来」の存在を知らなかった。全国展開してる居酒屋としては一番有名だと思ってたんだが。……あ。でも福岡でここ以外「村さ来」ってあまり見かけないな。中洲は「つぼ八」だし(この店もしげは「たこ八」と覚えている)。
 以前食事したこともある「カルビ家族」で焼肉。壷入りの特製ホルモンとやらが美味い。あと紫芋のアイスも。焼肉自体は殆どしげに食われたので、外に出てたこやきとサラダパスタを買って食う。


 帰宅してあとはずっと一心に日記書き。
 ウソです。疲れて寝てました。
 早いとこ更新したいんだけどもね。

2001年11月09日(金) いちまんななせんえんの幸福/『GUN BLAZE WEST』2・3巻(和月伸宏)ほか
2000年11月09日(木) だって猿なんだもん/『グーグーだって猫である』(大島弓子)ほか


2002年11月08日(金) ウチもベストカップルだと言われることはあるが(-_-;)/『アフター0 著者再編集版』7・8巻(岡崎二郎)

 理想の有名人カップルを選ぶ「パートナー・オブ・ザ・イヤー」ってのがあるそうである。で、今年の受賞者が西村知美・西尾拓美夫妻なんだって。
 別に誰が選ばれようが文句つける理由はないのだけれど、西村知美カップルを見て「理想的」とか思う人っていたのか、この世に。
 だいたいコミュニケーション不全のまま○○歳になってもチョンガーだったりヤモメだったりして、でもやっぱり三次元の人間より二次元キャラへの思いが立ち切れなくて、寂しく暗くさもしく虚しい暮らしの中で、○○○○のフィギュアを抱きしめながら毎晩枕を涙で濡らしているような一人ぼっちのオタクから見れば、「カップル」なんて、つがってるというだけでケツから蹴り入れたくなるような存在であるのだろう。
 それがよりによってトロリン夫婦である。ナマで存在してるミッチーとヨシリンなんである。三原順子とコアラもカンベンしてほしいが、だからと言って西村知美ならまあいいかという問題ではないのだ。ほかにいないからとかいう消極的な選考理由なのかもしれないが、少なくともあれ見て「素敵?」なんて思っちゃった人間がこの世にいたってことは間違いないのだ。世間は広い。広すぎる。
 なんせ西村知美はこないだ百キロ走ったばかりなのである。かと思ったらどういうわけか4日にはニューヨークマラソンにプライベート参加して、42.195キロを6時間43分19秒で走り切っちゃったってんである。そのうえ今回ベストカップルに選ばれて「結婚5年目でこんな賞をもらえるなんて感謝感激です」とかなんとか言っちゃって(5年目だからって、それが何?)、公衆の面前でキスまでご披露してるんである。どんどん図に乗ってないか。図に乗ったその先のベクトルがいったいどこに向かってるんだか全く分らないから、これがまた怖い。
 ……いや、何が怖いかって、この暴走を止めていいのかいけないのか、それ自体がよくわかんないってことだと思うんである。いったいどうしたらいいんでしょうかね、ホント。


 夕方、しげにいつも通り職場まで迎えに来てもらったのはいいのだが、今日は仕事が早出だそうで、食事を一緒にするだけの時間がない。
 仕方がないのでマクドナルドでハンバーガーを買って帰る。好き嫌いのない私だが晩飯にバーガーはあまり食べたくはない。夕食って感じともディナーってのとも全然違うし。


 携帯電話を新しく交換。
 何だかよく分らないが、しげの話では交換しなければならない理由が何かあるらしいのである。以前使ってたのはなんだかおもちゃっぽかったが、今度のは二つ折りになっててパカッと開けるとディスプレイが光るのである。ボタンも大きく押しやすくなってて使いやすくなってはいる。
 でもやっぱりウルトラ世代の私としては、携帯電話ってのは腕時計式で画像が映るレシーバー式のものてせないと! などと思ってしまうのだが、そんなん普及しそうにないよなあ。もうどこかで作ってそうな気はするけど。


