あふりかくじらノート
あふりかくじら



 グッド・ラック。

見慣れない会社から白くて地味な封筒が送られてきた。

なにかしら、と訝り、ぱりりと開けてみると
丁寧に緩衝材につつまれた中に小さくてキュートな
黄緑色の袋が入っていて、なかにはネックレスが
はいっていた。

ペンダントヘッドは滑らかなシルバーで、
四葉のクローバーの形をしていて、中には小さな
四葉のクローバーが掘り込まれ、Good Luckという
文字がある。
ギンザ・タナカというジュエリー屋のものらしい。

同封されたレターをみてみると、たまに拝見する
女性向けコミュニティサイトのプレゼント当選だった。

なんと!
いつかエッセイでも投稿しようか知らん、と何気なく
除いていたところで、うっかりプレゼント応募ボタンを
押してしまったんだっけ。

なんにせよ、かわいらしいギフトはうれしい。
なかなか活気あるサイトだったので、これからも
応援させていただきたい。

2003年12月19日(金)



 ことばを贈ること。

たとえば、誰かが使った言葉や表現が
少しでも差別的に聴こえてしまうと、
わたしはすぐさま ぎゃんっと言って噛みついてしまう。

それがたとえば、アフリカでは「部族紛争」で
「マサイ族」で、ヨーロッパでは「民族紛争」で
「セルビア人」だったりしたときなんか
ぜったいにだまっちゃいない。

もちろん、初対面とか目上とか、社会生活を
送っていく上で立場上それをこころのなかに
おしこめることもある。場をわきまえようとはする。

二十歳くらいのころはいまよりもずっとずっと
激しかった。けっして見逃すことができなかった。

それはわたしの価値観でもあるし、ましてや他人の意識を
変えることなどできるわけもなく、する気もないが、
ただ、その瞬間になんらかのフィードバックをすることで
もしかしたら、その人の中でなんら意図していなかった
ところでの差別的な表現を省みるきっかけになるのではないか。
そういう可能性もあるのだ。
今言わないとそのひとは永遠にそのことについて考える
ことがないかもしれない、と思ってしまうからだ。

だめなら仕方がない。
でも、ことばを贈ることはしたい。
仮にも、そのひとが自分の大切なひとだったとしたら。

無意識の中で差別されたほうにたいしても、
このことで少しは失礼がないようになるのではないか。

ときどき、熱く激しく語ったりするわたしをみて、
生意気だと激しく反発するひともいるし、
すごいねぇ、と線をひいてしまうひともいる。
逆にわたしを女性として愛してしまうひともいるから困る。
(こわいー!)

この感情の激しさは盲目的で、ベッシーに似ている。
それはちょっと、恐ろしいことである。
とくにそれは、文字にしてつづってはいけない。

意図したところを汲み取ってもらうことは難しく、
そして同じような温度の答えが返ってくるかと思うと
そんなことはない。

頭の固い人間になることは恐ろしい。
誰かの言葉に、耳を傾けたいとおもう。

そして、未だにあの色に「はだいろ」という名前をつけた色鉛筆を、
わたしはいまでも嫌う。

もう一度いう。
人間の視野は、せまいのだ。

2003年12月18日(木)



 グローバルイメージ。

いろんな国のウェブサイトを見て
世界中のアフリカイメージを追求する。

一日に、三つの宿題を自分に課すと
三つ目は手がつけられないか、手抜きになる。

文字をたくさん追っていることで、深夜くたびれてくると
朦朧とする意識のどこかで脳が覚醒しているのがわかる。

グローバルイメージ。
インプットがおおくて、アウトプットをしないと
消化不良を起こすかもしれない。

2003年12月17日(水)



 つむいでいく。

ある勉強会のウェブサイトをつくる。
インターネットの世界では、たくさんのひとが
つながっていく。

ネットワーク、ネットワーク。
たくさんの可能性があふれる未知なる世界へ
ひとびとが漕ぎ出していく。
いろんな地図と希望とアイディアを持って
情報が行き交う。

わたしは、このキーボードとスクリーンを照らす
明るい未来に顔を向けて、うっとりとする。
インターネットの海に、深く深く沈んでゆく。

その影に誰がいるだろう。
取り残されていくひとたちか。
電気がひかれていないところに暮らすひとたちか。

その問題は、アフリカだけのものではない。
「グローバリゼーション」の世界で
押しやられるひとびとはアフリカにも
たくさんいるのかもしれない。
だが、アフリカにフォーカスするだけでは
問題は拡大する一方なのだ。

その問題は誰の問題か。
インターネットでアフリカを語るひとたちには
無縁なのだろうか。

健康をひとつの輪という全体で考える
あのハーバリストの女の人を思い出した。
病気を治療するだけでは、問題は解決しない。

混ざりあった、とっくりとしたハーブの香りがした。


2003年12月16日(火)



