無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2006年01月01日(日) 17万ヒット!/映画『キング・コング』&『乱歩地獄』

 新年、明けましておめでとうございます。

 長らく更新が滞り。
 数えてみればもう一月以上も更新がなかったわけで、お待ち頂いた方には申し訳ない限りなのだが、事情は掲示板にも書いた通り、糖尿病の悪化による突然の入院があったことが大きい。血糖値が500まで跳ね上がっちまったんだもの、医者が「入院しろ」って言うのは仕方ないわな。もちろんそれ以前から、私生活での難儀なデキゴトもやたら起こっていて、本や映画の感想など書いていられるか、という事態に陥っていたのではあるが。
 けれどもその間も、ミクシィやはてなの方は一日も欠かさずに更新をしていたのだ。そちらは身辺雑記を簡単に書くことが多いので、こちらに比べれば書くのはラクなのである。「無責任」が更新できない分、せめてそちらをご覧になって頂きたいと、ご希望の方にはメールで連絡を頂いてアドレスをお教えもしたので、一応、常連さんから「いつになったら復活するんだよ」というお叱りは頂かずに済んでいる。しかし見方を変えるなら、現在、こちらの日記を覗いている人の殆どが「通りすがりさん」なのだと推測できる。
 つか、劇団の連中もこの日記、ろくすっぽ見てないということが判明した(笑)。愛想のないヤツラばかりだということは実感しちゃいたから今更文句なんてないんだが。
 でも私の日記のメインは、たとえ更新が滞ろうとも、この「無責任賛歌」なのである。何となれば、ミクシィのように読者の「顔が見える」ところでは、どうしたって相手への「遠慮」というものが生ずる。マイミクシィに登録して下さっている方々は、私がかなり過剰なことを書いたとしても「まあそういうやつだから」と笑って済ましてくださる方ばかりではあるのだが、これは「書き手の心理」の問題であるからどうしようもない。
 よく「不特定多数の人に読まれる場合には言葉に気をつけて」と言われるが、話は全く逆なのである。どんなに細心の注意を払って書かれた文章であろうと、どこかの誰かを傷つけない可能性が皆無とは言えない。「人を傷つける言葉が全てダメ」ならば、我々はほんの一言すら発することができなくなってしまうのだ。たとえば、「人を殺してはいけない」と発言したとして、「でも世の中には過失で人を殺した人もいるのだから、そういう人を傷つけたらいけないので、そんなことは口にすべきじゃない」と反論されてしまうようなものである。そんな馬鹿な話があるわけがない。たとえ他人を中傷する言葉であろうと、「発言そのものは規制されてはならない」のは民主社会の鉄則である。発言の後に批判を受けることと、発言そのものを規制するのとでは意味合いが全然違う。
 即ち、「表現に規制をかけること自体が根本的に理不尽なのだ」という結論にどうしてもなるのである。「不特定多数の人に読まれるからこそ、表現の自由はどこまでも際限なく保障されねばならない」ことは、この国が本当に個人の「人権」を保障し希求する社会であるのならば、絶対に遵守しなければならない根本的なルールであるのだ。
 何だかんだと「人権」を振りかざす連中が、その実、他者の言動を規制する快感に酔い痴れている昨今である。自由に書ける、いや、「自由に書く」場というものを個人が確保しておくことは、これからの方がもっと必要になっていくのではなかろうか。
 だから仮に、私が「こんなヤツラはバカ」と貶したタイプの人間に、読者の皆さんが「偶然」当てはまったとしても、それは「あなたを想定して書いてるわけではない」ので、腹を立てたりするのはお門違いなのである。でもやたら多いんだ、そういうバカ。被害妄想は「バカの上塗り」をすることにしかならないから気をつけようね。


 血糖値の下がり具合もよく、元旦の一時帰宅がかなったので、病院で朝食を取ったあと、妻と二人で櫛田神社に初詣。
 今年は櫛田神社の千二百五十年祭ということで、大きな看板が立てられていたが、特に何かイベントを行うというのではないようだ。福御籤を引くと、すきやきのタレが当たる。接触している身には余計なシロモノだが、神様も「肉食っていいよ」とご託宣を下さったのであろうか。御籤自体は末吉。なんだかここ数年、末吉しか引いていない気がする。妻は以前は御神籤を引くのが趣味みたいなところがあったのだが、すっかり飽きたのか、三十円くらい出してやるよと言っても首を横に振る。
 今年の暦と札を買って、キャナルシティに向かう。

