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■ 2004年11月15日(月) ID
自己のIDなんてものは、とかく曖昧なものだ。それを痛感したのは、大学院を修了し、公的な身分というものを完全に失ったときだった。
それまで私は、義務教育を経て高校・大学・大学院と(運良く)空白期間を置かずに進学してきた。学生の身分にある間は、私が何処の誰であるかという証明は、写真入りの学生証で全て事足りたのだ。それが大学院を修了すると共に、もっと正確に言うと、学位授与式の直前に学生証を返納した時に、私は保険証(しかも扶養者)とアマチュア無線の免許証しか身分証はなくなった。無線免許は一応国家資格で、パスポート取得の際の本人確認なんかにも使用出来る。だが、現住所は記載されず、記載事項に変更がなければ一生更新不要な免許(顔写真も取得時のまま)なので、一般的な身分証明にはまず使用出来ない。その後もずっとフリーターだったから、去年の2月に原付免許を取るまで、急な身分証明には全く対応出来なかった(保険証のコピーは万が一の為に持ち歩いていたけれど)。 原付免許を取って、身分証明に困ることはなくなった。今後もきちんと更新していけば、氏名・生年月日・住所・本籍まで顔写真付きで証明してくれる(何しろ乗らないのだから免停も免取も有り得ない)。今年になってパスポートも取得したし、もう身分証明に困ることは取り敢えずない筈だ。
しかし、IDなんてものは、とかく曖昧なのである。
「私」が「私」であることを最も端的に示すものが、氏名であろう。特に、生まれた家の持つ姓が(祖父が沖縄出身であるが為に)余り多くはないものだったため、同姓の方に直接お会いしたことがない私は、「氏名」という記号に対する拘りが人一倍強いのだと思う(ちなみに名前も珍しくはないが、同級生に同名さんがいたことがない程度に多くもない)。幼稚園から大学院を通じて、教職員までひっくるめて同姓さんがいたことは、我が妹を除き、一度もない。病院や役所など、名前を呼ばれるような場所で同姓さんに出会したこともない。「松本さん」(※勿論本名は松本じゃないけど)と呼ばれれば、それは間違いなく自分に向けられた呼びかけだと確信出来た。それが当たり前だった。
が、婚姻という手続を経たことにより、私の公的な姓は変化した。原付免許は記載事項の訂正を行い、無線免許は再発行。保険証も父の扶養から夫の扶養に移り、公的な場では旧姓を用いることはもう出来ない。 それだけではない。 今まで私が取得してきた学歴や資格。今後、何かの折にそれらを証明しなくてはならなくなった時、現在の「夫の姓に変わった私」と学歴・資格を取得した「旧姓の私」が同一人物であることを、戸籍抄本などで証明しなければならないのだ。当の「私」が「私」であることを証明するのに、金を払って役所の証明書を取らねばならない。何て馬鹿馬鹿しい行為だろう。あんな紙切れで証明されるものが、本人である私がいくら語っても証明にはならないなんて。事情は判る。理屈も判る。只、虚しい。私が私である証明が私に出来ないことが、只ひたすら虚しいのだ。
私自身、姓が変わったなんて思っていない。夫の姓になりたいなんて思ったことはないし、今後も絶対に思わないと確信している。夫婦別姓が法的に認められれば、たとえその手続を取る為に一度離婚が必要になるとしても、私は手続きを取るだろう。何故なら、夫の姓である自分には、自分自身がアイデンティティを感じないからだ。そんな「私」は「私」ではない。そんな人間は当に「紙の上にしか存在しない」のだ。結婚後に知り合って交流を結んだ人などいないし、私は結婚後も公的な場(役所や医療機関など)以外では旧姓を通している。私を夫の姓で認識している人は恐らく夫の家族や親戚だけで、それらの人は姓よりは名前、もしくは●●くんの妻という記号でしか私を識別していない筈だ。 更に言えば、夫の姓の「私」、即ち戸籍上証明される「私」なんかよりも、松本佳月という「私」を知る人間の方がまだ多い筈だ。他にいくつか使っているHNも然り。どれも同じ「私」という一人の人間を表しているのに、それらを同一人物であると証明するのは、並大抵のことではない。
IDなんて斯くも曖昧なものなのだ。 しかし私は、夫の姓である「私」を固辞し、旧姓の「私」に固執している。それが自分のアイデンティティであり、ルーツだと思うからだ。 にも関わらず、私のアイデンティティとIDを結びつけるのは、現在、非常に面倒な手続きが必要である。唐突に私が私であることの証明を求められても、免許証を提示すれば済むような簡単なことではない。
貴方の中の私は誰ですか? それは本当に私ですか? 本当の私ですか? ――― 「私」って、誰ですか? 「私」と対する「貴方」の数だけ、「私」はいるでしょう。 でも私はいつだって、自分の思う「私」でありたいと思っているのだ。そして、旧姓の私が「根幹の私」であり、HNの私は「私が作り出した私」。夫の姓の私は「私が意図しない私」だということ。
現実とアイデンティティの不一致は、とても宙ぶらりんで、精神衛生上宜しくありません。「私」なんて、ホントは何処にもいないのかもしれないね。そんなことを考えてしまうから。
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・過去の「今日」。
2002年11月15日(金) 古書のにおい
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