|
|
■■■
■■
■ 明かりが灯っていたから。
4月最後の夜。
恥ずかしいかな、心がもうくたびれきっていて、こじれた人間関係も前向きに戻そうということができなくて、わたしは周囲にマイナス・オーラを撒き散らしていた。
何時間も泣いて、ティッシュ…というかトイレットペーパーをひと巻きも使ってしまった。それでもひとりのオフィスなので、やるべき仕事はなんとか終わらせて。 ほんとうに参っていて、わたしは些細なことで大きなダメージを受けてしまう。こんなふうでは、ますます心がくたびれていくだけなのに。
嫌なことは続くもので、家にシロアリが大発生していたのに気づかず大家と険悪になり(わざと教えてくれないでいたのね、ありがとう!と嫌味を言われた)、さらに温水器が電力公社に無条件にとめられ、アフリカだけになかなか復旧が見込めないという事態である。金曜日時点から、わたしは水シャワーか職場の人のシャワーを借りるしかなかった。 ますます落ち込む。
おかしいようだけれど、わたしはこういうときどんどんひとと付き合えなくなる。いつもシャワーを借りている職場の人とは気安いのだけれど、その人のところに今夜別の人が来ることになっているということを聞いただけで、それにつきあうことを考えてうんざりしてしまったわたしは、それだったら水シャワーを選ぶわ、とまた強がりを言い放った。ほんとうは話し相手がほしかっただけなのだ。
でも、もう前向きに考えることができないのだ。 そういう心の体力がないのだ。
これで誰もいなくなり、わたしはシャワーを借りることができなくなった。
以前、悪態をついてパブを立ち去って以来、わたしはこのコンプレックスの誰ともしゃべっていなかった。わたしは次々と周囲のひととの関係を悪くしている。病気みたいに。
ふと、家に帰る道で近所のひとの明かりが目に入った。 とてもやさしくて温かな光。
わたしは、パブの常連客の男性連中とはあのときまで親しくしていたが、男性のシャワーを借りに行きたくはないし、第一、悪態をついたのはわたしなのでいまさら関係を修復したいという気力もなかった。
そんなときに、目に入ったのは以前いちどだけ深夜のお酒に何人かでお邪魔したことのある女性のお宅だった。 ひとり。わたしの母よりは二十以上年上で、でも祖母よりは若い女性。 思い切って彼女のドアを叩き、シャワーを貸してほしいと願い出た。
突然の訪問にもかかわらず、快く招き入れてくれた彼女。 清潔できれいに飾られたバスルームで、熱いシャワーを浴びる。熱いお湯に心の中で頑なになっていた何かがほぐされ、涙がこみ上げた。わたしは彼女の小さなフラットの温かい空気に包まれている。
きれいなタオルはあるわよ、ドライヤーつかうでしょう?
彼女の優しさが心に染み、甘いホット・チョコレートはわたしの心を溶かした。
孤独を感じるときって、自分の心を閉ざしたときだと誰かが言っていた。自分の心が誰かの心とつながっていないと、孤独なんだと。
あのときの話では、彼女は三年前に再婚し、そのパートナーは結婚わずか9ヵ月後に亡くなったのだそうだ。部屋にはたくさんの家族の写真が飾ってあった。 人生は甘く切なく、そして辛い。そして、すてきなもの。
いまのわたしは強くなれないし、前向きにも考えられない。 ただ、日々が過ぎるのみ。
もうこれ以上泣きたくない。
2007年04月30日(月)
|
|
|