 病人であることを忘れて、ユナイテッドシネマで映画『キング・コング』。せっかくの映画の日に映画を見ないのは損である。もう少しからだを大事にしたらと仰る向きもあろうが、私の目もそう長くは持ちそうにないので、こればかりは忠告を聞くわけにはいかない。
 もはや映画史上の古典であるオリジナル版『キング・コング』であるから(だからこれから書くことはかなりネタバレを含んでいるのだが、このお話を知らないことは既に恥でしかないので、そんなバカのことは想定しない)、たとえCGが発達した21世紀であろうと、生半可な映像化ではそんじょそこらの映画ファン、特撮ファンを唸らせることは不可能である。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソン監督は積年の夢を叶えるためとは言え、ある意味「無謀」に挑戦したわけであるが、これが実に小気味よい快作に仕上がっていて、三時間の長尺が殆ど気にならない。
 冒頭に流れるアル・ジョルスンの歌声と、1930年代のニューヨークの風俗、これだけでも心が躍りだすのだが、思わず画面を食い入るように見てしまったのは、当時のスタンダップ・コメディの芸の数々が「再現」されたからだ。チャップリン風の芸人が「何人も」登場してくるのを見て、ジャクソン監督、よく分かってらっしゃると、ついほくそ笑んでしまうのである。あの浮浪者スタイル、チャップリンのオリジナルじゃなくて、当時の「道化」のスタンダード・スタイルだということは知ってる人は知っている。
 このあたりはオリジナル版にはない「時代背景」の説明描写だが、これが全く説明的になってはいないのが見事である。ヒロインであるアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)が、ただのダンサーではなく、コメディ・ダンサーだという設定が、あとで彼女がコングを「和ませる」伏線として効いてくるのだ。芸は身を助く、と言うか、巨猿と美女との心の交情をスムーズに見せるために、タップダンスや側転、お手玉が役に立とうとは!
 もちろんこれは監督のブロードウェイや映画の歴史に対するオマージュであるのだが、正直、「やり過ぎ」の感がないわけではない。カール・デナム(ジャック・ブラック)が初め映画の主役にフェイ・レイを使おうと考えていたのに、メリアン・C・クーパーに取られてしまったとか(もちろん、この二人は、オリジナル版『キング・コング』のヒロインと監督である)、映画会社の首脳たちが、お蔵入りしかけた映画でもユニバーサルなら買うから売っちまえと発言したりとか、主演男優ブルース(カイル・チャンドラー)がクラーク・ゲイブルの顔マネをしたりとか、多分、特に映画ファンでもない人たちには気にもならないだろう小ネタが、これでもかこれでもかと繰り出されて行くのである。それは舞台がスカル・アイランドに移ってからも同様で、オリジナルはあくまで『キング・コング』のはずなのに、どこかで見たようなシチュエーション、構図、展開、これは『駅馬車』か『ガンガ・ディン』か、といったシーンが続出するのだ。映画の中で、主人公たちが危難に陥るたびにイングルホーン船長(トーマス・クレッチマン)が助けに来るのがご都合主義かつ頻繁でウンザリすると思われる方もあろうが、あれは「騎兵隊」なんであるから、「危険が迫った時に限ってしょっちゅう来るのが可笑しくて面白い」のである。水戸黄門だって最後にしか印籠を出さないし、ウルトラマンだって三分経たなきゃスペシウム光線を出さないんだから、文句を付ける方が「分かってない」のである。ターザンよろしくツタにぶら下がって文字通り「飛んで」来るんだから、あれがルーティーン・ギャグだってことに気付かないといけないのだ。
私は「お約束」なシーンのたびに笑いを堪えるのに精一杯だったのだが、劇場に詰め寄せたお客さんがたはまるで反応がない。今に始まったことではないが、日本の観客は映画を殆ど見ないから本当に鈍感になっちまっているのである。むりやり日本映画にたとえて言うなら、これは『シベリア超特急』のように、「意味も脈絡もなく往年の名画のシーンが再現されて挿入される」という、思いっきり趣味「のみ」に走ってる超オタクな映画なのだよ。『キル・ビル』に例えてもいいんだが(笑)。
 もちろん笑えるだけじゃなくて、ほかにも見所は随所にある。大蛇しか出て来なかったジョン・ギラーミン版『キングコング』(間に「・」が付きません)と違って、スカル・アイランドにはオリジナル版同様、多数の恐竜たちが登場する。これが素晴らしいのは、単に前世紀の生物が生き残っているという設定になっているのではなくて、恐竜たちが「独自の進化を遂げた」形になっていることだ。だから、コングを襲うのも、実際には羽ばたけないことが分かったオリジナル版のプテラノドンではなくて、羽ばたくことのできるテラプスモルダックスに変更されているのである。
 しかもオタク仕様の設定やパロディだけに凝っているのではなくて、ストーリーラインも揺るぎがなく、最後はキッチリと感動もさせてくれるのだからたまらない。朝青龍が大泣きしたと言うのも納得で、何よりコングがストイックでハード・ボイルドな「男」なのがいいのだ。今回のコングは一切笑わない。ギラーミン版『キングコング』のように、ヒロインのオッパイポロリを見てニヤケるようなナンパな描写は皆無。コングはひたすらアンを守り、アンのために戦うのだ。だからこそ、「美女と野獣」の悲劇がオリジナル以上に際立つことになるのである。
 ああ、もうハッキリと言ってしまおう、我々はこの映画に一つの奇跡を見ることができたのである。即ち、既に伝説となっているオリジナル版を凌駕するほどの傑作が生まれてしまったということだ。あり得ないと仰る方は映画を愛するすべを知らない不幸な人間だと断定してやる。恋愛、アクション、謎と怪奇、恐怖と笑い、スリルとサスペンス、センス・オブ・ワンダー、骨太のドラマ、文明批評、映像美などなど、映画のエッセンスがこれほどぎっしりと詰め込まれている作品は滅多にあるものではない。
 だから、田中芳樹が担当したノベライズ版でのあのラストは噴飯ものの蛇足でしかなく、映画がデナムのあのあまりにも有名な「野獣を殺すのはいつも美女なのだ」で締めくくられたことに私は安堵を覚えたのである。


