あふりかくじらノート
あふりかくじら



 自分が熟成する瞬間について。

熟成といったら語弊があるのかもしれないが、たとえば、自分が少し(おそらくいい意味で)年をとったと感じる瞬間がある。
今日、「お風呂にゆっくり」という彼からの指示の下、さくらの香りの入浴剤をぶち込んでゆっくりしてみて考えた。

いま、仕事が忙しくて、頭を使うことがおおく、日々チャレンジングといった感じ。つまり自分の実力が試されているような、自分で情報を集めて分析しアウトプットをするという作業。そしてそれがそのまま文字として綴られ、自分の評価につながるということ。

わたしがいままで何をやってきたか、といえば、ひたすらアフリカが好きでアフリカ研究者として生きてきたということ。
好きなもの、嫌いなものがはっきりしてきて、自分の長所と欠点も見えている。仕事の爪があまい欠点も、モノを書かせたら狂気的にすごい勢いで書いてしまうということも知っている。好きな男も、好きな女も、嫌いな人間も。
そんなことが全体像として、ピンク色の湯に像となって浮かび上がったとき、わたしは自分が重ねてきた年月を知る。

わたしだけが知っている、わたしだけのこと。


今日、某国際機関で活躍している女性と会合を持った。
とても優れたエチオピア人女性で、とても忙しいが専門的でやりがいがある仕事をしている。そして知的だ。

彼女のようなキャリア、すてきだなと思った。
わたしはわたしのやり方で、焦らずに時を重ねて生きたい。

そう思う。



2006年09月29日(金)



 ラベンダーの香り。

ジャカランダの香り、というのではないけれども、紫色つながりということでラベンダーの入浴剤をバスタブに入れる。いい香り。

(どうでもいいけど、ラベンダーでどうしても「ロベングラ」を連想するわたしは職業病か)

頭が痛いのはまだ続いている。
肩こりがひどいせいだということにしておこう。

経済状態が悪化しているジンバブエでは、インフレ率が一気に上がっている。現在1200%程度だけれども、IMFが予想している「今年末までに4000%に到達する」というのもありえない話ではないと思えてくる。
闇レートはとうとう1米ドルあたり1,000ジンバブエドルをとうに超えてしまった。通貨切り下げ以前の値で言えば、1,000,000(百万)ドルということだ。

ともあれ、仕事が遅々として進まない。
頭が痛いが、壮大な計画は病気みたいに頭の中に浮かんでくる。ひたすらキーボードをうち、ひたすら文書や本を読み込む幻想ばかり浮かんでくる。

落ち着きたいなと思いつつも、やっぱり身の回りに起こったたくさんのことは、わたしの心を平穏にさせてくれない。
一日一回泣けば、何かが身体からぬけていくんだろうか。そんなことを考えながら、ひとりで生きていく方法を考えるのである。
そして、文字を綴って精神的に安定する方法を望むのである。


ところで、ここ数年利用させていただいているメルマガスタンドのひとつ「めろんぱん」さんの「めろんぱんニュースレター」で【あふりかくじら★カフェ】を紹介してくれていた様子。メルマガ発行歴6年、こうして紹介していただくのは初めてかも。なんだかありがたい。
励みになります。


2006年09月27日(水)



 グリーンの海、スコールのごとく。

頭が痛いのがまずいのはわかっている。
仕事も人生も色々なことが押し寄せた今年、わたしの心はくたびれきっている。ときどき、とてもおかしくなる。些細なことで泣き、些細なことで眠れないくらい思い苦しむ。でも、だれともすべてをシェアすることはできない。最後はひとりで片付けるしかないのだ。


胃腸の深刻な不調は回復してきた。
あれは、精神的なものが大きいと思うが、ともかくひさしぶりにかなりひどい状態で自己回復に時間がかかった。薬もけっこう飲んだ。死んだように半分眠りに落ちた状態で丸二日を過ごした。


やはり書くことが自分を救うと、こうしてキーをたたくが、やりはじめるとけっこう片付けるべきことがあるので、どんどんメールなどを書く。

しかし、この精神状態はやばいと思う。
だから、けっして話の通じないひとに話をしてみたり、繰り返し同じ映画を見てみたり。
生も死も、幸せも、不幸も、辛さも、雨降りも、日差しも、ジャカランダの紫も、いまのわたしには意味がわからない。


