無責任賛歌
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2006年11月24日(金) |
新東京タワーに期待(何のだ)/映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』 |
> 新東京タワーのデザイン決定
> 2011年の開業を目指して東京・墨田区に建設される新東京タワーのデザインが決まった。3本足で支えられ、日本刀のような曲線を意識したという高さ約610メートルのタワーになる。
> デザインは建築家の安藤忠雄氏と彫刻家の澄川喜一氏が監修。基底部は3本足で、平面形状は三角形だが、上にのぼるにつれて円形になっていく。日本刀や伝統的な日本建築などにみられる「そり」や「むくみ」を意識し、連続的に変化する曲線を使って日本の伝統美と近未来的デザインを融合した、という。
> 足元には3本足が開かれた形で3つのゲートが開かれ、地上350メートルと450メートルの2カ所に展望台を設けた。
> 新東京タワーは、2011年に予定しているテレビ地上波の完全デジタル化に合わせて建設され、首都圏の地上デジタル放送波を送出する役割を担う。東武鉄道が全額出資する「新東京タワー」が事業主体となり、2008年に着工予定。総事業費は約500億円。
> http://www.itmedia.co.jp/news/ > (ITmediaニュース) - 11月24日22時22分更新
さあ、誰が最初に飛び降りるかなー、とまた不謹慎なことを考えちゃうけど(笑)。 正直、「電波塔が一本立つだけじゃん」という軽い感想しかないんだよねー。そのころにはまたゴジラ映画が復活していて、『ゴジラ対ガメラ』の舞台になっているかもしれないけれど(次の復活のアイデアはもうこれしかないと思うぞ)。
逆に、どうして全然関心が湧かないのかなあ、と思う。だって、規模的には「旧」東京タワーを軽く凌駕してるんだから。 「東京タワー」が東京の象徴であり、観光名所として認知されるようになったってのも、時代との関係が深かったってのがあると思うんだよね。 私の子供のころのマンガ雑誌や学習図鑑には、しょっちゅう東京タワーが「高さ」をアピールする形で載っていた。高度経済成長の夢と未来が、その「高さ」に集約されていたんだね。
ともかく、昭和40年代ごろは、地方から上京した人間は、まず、東京タワーを見上げて初めて東京に来たという実感を持てたものだったと思う。 私も、高校のころ、初めて上京した時には東京タワーに登ったものだった。典型的な「おのぼりさん」だね(笑)。 余談だれけれども、私はこの時、デビューしたばかりの17歳の石野真子とすれ違っている。
小林信彦のエッセイ『本音を申せば』の中に、「建設中の東京タワーにはそんなにみんな注目していたわけではなかった」という意味の記述があった。つまり、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』での東京タワーの描写は、やはり現代の視点からのノスタルジーが強調された結果だと言える。 となると、東京タワーが「東京の」タワーだという憧れを含んだ認識で見られていた時期というのは、案外、短かったのではないかという気がしてくる。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!』オトナ帝国の逆襲』で、ラスト、しんちゃんは東京タワーを模した20世紀博タワーの非常階段を疾走する。それはほかのどんなタワーであっても成り立つものではなく(万博の「太陽の塔」があるじゃないかというご意見もあるだろうが、それはパロディ化された形で既に『ヘンダーランドの冒険』で使用済みだった)まさに「時代を疾走していく子ども」の姿を描いていた。
今度の新東京タワー。 誰かが疾走する映画が作られるだろうか。
映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』。 (2006年製作/カラー/132min./35mm/日本語 配給:アスミック・エース) > スタッフ > 監督:金子文紀/プロデューサー:磯山 晶/脚本:宮藤官九郎/音楽:仲西 匡/撮影:山中敏康/美術プロデューサー:中嶋美津夫/編集:新井孝夫 > 出演 > 岡田准一/櫻井 翔/岡田義徳/佐藤隆太/塚本高史/酒井若菜/阿部サダヲ/山口智充/ユンソナ/栗山千明/古田新太/森下愛子/小日向文世/薬師丸ひろ子