 今日はいよいよ『プリンセスチュチュ/卵の章』の最終回、仕事に出かけたしげからも「ちゃんと録画しといてね」と頼まれる。
 そりゃオレだって楽しみにしてるんだから、とデッキにテープを入れた途端、「ガガガガ」とイヤな音がして、デッキがウンともスンとも動かなくなってしまった。
 「血の気が引く」とはこんなときに使うコトバであろう。どうしてよりによって最終回直前にデッキが壊れにゃならんのか。
 悪戦苦闘してデッキのフタを取り外し、ひっかかっていたテープを回収して、配線をつなぎなおしたが、やっぱりデッキは作動しない。
 時間は空しく過ぎて行く。キッズステーションにチャンネルを合わせたら、『チュチュ』は今しもラストシーン、ドロッセルマイヤーが「お話はまだ終わっちゃいない」と不気味な言葉を残して消えて行く。……チュチュとクレールの対決はどうなったんだよう(T∇T)。
 ……『ザ・リング』見て七日経ったけど、もしかしてサマラの呪いなのか、これは。(@@;))))〜〜(((((;@@)

 帰宅したしげに「『チュチュ』はDVD買うから」と言って謝る。
 けれどしげ、無言のまま、表情も変えない。
 悲しいのか怒ってるのか、「言はで思ふぞ言ふにまされる」ということであるのか。
 しげの沈黙ほど怖いものはない。


 マンガ、岡崎二郎『アフター0 著者再編集版』7・8巻(完結/小学館/ビッグコミックス オーサーズ・セレクション・各530円)。
 『世にも奇妙な物語』スタッフは、岡崎二郎作品を原作にしてまるまる2時間、スペシャルドラマ化を図ったらどうか。それくらい、岡崎作品はバラエティに富んでいる。その質の高さはマンガによる『トワイライト・ゾーン』と称しても過言ではなかろう。
 7巻は『生命の鼓動』というタイトルで動物モノを収録。最終8巻は『未来へ…』と題して科学の発達・進化の行く先を空想したSF作品を集める。特に8巻は、シリーズ第一作『小さく美しい神』と最終作『無限への光景』を同時収録するという、岡崎作品の原点と、未来への展望を同時に味わえるという粋な構成になっている。「オーサーズ・セレクション」の名に恥じないってとこだね。
 『小さく美しい神』は、業界で五指に入るほどの大企業、大洋電機の成長には座敷童子がいた、というお話。カイシャなんていう、民話のキャラが住まうのには不似合いなところに、どうして童子が居付いたのか、というのがこの短編のキモなわけだが、その真相の提示のしかたがいかにもフレドリック・ブラウンのような藤子・F・不二雄のような小粋なモノだったので、「おもしろい作家さんが出てきたな」と注目したのだ。ちょうど『こちらITT』で草上仁さんが出て来たときの鮮烈な印象に近い感じだ。
 『アフター0』というタイトルは、当然「アフター5」をもじったものだろうから、そこに「深夜を過ぎてのフシギな時間」というイメージとともに、「会社もの」というシバリをかけてどこまでSF・ファンタジーがやれるか、という作者の挑戦の意味もあったと思う。日常SFこそがSFの王道、と考える私には、岡崎さんのこの方針がいたく気に入った。
 最終作『無限への光景』で、この「0」が「輪廻の輪」をも暗示していることに気付いたとき、「してやられた!」とも思った。こういうダブルミーニング、トリプルミーニングにセンス・オブ・ワンダーを感じられるかどうかで、その人がSF者か否か、資質の境が問われることになると思う。
 ある意味、岡崎さんの作品は落ち自体は予測がつけやすい。意外性に欠ける、という点では「そこにセンス・オブ・ワンダーはあるのか?」という疑問も湧きはする。けれど、それでもその予測可能なオチを「期待」しつつページをめくる心理、一度読んだ話を何度も反芻したくなる心理、そのような心理がどうして起きるのかを考えてみると、やはりそこには、SF者が最近ついぞかつえている「初めてのドキドキ」を思い起こさせてくれる「何か」があるからではないか、と思わざるを得ない。
 「懐かしさ」という言葉だけでは表し切れない、まさしく我々が世界との接点をどう見出して行けばよいのか、絶望と希望と、現実と夢の交錯するはざまに立っていた「あのころ」の感覚。岡崎作品から感じるものはそういうものだと思う。

2001年11月08日(木) エロに偏見はありません/『伊賀の影丸 邪鬼秘帳の巻(上)』(横山光輝)
2000年11月08日(水) チンジャオロースって漢字変換できねー/『家出のすすめ』(寺山修司)



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)