無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月24日(日) いつものことだけど/映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』

 何とかこれだけは見逃さずにいるぞの『仮面ライダー響鬼』第二十五之巻 「走る紺碧」。
 今回はともかく「夏だから水着」。一番目立ってたのはやっぱり香須実(蒲生麻由)で、朝っぱらから黒のビキニかよってなもんだが、ヒロイン陣の中じゃセクシー系はどうしても彼女なんだね。反作用的に日菜佳(神戸みゆき)は可愛い系ってことになるんだけれども、それはひとみ(森絵梨佳)に任しといてもよかったんじゃないかなあ。でも、視聴者の多くが一斉に突っ込み入れてたと思われるのは、多分「あきら(秋山奈々)はなぜ水着にならないんだ!」ということだったと思う(笑)。本筋はどうでもいいや。


 午前中、次回公演の下見に、天神の福岡市文学館(赤煉瓦文化館)へ。
 もともと明治40年代に日本生命保険株式会社の九州支店として建てられたもので、ほんの20年ほど前まで「現役」だったのだが、外観だけでなく、内装もアール・ヌーボー式の姿を復元して、文学資料館として再生されている。ここの会議室、30人ほどが入れるので、その内装を利用して「舞台」にしてしまおうという発想なのである。とは言え、本当に使えるものかどうか、ゲンブツを見てみないことには判断が下せない。細川嬢と待ち合わせをして、実際に中を覗いてみることにしたのである。
 まあ、公演前はある程度情報は秘匿しとかなきゃならないので、詳述は避けるが、いやもう、こんなに「使えそう」だとは思わなかった。アレとかアレとか、まんま使えるし、問題はアレとかアレをどう処理するかってことなのだが、そこんとこはもう細川嬢のセンスにお任せしたい。細川嬢もイメージが沸々と涌いてきたようで、どんなものができあがるか、楽しみである。

 細川嬢、最近はビートたけしに関心があるそうで、出演、監督作を全て見たいとか。テレビ出演作だとソフト化されてないものも多いからなかなか大変だとは思うが、とりあえず私が持っているDVDをお貸しする。もっとも、私もたけしは好きではあるのだが、何しろ作品数が多いから、ビデオテープでエアチェックしてるものが殆どである。探してみたらDVDは『戦場のメリークリスマス』『御法度』『バトルロワイヤル』『座頭市』『明智小五郎VS怪人二十面相』しかなかった。代表作を微妙に外しているところが自分でも笑える。たけしファンでも最後のはカネ出してまであまり買わないよな。


 「博多リバレイン」の「柳川屋」で、三人で昼食。ここに来ると必ず「博多櫃まぶし」を勧めるのは恒例(笑)。ただ、お櫃一杯で二人前ちょっとの量があるので、食の細い人にとっては多少、胃にこたえる。私やしげはペロリなのだが、まあ普通は二人で食べてちょうどよいくらいだろう。
 念のため、細川嬢に「たくさん食べるほうですか?」と尋ねてみたら、「全然大丈夫です!」と元気に返事される。本当かなといささか疑問だったのだが、本当だった(笑)。人は見かけによらないものである。

 そのあと、博多座の「紀伊国屋」で本など物色。藤原竜也&鈴木杏主演・蜷川幸雄演出版の舞台DVD『ロミオとジュリエット』を購入。既にWOWOWで録画しているのだが、特典映像のインタビューが目当てね。写真集まで一緒に買ってしまったが、写真をぱらぱら見返してみても、蜷川さんのような重鎮が未だに先鋭的なのに改めて嘆息。
 若い人と会話しても小劇場系の人の話題が出るばかりで、なかなか蜷川さんの名前が出てくることは少ないが、あまり舞台とか見てないんだろうか。もっとも若い人は演劇関係者ですら「舞台」をあまり見なかったりするのだけれど。こないだの鐘下辰男さんとの懇親会のときも、そういう会話をその場に来てた劇団の人と話した。もうしつこいくらい繰り返してて若い人に悪いんだけど、もっといろんなもの見ようよ。