 映画が三時間を越えていたので、朝から見たのに帰宅は1時近く。
 しげが張り切って作ったというおせちに雑煮をいただく。地方によって雑煮の作り方は違うようだが、福岡の場合、雑煮と言えばたいてい、澄まし汁に餅やかまぼこ、鰤に鰹菜を入れる。実は今朝の病院の朝食もそれだったのだが、しげが作ったものも殆ど同じである。よくやったものだと感心。おせちも海老(頭付きのやつを探すのに苦労したと言っていた)にかまぼこ、鮭の切り身にかしわ、昆布巻きにキュウリのイクラ乗せとなかなか豪華である。ついつい箸が進みそうになるのを押さえたが、しげの料理でこんなに美味しいと思ったことは一度もない。私がまたまた入院してしまったもので。少しは気遣う気持ちを見せてくれたものか。


 夕方から今度は、シネ・リーブル博多駅に『乱歩地獄』を見に行く。
江戸川乱歩の短編『火星の運河』『鏡地獄』『芋虫』『蟲』の4篇を、浅野忠信だけを共通して配役し、4人の監督が別々に撮ったオムニバス。……と言っても、原作通りに仕上がっているものは一作もない。各話のタイトルと基本設定やアイデアを借りただけのオリジナルと言った方がよいのだが、それはそれで小説の映像化のスタイルとしては一つの方法であり文句はない。ただねえ、出来上がりがどうにもねえ、一人よがりに過ぎるものばかりなのがちょっとねえ。
 乱歩はともかく熱狂的なファンが多いから、映画作家としては映像化の意欲を掻き立てられる気持ちは分かるのだが、思い入れが強すぎて抑制が効かなくなると言うか、「やり過ぎて」しまうことが多々あるのである。まあその「やり過ぎ」が石井輝男の『恐怖奇形人間』のレベルにまで行っちゃえばギャグというかその稚気に微笑ましさすら感じてしまうことになるのだが、この映画のように「気取って」しまうと、どうにも鼻に付くばかりなのである。

『火星の運河』(監督竹内スグル)
 原作が乱歩の夢想を綴った散文詩みたいなものだから、映画もイメージビデオみたいなものである。男(浅野忠信)が荒野をさまよって小さな沼を見つけ、そこを覗きこんだら、自分がかつて陵辱した女(shan)になっていたというだけのお話。他愛ないと言えば他愛ないのだが、殆ど音のない無声映画に近い作りが面白かったし、何より5分少々と短いので、あまり腹も立たないうちに終わったというか。でも初手から「これのどこが乱歩?」という雰囲気は既に漂っていたのである。