今日は、ラジオではなくてテレビをつけてみた。
ラジオに比べて、もう少し現実世界とつながりが持てる機械だ。
BBC Worldがわたしとは関係なく時間をすすめていく。色んなひとが入れ替わり立ち代わり登場し、正常な仕事をこなしていく。


こんなとき思い出す。
小笠原は父島のシーカヤックのことを。

あの日、初めてのシーカヤックで海に出て、スコールにあった。
ほんとうに息もできないような激しいスコールで、素人のシーカヤックを激しい波がやっつけようとする。
幸いなことに風は湾に向かって入っていく風だったから沖に流される危険性はなかった。でも、風に向かっていかなければ目的地のビーチにつかなかった。だから、必死でこいだ。機械のように力をこめて、生き延びるためにこぎ続けた。こがないと帰れないからだ。

でも、あのとき、必死なのに色んなことを考えた。
遠くに見える父島の山。
そして、グリーンの海が太陽の光を反射してとてもまぶしく輝く。そこへ吸い込まれるような、激しいスコール。大きな波とそれにもまれるシーカヤック。
地球の力だと思った。
そしてそれを、うつくしいと思った。
あんなに必死だったのに、心は静かだったのだ。


いま、あの気持ちを何となく思い出した。
とくに意味はない。

あたまがぼんやりしている。
好きなひとに会いたい。




2006年09月25日(月)



 前向きに、草臥れる。

『向田邦子の恋文』を読む。
この文章の感じに影響を受け、短く書き留めたい気がしている。


今日も、なんだか感情がいっぺんにやってきて、ひとりリビングルームで怒り狂って泣き叫んで、何か殴った。(何だっけ)
馬鹿みたい。
でも、5分くらい。
その自分は今、心の奥深くに引っ込んでいる。


恋人とのことは仕方がないが一生忘れない出来事。
そして傷。
愛する気持ちは幸せだけれどもね。
結局じぶんで生きていくしかないのだよ。


向田邦子は、どうやって生きたんだろうな。
どうして、そのようなあまりにも深い時間を、彼女は乗り越えたのだろう。
それを訊きたい。

だから、読んだり。

だから、じぶんも書いてみたり。それだけがわたしの救い。

やっぱ邦子はすごいな。

2006年09月20日(水)



 紫色のお花が咲いてるよ。

あふれんばかり。
暖かい空気がふんわりとまとわりついて、そらに解放されていくような、その紫色のジャカランダ。

日中は暑くって、この時期がいちばんアフリカの都市らしいにおいがする。ちょっと懐かしい感じもある。


あまりにあれこれやることがあってパニック。
思わず、「東洋経済」読みふけってしまうなど、突如として現実逃避を起こします。やはり、午前中にフルスピードで頭を使う書き物系を片付けてしまい、午後にはも少し簡単な仕事や早くできる仕事、作業系を入れるっていうのがいちばん良いやり方なんでしょうけれどもね。

だって、こうして家に仕事を持って帰っても、ムリなんですもの。
開きもしないんですもの。

りらーっくす。りらーっくす。



2006年09月19日(火)



 父の詫び状。

思わず、帰宅して早々ベッドの脇に座り込んで、向田邦子の『父の詫び状』を読みふけってしまった。

ひとりで生きていけると思うときもあるし、どうしても誰かがそばにいないとだめと思うときもある。
でも基本的には、誰もいないほうがいいのかもしれない。

それは何となくわかっている。


一部のことは、メールマガジンに書くかもしれない。(メールマガジン2種類ある。短いのはこれ
最近、落ち着いて書こうと思うと、どこから書き始めたらいいのか迷うときがある。向田邦子のように、自由に生き生きと描きたいものである。


思うこといろいろあり。

そしていじけてる。だから広い部屋の隅っこに座って文庫本なぞ開いている。メールは書かないよ。電話もしないし。


大切なひとに、また嫌なことをいって責めてしまったから。


ともかく、何でジャカランダは紫なんだ。それが問題だ。あう!