> 涙が止まらねぇぇぇぇぇ!ついに完結、さよならキャッツ!! > お待たせしました! いよいよキャッツが帰ってきます! たくさんのファンに愛されてきた「木更津キャッツアイ」は本作でついに完結。 > 余命半年と宣告されたぶっさんを中心とした、仲間5人。地元木更津で巻き起こしたドタバタ騒ぎの日々、そしてついに迎えるぶっさんの死。その3年後……。 > バラバラになったキャッツたちはぶっさんに、そして大人になりきれない自分自身に、最初で最後の“ばいばい”を言えるのか!? 怒涛の笑いとテンション。予測不可能な驚愕の展開はシリーズ最大級! お馴染みのキャスト大集結&驚きの新キャストも登場。 > ちょっぴり成長したキャッツの、可笑しく切ない青春映画。ラストにはシリーズ完結にふさわしい涙の結末が待ち受ける。
大ヒットスタートしたにもかかわらず、翌週には『デスノート』に客を取られ、3週で興行収入が6位にダウンしてしまったのは間が悪かったとしか言いようがない。30億円を狙えたはずの映画が20億円程度に落ち着きそう……と言ってもそれだけでも立派な成績ではあるのだが。 やっと見に行ったシネ・リーブル博多駅、金曜の1000円興行にもかかわらず、既に客は私らを含めて六人。ヒット映画の観客数じゃないね。
テレビシリーズはろくろく見てはいなかったし、前作の映画は見たはずなのに全く記憶がない。 大塚英志がオタクドラマとして最大級の賛辞を送ってはいたが、ちりばめられたネタは確かにオタクの琴線に触れるものではあっても、さほど濃いものとは思えず(真性のオタクなら、自分たちの怪盗団に「キャッツアイ」と名づけることの「薄さ」に気恥ずかしさを覚えるだろう)、このドラマの面白さの本質はそういうところにはないと思っていたからである。
実際、この完結編となると、これまでのオタク的要素は殆ど排除されていると言ってもいい。いや、あるにはあるのだが、前面に出ることを抑制されていると言った方がよいか。 例えば、今回の映画の下敷きとなっているのは、ケヴィン・コスナー主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』であり、作中で言及もされ、まんまそれじゃん、というシーンも随所に登場するのであるが、登場人物の殆どが、なぜかぶっさん(岡田准一)復活のキーワードとなるはずのこの映画を見ようともしないのである(唯一見ているモー子(酒井若菜)は内容を忘れてしまっている)。 また、今回のゲストヒロイン・杉本文子(栗山千明)は「杉本彩」似の名前のことでからかわれかけるが、「散々言われたからやめて」とピシャリと抑える。キャラクター的にはサディスティックでゴーゴー夕張を踏襲しているが、殺し屋ではなく「自衛官」という肩書きを与えているのは大いなるアイロニーだ。
このように、過去の映画などに関わるネタ自体はあちこちに散りばめられているのだが、それらは浅薄に表層をなぞるものではなく、物語の設定やキャラクター造形に深く関わっていながら、そのことを表だって強調し過ぎないように、常にバランスを取る細心の注意が払われているのだ。 もちろんそういう見方をすることができることが、脚本家が意図した「隠し味」なのか、それともただの偶然なのか、判然とはしない。 しかし、判然とさせてしまうとこれは絶対につまらなくなる。そのことに気付かないオタクが、どうしてもっとネタを増やさないのかと、トンチンカンな批判をすることになるのである。
宮藤官九郎自身はオタクであるかもしれないが、オタクの「キモさ」には間違いなく気付いている。他の戯曲や映画脚本を見てみても、「これ見よがし」なネタの投入には否定的だと判断していいだろう。 あからさまなネタに狂喜して、「あのネタの意味はね」と吹聴したがるオタクは、『天国と地獄』だの『砂の器』だののルール違反のネタバラシをして喜んでいる『踊る大捜査線』でも見ていればよいのだ(改めて注意しておくが、『天国と地獄』と『砂の器』を見ていない人は、絶対に『踊る』映画二作を見てはならない)。 本作における『フィールド・オブ・ドリームス』の引用は、根幹的なネタバレに関わるものではないから(と言うか、『フィールド』はそもそもミステリーじゃないし)、決して元ネタの価値を損ねるような馬鹿なマネはしていないのである。
それでは宮藤官九郎脚本のどこが魅力かと言えば、またそれかよ、と言われるかもしれないが、これが純然たる「ミステリー」だからである(だからこそ、過去の作品のネタバラシに関してはルールを守って抑制的であるのだろう)。