『鏡地獄』(脚本薩川昭夫/監督実相寺昭雄)
 『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』に続く脚本・監督コンビなので、原作を大胆に脚色した本格ミステリー仕立てにし、内容的にも犯人の美少年・齋透(成宮寛貴)によりスポットライトの当たったシリーズ第三作の雰囲気を前面に打ち出している。原作には登場しない明智小五郎(浅野忠信)と小林少年(中村友也)が狂言回しになるのは前作を踏襲しているわけだが、それならこの二人も嶋田久作と三輪ひとみコンビでやってもらいたかったところである。ロンゲの明智って、あんたねえ。
 殺人トリックに、マイクロ波を放射するサラジウムを表面に施した鏡を使う、というのは乱歩というよりも海野十三っぽいが、これはどちらかというと実相寺監督の『怪奇大作戦/京都買います』の仏像消失トリック(カドミウム光線)にオマージュを捧げたものかもしれない。本格ミステリー仕立てとは言ったが、もちろんこんなトリックは現実にはあり得ないので、事件の解明などに主眼は置かれていず、無意味なくらいに随所に置かれている鏡の映像に、『市民ケーン』のような映像美を見出すのみである。映画としては4本中一番マトモな作りになってはいるが、犯人の透をナルシストにしてしまったおかげで、原作の鏡にとり憑かれた男の妄執はさほど伝わってこない。一応、例の「球体」は出てくるんだけど、扱い薄いんだ。浪越警部役の寺田農に部下の刑事役の堀内正美は、実相寺作品常連組で、今回もいい味を出している。

『芋虫』(脚本夢野史郎/監督佐藤寿保)
 なぜかこれも明智小五郎ものに改作。けれど小林少年は『ピストルオペラ』『誰も知らない』の美少女韓英恵に変更。つか、髪が長いままだし、てっきり文代かマユミかと思ったよ。
 お話はもう、なんだかなあという出来で、原作での芋虫こと須永中尉(大森南朋)とその妻・時子(岡元夕紀子)の関係だけはあるものの、二人のセックスシーンを怪人二十面相(松田龍平)が「屋根裏の散歩者」になって覗いているし、切断された須永の手の指がホルマリン漬けになったままぴくぴく動くのは『指』からのイタダキだし、二十面相の本名が「平井太郎」ってのは江戸川乱歩の本名だし(原作の二十面相には「遠藤平吉」という本名がちゃんとある)、二十面相の師匠が「菰田」ってのは『パノラマ島奇談』だしで、適当に乱歩の原作を繋げ合わせて、それでいてただ鬱陶しいばかりで石井輝男のようなキッチュな面白さは微塵も生まれてこない。乱歩の映像化で「これやっちゃ失敗するよな」ってのを全部やらかしちゃった印象である。監督の佐藤寿保って人、以前『藪の中』で、犯される真砂になぜか騎乗位やらせたヘンな人だからなあ。なんかまあ、いろいろやりたかったんでしょうねえ。

『蟲』(脚本・監督カネコアツシ)
 なんかもう、書くのも辛くなってきましたが(笑)。
 時代を現代に移して、女優の木下芙蓉(緒川たまき)に懸想した柾木愛造(浅野忠信)が、彼女を殺してそのままの姿で保存しようとするけれども、失敗して蟲が湧いちゃうというお話。愛造には科学的な知識も何もないから、血抜きも失敗するし、右往左往して死体に絵の具を塗ったくったりするという(緒川たまき、時々苦しくて瞬きしたり息が上がって胸が上下したりしてたぞ。役者なら気張らんかい!)、コメディ仕立て。
 これだけふざけてくれればかえって原作とかけ離れていても腹が立たないくらいだが、無意味に時間軸が交錯したり、芙蓉の恋人を浅野忠信が二役で演じているのでどっちがどっちか迷わされたりして、作りはいかにも青二才の背伸び。実際、監督さん若いんだけど。本職はマンガ家さんだそうだが、私は読んだことがない。

 4本見た感想はともかく「疲れた」である。

 帰宅して、『相棒』『ウィーンフィルコンサート』『華麗なるミュージカル ブロードウェーの100年』などを見て寝る。
 初夢は、女優さんから「膝枕してあげる」と誘われたけれど「僕には妻がいますから」と断る夢。冗談みたいだが、ホントに見たんだから仕方がない。

 明日にはまた病院に舞い戻るので、また更新が途絶えてしまうが、どうせよんでるの通りすがりさんだけだから(結構ヒネているのである)。17万ヒットしたけど、キリ番報告もやっぱりなかったもんなあ。ぐっすん。

2003年01月01日(水) オタク夫婦は新年に何を買ったか/映画『狂った果実』/映画『幕末太陽傅』/『おせん』其之五(きくち正太)ほか
2002年01月01日(火) ぬかるみとミッフィと腐れた餃子と/映画『スパイキッズ』/『降魔法輪』(さとうふみや)ほか
2001年01月01日(月) 2001年元旦スペシャル



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