 予定は全て終わったので、そのまま帰る予定だったのだが、突然しげが「海に行きたい!」と言い出す。厳密に言えば、私はそのとき、車の後部座席で居眠りこいていたので、詳しい経緯は分からない。でも多分、詳しい経緯なんてなかったのだろう。
 「着いたよ!」という声に、てっきり車は自宅に着いたものだと思って、目を開けると潮風が頬を撫でて、目に真っ青な海が飛び込んできた。
 しげは興奮してドーパミン出まくりである。水着とか何も持って来てなかったのに、無理やり私を波打ち際まで連れて行く。たかが海水浴だってのに、何でこいつ、こんなに嬉しいんだ。仕方なくズボンの裾をまくり上げて、足を入れる。水は適度に冷たく、砂は足をさらさらと撫でて、確かに気持ちよくはあった。けれど波は意外に勢いがあって、まくり上げてもあまり意味はなかった。しっかり膝のあたりまで濡れてしまって、えらい目に遭う。細川嬢は打ち寄せる海草が足に当たって、気持ち悪がっている。
 「これ、わかめですか?」
 「そうだよ」
 「これは?」
 「それはミル」
 「えっ! 怖い!」
 「いや、『ミル』って名前の海草」
 「あっ、なーんだ」
 なんかどーぶつの死骸か何かと勘違いしたらしい。海草だと分かってからは安心したのか、ミルの塊をつまんでぶら下げて遊んでいる。
 ふとしげを見ると、足を入れるどころか、全身、ずぶ濡れになっていた。
 「下着じゃん、お前!」
 キャミソールみたいな感じの下着だから、一見、水着に見えなくもないのだが、濡れれば当然、透けてしまうのを防げない。
 細川嬢も「透けてますよ!」と狼狽する。本当にまあ、あれがああなっているのだ。なのにそんなことを気にもせず、しげは「あはは、あはは」と笑っている。もう脳のネジが捻じ切れているのだ。
 海水浴場は結構な人ごみだ。あまり長居はできないと、まだ名残惜しげなしげを追い立てて、車に戻る。
 しげ、下着はもう着ていられないので、全部脱いで上着だけを羽織る。なんかもう、人の目なんてどうでもいいとばかりに、しげ、更衣室にも行かずに、車の陰で下着を脱ぎ始めるのだ。慌てて細川嬢、前に立ちはだかって、タオルをかざして隠そうとするが、どうしたってはみ出て見えるのである。気がついた客もいたんじゃないかなあ。何とか着替えたが、上着を羽織るといっても薄いカーディガンみたいなやつなので、前で結んでムネを隠すのが精一杯だ。半裸と言ったほうが正しいような格好である。下は当然、スカートをはいただけでノーパン。 
 細川嬢を送って、そのあと帰宅するまで、しげはずっとそのままの格好だった。全く、職質でもされたらどうするつもりだったのか。イカレたやつは何をし始めるか予測がつかないのである。
 ふっくたびれて夜まで爆睡。