2006年09月18日(月)



 灯りがついているところ。

本日も例によって停電。
まっくらなヴィレッジに帰る。

コンプレックスのなかをぐるっと回る道の真ん中、池があってその脇には英国風のパブがある。そこだけ、灯りがともっている。
温かそうな灯り。

なんとなく、車を停めてからそこへ入っていった。
とてもひさしぶり。
おじいさんたちが、酒を呑んで語らっている。
この国に暮らしている、白人のおじいさんたち。
それぞれに人生がある。
農地を政府にとられたひともいる。でも、そのまま生きている。


あれこれ他愛も無い話をして、ビールを何倍か呑んだ。
敷地内なので、歩いて帰れるところがいい。
楽しく話をした。

わたしがいま、属しているコミュニティ。
いずれここを去るだろう。いままでのわたしの人生と同じように。
だからこそ、とても楽しく、「いま」を過ごせるのかもしれない。

これがわたしの生き方かな。

皆、いいひとだ。
とっても。

ほんとに、懐かしいくらい。

2006年09月14日(木)



 ジャカランダのハラレに。

9月11日がまた巡ってきました。
あの日から5年です。世界はどれほど変わったろう。

憎しみと哀しみの連鎖から逃れられないままに、世界はうねり、時を経て、そしてまたハラレにも春がやってきます。
ジャカランダが、紫色の花を咲かせ始めました。


いまは春真っ盛り。
そして、花が咲き乱れ、日差しは暖かくなりました。
乾季のまっただなかですが、いずれ雨季は来る。

そのときに、世界はどこにあるだろう。
わたしはどれほど変わっていられるだろう。


そんなことを漠然と思いながら、ひとりで生きていく感じです。

2006年09月11日(月)



 冬のソナタ。

愛するだーりんからお電話アリ。
それだけのことで幸せ。

未来も何もいらない。いまだけ。
わかっていても、わかりたくない。
「いま」だけがわたしの欲しいもの。


冬のソナタの古臭さと新しさが入り混じったような気恥ずかしい物語は、自分の記憶の奥底にとどまった古い恋をそっと思い出させるから、あれだけ多くのひとがはまったのかもしれない。

あの物語で印象的なのは、やはり淋しさとか哀しさの感情。
胸がぎゅっと苦しくなるような、あの痛みなのだ。


でもわたしはユジンのように生きてはいないけど、なんとなくそこに身をおいていたくて、何も気づかないふりをする。
それでも地球は周り、わたしの愛するひとは愛していると言ってくれる。
「いま」のために。


わたしは、この仕事を選んだ。
あとしばらくは、これに魂を注ぎ込むことだけを考え、生きていくしかない。
そして、愛するひとのことを思うだけ。

どんなに辛くとも、時はわたしを運ぶところへ運ぶのだろう。

2006年09月10日(日)



 歌ってる。

気が狂ったように。
椎名林檎とか。山崎まさよしのにぎやかな曲とか。
それからピアノを狂ったように弾いたり。


考えすぎ。


今日は8回くらい泣いたので
もう仕事をしようとしても無理だろう。


自分のために生きようとしたところで、動かせない事実は変わらない。
自分を責めろ。
他人を呪え。


これを抱えて生きていくんだなぁ。
これをずっと抱えていくんだなぁ。


いったい誰を責めればいいの。
いったい誰を呪えばいいの。

2006年09月09日(土)



 女として、くじらとして。

身体が空っぽになった気がする。
ほんとうに、空っぽになった気がする。

でも、それを埋めようとは思わない。

辛い気持ちがたくさん入ってくるけれど、
わたしはそれをとめやしない。


別のところで、何かが埋められている。
仕事。
ものをかくこと。


忘れようとするわけじゃない。
わたしはこの「空っぽ」を抱えていようと思う。
それが、少なくとも
いまのわたしの「最低限の幸せ」なのだ。

抱えていられること。
きつい仕事をたんたんとこなすこと。
頭をフル回転させること。
難しい課題にチャレンジすること。
愛していると思うこと。


女として、くじらとして生きる。


2006年09月08日(金)



 じゃあ、何が幸せなのか。

予想していたこととはいえ。
やっぱり、胸がえぐられたような。

どうしていいのかわからないままでいたい。
辛くて。


では、何が欲しいのか。
愛するほどに傷つき、
それでもわたしはその場所にいるしかない。

わたしは何が欲しいのか。


絶望的に、だめなのに。
これ以上何を望むのだろう。
はじめからわかっているはずなのに、いったい。


愛していると思える幸せを、それだけを夢見て。
他人の幸せなんて見たくない。聞きたくない。



わたしの左手。
爪に色を淡い色を塗って、それから小さなお花をつけて。
自分だけのために。自分だけが、生きていくために。

この左手の人差し指の親指側。
長さが6センチほどの大きな深い傷がある。
わたしの車のフロントガラスは、まだこの中にある。
体温が上がると、ずきずきと痛む。
軽く触れただけで、痛みを感じる。