 海の色、爪の色、お誕生日。

きのう、本日はお休みの日である!と独りで宣言し
ほんとうは山積みの仕事をわきに寄せて
あかるいお日様のなかで電車に乗った。

すごく幸せな土曜日の午後で
すごく幸せな待ち合わせをする

爪の色はお気に入りの柔らかで光沢があるピンク色だし
海の色はお日様の光に抱かれて表面が滑らかに光っていて
中身は深い色をしていた

すごくきれいな青。

わたしは日々変わっているし、20歳の誕生日のときに
毎日持ち歩くことを決めたノートはもう何冊目になっただろう。
きのう、27歳になったことで、またわたしの新しい一年が
はじまっていく。

最高に美味しい京風おでん。
ぱりっとした気持ちになれた夕べ。

2003年12月14日(日)



 政府と国民。

強盗に銃を突きつけられて
フリーズ!武器を捨てろ!と言われているのに
お前は悪いやつだからやっつけてやる!と
鼻息を荒くして、使ったこともない真新しい武器を
不器用に抱えて向かっていくかのようだ。
弾丸が、自分を避けて通ることを信じて。
「テロに屈するな」と幻想を抱いて。

くだらない戯言や偽善者っぷりはうんざりだ。

イラクの市民の声、戦争に反対する米国市民の声、
自衛隊派遣に反対する日本国民の声は
やっぱり届かなかったのだろうか。

本気であほな「仲間はずれ」を
某国にかましてやろうというのだろうか。

こうして、日本政府が国民の憎しみを買う日が
やってくるのかもしれない。
いったい、なんのために?

イラクの市民の声とは関係ないところで、
彼らの土地と生命を消耗させて行われる悲劇。

いろんな国民の、いろんな憎しみは増すばかり。
いろんな<役者>政府に向けて。

2003年12月11日(木)



 図書館。

あわただしく暮らして
アフリカのいろんな国の
いろんな人たちのことを調べて
たくさんの人生のかけらで満杯になった

図書館には
大学生のころのわたしがいた
高校生のころのわたしもいた
「エスキモー」だとかクラシックバレエだとか
ヘブリディーズ諸島だとかザトウクジラだとか
父島の歴史だとかスウェーデンの政治体制だとか
アングル低く写真を撮ることだとか

たくさんの好奇心が
カバーを剥ぎ取られて
番号をふられて色あせてしまった背表紙に
きらきらちりばめられてた

いま
こうして暮らしている浦安の街とか
バイクにまたがったあのひとの背中にしがみついて
軽井沢へ行ったこととか
コーヒーが美味しかったこととか

また
おんなじようにきらきらひかる日がくる

2003年12月10日(水)



 社会活動の極意として。

どこかしらいい加減なところがないと、やっていけない。
極端に純粋で真面目で潔癖なひとって、社会について
いけないことが多い。

たとえば大学という世界、しかも学部生であったりして
若いとき、社会の中で自分を卑下し、卑屈になって
しまってやがて大学を去らざるを得なくなるひとたちを
何人も見てきた。

どこか皮肉っぽく、どうでもいいや、って思えるひとほど、
そして融通が利きユーモアがあるひとほど、この社会で
うまくやっているし、ずいぶん先に進んでいる。
わたしが尊敬する人々はみな、そのタイプのひとだ。

いま金曜日だけ先輩の授業に参加させてもらいに
慶應大学に行っているけれど、今日はたまたま
うつ病の話になったので、そのことを思い出した。

こんなわたしに、「社会活動」なんて笑ってしまうけれど、
それでもある種のいい加減さを身につけたおかげで、
わたしは自殺もしていないし、なんだかんだいって
あっけらかんと生きている。

その分では、すこしは生きていくのが楽なのかも
しれないなぁ。
でも、誤字・脱字・文法や名称の誤りはダメ。

わたしはもう少し自分に厳しくなったほうがいいのかな。

2003年12月05日(金)



 ニッポンジンに犠牲者はいませんでした。

残念だが、不思議なことではない、って誰かが言う。
イラクで何者かに殺された外交官二名と運転手のこと。
人の命に重いも軽いもない。
どれだけたくさんの人が亡くなったろう。
あまりにむごくて、心が痛む。

日本政府は自衛隊派遣をめぐって難しい局面にきている。
けれど、こころのどこかでアメリカの陰に隠れて
自動小銃の弾丸が避けて通ってくれるような
幻想を持っていたところへ、現実を見せ付けられた
のではないかという感じがする。

よく、海外でおきた事件・事故などの日本国内における
報道で、「ニッポンジンに犠牲者はいませんでした」と
ニュースキャスターが言ったりするのは、おそらく
身内の安否を案ずる親族などのためだとは思うけれど、
それでもどこか腑に落ちない。
なんで、他の国の人が死んでいくのは「平気」なのだろう。
「平気」とまではいかなくとも、どこか軽い。
所詮、他人事なのだろうか。

こういうとき、島国日本が他国に対するときの溝を感じる。

せめて、「ニッポンジンに犠牲者がいない」という点で
うれしい顔を見せないでほしい。
そして、だからといって、日本人として日本人を
さげすむのもまたおろかなことだ。

さぁ、これからどうするべきなのだろう。
等身大の日本として。

2003年12月01日(月)
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