 夜、AMCキャナルシティ13で、映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』。
 なんとAMCで一番大きな劇場での公開である。前売り券がいかに売れていたかが分かるね。公開二日目のレイトショーだが、客席はまあ五十人程度の入り。劇場が広い分、随分閑散とした印象である。一人か二人で来て入る男のオタクは見かけるが、結構「普通っぽい」カップルの方が目立つ。腐女子っぽい女の子たちもそんなにはいない。
 一見、予想外のようであるけれども、前売り券買ってるオタクや腐女子が1000円興行のレイトショーなんか利用するはずがないのだ(リピーターとして来るとしても来週当たりからだろう)。実際には腐女子さんたちは昨日と今日の昼間に大挙して押し寄せていたのだろう。それがどれくらいであったかは、売店でパンフレットはおろか関連グッズが殆ど完売していたことでも見当がつく(エドのコートまで売れてたよ)。パワーあるよな、若い連中は。
 パンフだけは必ず買うようにしているので、カウンターのねーちゃんに「追加はいつごろ入荷しますか」と聞くと、ニベもなく「分かりません」と返事される。多分、同じ質問を嫌になるほどされてるんだろう。ジュース(Lサイズ)を頼むと、いつもは「ストローは2本差しますか?」と聞かれるのが、無言で1本だけ差されて渡された。Lサイズを頼んどきながらストローを「1本でいいです」とサビシク答えてたやつらが多かったのかな(笑)。『電車男』のヒットにも関わらず、オタクのシングル率は未だに高いのかもしれない(推測に留めておきます)。
 私はそういうオタクオタクした客の中でもみくちゃにされながら映画を見るのも大好きなのだが、しげはそうではないので今回は混雑を避けることにした。前売り券を買うのも嫌そうな気配だったので、特典グッズも諦めた。でも座席はど真中に悠々と座れた。パンフは後日、頃合を見計らってまた買いに来よう。

 テレビアニメシリーズは賛否両論喧しくはあったが、私は「うまいところにオチをつけたな」という印象であった。原作との単純比較は何度も繰り返している通り不毛で無意味である。
 ファンタジーが最終的にパラレルワールドSFに強引に捻じ曲げられたという批判もあったようだが、「錬金術」を「等価交換」を基本法則としたありうべき科学の一つとして設定していたことで、この物語は当初から「パラレルワールドSF」として成立していた。それは原作とアニメが共通して持っている基本設定でもあった。
 「SF」というテクニカルタームが、既に物語の魅力を語るものとして機能していない現在、『鋼の錬金術師』が「SF」であることに気付いていなかったファンも多かったのではないかと思う。もしかしたら原作者すら「SF」と意識せずに描いていたのかもしれないが、少なくとも脚本家の會川昇と監督の水島精二の二人はSFであることを強く意識してテレビシリーズを制作していたと思いたい。若いファンには「SF」なんて「死語」に拘る必要ないじゃないかと言われそうだが、「SF」とは既成概念・固定観念に囚われることから脱却するための「手法」である。常識的な展開をひっくり返したり可能性の未来を提示したりすることで、我々の精神がいかに思い込みに支配されているかを鋭くえぐってくれるからこそ、そこに限りない魅力を感じるのだ。
 『鋼の錬金術師』のアニメスタッフは、最終回に至る流れの中で、「等価交換」という原作の根幹をなす設定すら反転させて、人間の生き方に「絶対」はない、という形を示してくれた。だから、たとえエドとアルが二つの世界に分断されようとも、ウィンリィの元にエドが帰らずとも、彼らは空に手を伸ばし、自分の足で歩いていくことをやめはしないから、あれは紛れもなく「ハッピー・エンド」なのである。

 テレビシリーズの最終回には、脚本の會川昇の「思想」が色濃く表れていると思う。
 表面的なハッピー・エンドを好まないのはこれまでの脚本作品からも判読できるし、無理にひねって尻切れトンボに終わることもままあるが、『鋼の錬金術師』の場合は原作の展開から離れてもうまくオチが付けられたな、と思っていたのだ。
 アルは体を取り戻した。しかし、兄との旅の記憶をなくし、兄もまた別の世界にはじきとばされた。何かを得、何かを失う。聖書の昔から人間が宿命的に追わされている「犠牲(サクリファイス)」の物語。それでも人は生きていく。その決して諦めることのない「希望」の道は、既にテレビシリーズで充分に語り尽くされたのではなかったか。
 即ち、あれから先、どんな展開を考えようとも、全てはこれまでの物語の拡大再生産にしかならないということである。「続編」を作ってどうするのだ、それともこちらの浅薄な想像を吹き飛ばすほどの新奇な展開をアニメスタッフは考えついたというのか、というのが、私の映画を見る前の期待と不安であったのだ。