わたしはこの傷とともに生きていく。
心の中の傷、左手の傷。




2006年09月07日(木)



 愛するという幸せ。

愛することのできるひとがいるだけで幸せということを、
わたしは思い出さなくてはならない。

自分の持たざるものばかりを見て
あれがないから、これがないから、
自分は不幸せだという気持ちになってはいけない。

これだけで幸せ。
どんなに傷ついたとしても、辛くとも、
後悔はない。

2006年09月06日(水)



 本質的な孤独。

誰かが去っていくシーンを、わたしは今までの人生でいったい幾度見つめていただろう。

どちらかといえば、自分が去るほうが多かったわたしだけれど(ひとつところに長くいられない性分だから)、誰かが去るシーンというのも、哀しいかな、気がつくともうずいぶん慣れてしまった。

去るほうよりも、去られるほうが淋しいとはいつも思う。
でも、この淋しさだけは降ってこない日はない。
それでも、わっと泣いて、淋しいという感情を表に出せる人間ならよかった。でも、わたしはこういうシーンをたくさん見すぎて、いつしかこころにぽっかりとした空洞を抱きながら、自分自身に向かって微笑んでいるようになった。ほら、また。という感じで。

だからわたしは、クールだねと言われることが多い。
誤解されがちなのは、クールとは対極にいるからだ。どのように感情表現をして良いのか、わからないのだ。


ひとは皆、本質的な孤独を抱えていると誰かが言う。

誰かが去っていくと、わたしはじっと自分の人生を見つめる。
また自分自身と生きていかなくちゃと思い、微笑む。
どれほど淋しくても、淋しいと泣くこともなく。


2006年09月04日(月)



 適正な日曜日。

まず、ミルク風呂を堪能し、ピアノをクレイジーに演奏。
それから、お世話になっているVOLVOをウォッシュ。
とってもお天気が良いので日焼けをするのではないかと思ったくらい。
ちょっとまずいくらいインターネットで遊んでしまったけれども、まぁ自分のサイトやらメルマガやらを若干整理しつつなのでよしとする。

お買い物に行って、カローラ売り出しの広告を掲示板で発見しTelする。13,500米ドルなり。高。

コーラと炭酸レモネードを購入。

料理をしながら、もう観念して報告書書きに。
なんとか進む。
ひととおり終わり。あとは細かい確認事項のみ。やた。
もう心はすっかり次に移っているのでさっさと終わらせたいのである。

がんばる。今週、仕事もいろんなことも勝負どき。
人生、勝負どき。

どうなの?腹をくくるしかないよね。


2006年09月03日(日)



 インディゴ。

ひとりでだまって誰ともしゃべらずに週末を過ごしていると、自分の人生の時間が静かに積み重なってくるような感覚を覚える。

念願のナチュラル・レメディの店(?)に全身マッサージの予約を入れていたので午前遅くに行く。
オイルが身体に塗られていく感覚。血液の循環がよくなり、静かに肌にしみていく。血行がよくなると、全身がきれいになる感じがする。
リラックス。

マッサージをしてくれたのは、明るい青い眼と赤毛をした女の子だった。
今度は、フレンチ・ネイルをする予定。
これらはもちろん、精神的な効用のためだ。彼も離れて暮らしているいま、デートも特に無いし、ネイルもマッサージも自分のため。なんて気楽で心地よい贅沢なんだろう。
アフリカで。でも、これがジンバブエの一面。つまり、ヨーロッパのような白人が築いた社会が今でも息づいているところ。

9月になったので、身体に良いことをしたい。
店の名前は、「インディゴ・ツリー」という。



ところで、今日心にとどまったひとこと。

「書くことはわたしにとって魔法の鍋だ。固すぎてなかなか煮えない夢を、夜な夜なわたしは弱火で温める」

『大西洋の海草のように』ファトゥ・ディオム著より。
(セネガル出身の女性作家である)


2006年09月02日(土)
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