ぶっさん(岡田准一)の死と再生は、冒頭で示される。 『木更津キャッツアイ』そっくりの韓流ドラマ『釜山港死ぬ死ぬ団』を実家の床屋で見ているぶっさん。ドラマの中でガンであることを告白する「プサン」に、「死ぬってことはそんな簡単なもんじゃないんだよ!」と悪態をつく。それを聞いて、妻のユッケ(ユンソナ)は「ぶっさん、なんで生きてるか、結婚詐欺よ」と突っ込む。 観客は予告編などで、ぶっさんが復活することはとうに知っているだろう。だからこの冒頭シーンが、「再生後のぶっさんのワンシーンであろう」と当然のように予測する。テレビシリーズでも何度となく「ぶっさんはいつか死ぬ」と喧伝されていたのだ。だから、この予測が裏切られることはないのだが、予測が正しいがために、ここに既に別の「伏線」が仕込まれていることに気がつかなくなる。 映画を見終わった時に初めて、ここに「二段構えのトリック」が仕掛られていたことに気がつくのだ。 このシーンが、本編が始まってどこに挿入されることになるのか、それがまた一つのトリックとして機能している。更にそれまでにどれだけの「謎」が伏線として挿入されているか。全ての謎が一点に収束され、解明されていくラストの野球シーンでの怒涛の展開。この時に感じる観客の快感こそが、ミステリーの醍醐味なのである。
この野球のシーンでようやく私は、「これって、ミステリーじゃん!」という事実に気が付いたのだが、その時には既に遅かった。「謎」が提示されていた事実にすら気付いていない間抜けな自分自身を、私は客席に発見することになったのだ。 私の驚愕を想像していただきたい。私は、それなりにミステリー映画には通暁しているつもりでいて、たいていの映画で騙されることは滅多にない。ものによっては、殺人事件も起こっていない冒頭シーンでトリックを見破ることもある。しかし今回は見事に騙された。その理由は簡単である。この映画の最大のトリックが、「これがミステリー映画であることに最後まで気がつかせない」点にあるからだ。 つまり、『シックス・センス』がホラーに見せかけることでミステリーであることを最後まで隠したように、『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』もまた、青春もの、怪盗もの、野球もの、感動もの、コメディなどの様々な衣装を身につけることによって、ミステリーであることを巧妙に隠していたのである。
この傾向はどうやらテレビシリーズのころから試みられていたらしいが、こんなことなら、テレビ版もしっかり見ておけばよかったと後悔することしきりである。 テレビ時代からのファンであったならば、どこに「謎」が仕込まれているかくらいは気が付いていたと思うからである。
ミステリーのネタバラシはしないことをモットーにしていながら、今回、あえて「この映画はミステリーですよ」とバラしたというのは、今の若い人はマトモにミステリーを見た経験なんてないから、この映画を見たあとで、私のこの文章を読んでも、やっぱり何がどうミステリーなのか、分からないだろうと思うからである(ミステリーの素養がない事実を指摘してるだけで、馬鹿にしてるわけじゃないからね)。 しかし、今年の日本映画は『デスノート』と本作と、ミステリーの秀作を二作、得ることができたが、よりレベルが高いのはこの『木更津キャッツアイ』の方だろう。 しかもこの映画の「最後のトリック」の解明は、説明過多に陥ることもなく、静かに、感動すら我々に与えてくれるのである。これ以上は、本当にネタバレになっちゃうので書けないが、少なくとも『名探偵コナン』や『踊る大捜査線』のようなクズ映画をミステリーだと勘違いしている御仁には、「こういうのを見なさい」と推奨できるレベルの映画だということは保証しておこう。
もちろん、ミステリファンでなくたって、この映画は充分楽しめるのだが、ミステリファンでなければ分からない面白さもあることを強調したいので、ミステリとして見ろ、と強制したいわけではない。そこんとこ、勘違いしないようにね。
しかしクドカン、果たしてこれだけ精緻なトリックを自覚的にやったものか、無意識で身に付いた技術なのか。もし後者なら、坂口安吾以上の天才だなあと思う。
そこまでのことはないか(笑)。
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