 こういう場合、「期待」はまず叶えられることはなく、「不安」はたいてい当たる。前情報でテレビアニメシリーズの「続編」と謳ってはいたが、「完結編」とはヒトコトも言っていなかったことも不安を弥増していたが、劇場版はあからさまなほどにテレビシリーズの拡大再生産になっており、その精神において新しいものは何一つ加えられてはいなかった。これは明かに「更なる続編」を狙っている。
 細かい設定のミスや矛盾を指摘する声は大きいだろうが、これは“一度完結したものを無理やりシリーズ化した”『宇宙戦艦ヤマト』と同じパターンである(あるいは「人気があるから連載をやめさせてもらえない『ジャンプマンガ』の法則」といった方が分かりやすいか)。ヤマトは、地球が危機に陥るたびに人類唯一の希望を担って「特攻」していった。ディテールは違えども、どのエピソードも基本的には同じ構造である。そして、今回の『鋼の錬金術師』劇場版も、まるでデジャ・ブを見ているかのようにテレビシリーズをなぞるだけの物語がだらだらと続くのだ。
 テレビシリーズは、まず「鋼の錬金術師」として活躍するエドとアルの「水戸黄門漫遊記」を描く「現在」から始まって、途中から彼らの「原点」たる旅の始まりの「過去」に遡った。そしてその過去が現在に辿りつき、二人はホムンクルスたちとの戦いを経て人体錬成の謎を解き明かし、最後の「別れ」に至るという展開を辿っている。
 劇場版はまずエドの口から「錬金術世界」にいたころの「過去」が語られ、「現実世界」で生活する「現在」が描かれ、「錬金術世界」を「シャンバラ」と見なすトゥーレ協会によって、二つの世界がシンクロする。そして協会との戦いを経て、また新たな「別れ」が描かれる。個々の要素は違えど、テレビシリーズと劇場版は、その物語構成が全く同じなのだ。これでは「手抜き」と非難されても仕方がないのではないか?
 いや、物語構造が同じだからと言って、それだけが原因でこの映画がつまらなくなっているわけではない。積み重ねられるディテールがことごとく安易で、かつ連関性がなく、少しもドラマを盛り上げていかないのである。
 冒頭、エドはノーアという接触テレパス(懐かしの筒井康隆『七瀬ふたたび』を連想された方もいらっしゃるか)を助ける。彼女はその特殊能力ゆえにトゥーレ協会に追われていたのだ。となればこの少女が本作のヒロインとして、後半、さぞや重要な役割を果たしてくれるだろうと、普通は考える。ところがこいつが全然活躍しやがらねえんだな。錬金術世界に行きたがっていたのをエドに置いてきぼりを食らうという役回りは演じるが、物語の本筋ではない。いったい何のために登場させたのかわからないのだ。まさか沢井美優に声をアテさせるためだけに出したのか。
 「キング・ブラッドレイ」を発見したエドは、血相を変えて彼を追跡する。しかしパラレルワールドという世界観においては、同じ人物であっても別の役回りを演じることはよくあることである。彼は実は映画監督の「フリッツ・ラング」であった。その正体には驚くが、こいつがまだ出てきただけで、物語にやっぱりたいして絡んでこないのである。まあ、この事件をきっかけに映画『メトロポリス』を作ったのだと暗示したいのかもしれないが、粋な描き方だとは言いがたい。
 粋でないと言えば、マース・ヒューズの復活もそうだ。錬金術世界では死んでいても、現実世界で生きているというのはありえることだが、だからと言って、それはあのヒューズ准将とは全くの別人なのである。こういう形でヒューズが蘇ったからと言って、喜ぶファンがいると思っているのだろうか(いるかもしれないから情けないのだが)。
 もともと「パラレルワールド」という設定は、制作者が節操をなくして援用すれば、どんな展開だって可能になるものだ。『ヤマト』が沖田艦長を蘇えらせるのには言い訳にかなり苦労したが、「パラレルワールド」という設定は実に便利なタームである。マース・ヒューズも、キング・ブラッドレイも、実に簡単に蘇った。いや、映画を最後まで見てみると、スカーもラストもちゃんといるのである。更に言えばパラレルワールドは一つとは限らないから、続編、続々編と作って行く段階で、ラースもエンヴィーもホーエンハイムも簡単に蘇らせることができる。既に、トゥーレ協会の陰謀の挫折を描いていることで、この「現実世界」も、実は我々のこの「現実世界」とは別のパラレルワールドであることが明示されているのだ。となればこれから先、『鋼の錬金術師 中つ国編』とか『鋼の錬金術師 日本編』とか『鋼の錬金術師 地下帝国ヨミ編』とか『鋼の錬金術師 宇宙編』とか『鋼の錬金術師 プロ野球編』とかいくらでも作れるぞ。本当に作るんじゃないのか。
 これが冗談ではすまないんじゃないかと危惧するのは、ラストで、ウィンリィが取り残されてしまったからである。「待たせてくれないんだね」と呟くウィンリィの目には涙一つ浮かんではいない。運命を運命として受け入れたゆえに気丈にも涙を流すことをしなかったのか、それともこれは「まだ先がある」という暗示なのか。
 どちらにしろ、テレビシリーズの最終回も今回の劇場版の終わり方も、あっちの世界からこっちの世界へ、「コマを適当に動かす」ことで締められた。「エド/アル+ウィンリィ」と来て「エド+アル/ウィンリィ」と来たから、次は「エド+ウィンリィ/アル」なんことになるんじゃないのか。いや、會川昇はウィンリィ苛めることに快感を感じてるかもしれないから、「エド+アル+マスタング+アームストロング+リザ+シェスカ/ウィンリィ」くらいなことをしやしないか。
 「アルが自分の力で鎧に魂を定着させることができるようになった」という設定も実に便利である。これでアルは、エドとアルがどのパラレルワールドに飛ばされようとも、自分が今いる世界との「連絡」が取れるようになった。あっちのパラレルワールドで事件解決、次はこっちのパラレルワールドで事件解決、もう、続編がいくらでも作れるぞって設定である。そうなればテレビシリーズであれほど「元の体に戻りたい」と苦悩していたアルとは別人になってしまうと言っていいだろう。いや、既にこの劇場版でアルはアルでなくなってしまっている。だからラストでアルが記憶を取り戻し、ついにエドと生身で再会することになっても、少しも感動できないのである。
 こんな適当な設定を思いついてもいいのなら、そのうちアルは鎧以外のモノにも魂を定着できるようになって、「動物アル」とか「建造物アル」とか「家電製品アル」とか「メカ沢一郎アル」とか、いろんなものになっちゃうんじゃないのか。その可能性も絶対にないとは言えないぞ。「パラレルワールド」は基本的に「ハックルベリーの無限大=何でもあり」なんだから。でも『鋼の錬金術師』を「ギャグもの」として見ている人には、そうなってくれたほうが面白いかもしれない。そこまでつん抜けてくれれば私も逆に「面白い」と拍手する気になるかもな。
 制作スタッフには、語り尽くされた物語を更に続けなきゃなんない「お家の事情」があったのかもしれない。どっちかと言うと、同工異曲でマンネリな話が繰り返されても「キャラ萌え」だけで嬌声を上げる痛いオタクの責任の方が重いかもしれない。けれど『鋼の錬金術師』は、『ドラゴンボール』とか『キン肉マン』とか『美少女戦士セーラームーン』とかよりはもちっと「深い」作品じゃないかと思っていたのである。スカーにニーナが殺された後、滂沱の涙を流したエドの姿を私たちは忘れてはいない。アニメスタッフも、あのときのエドに出会ったからアニメ化を決意したはずだ。正義の名の元に殺戮が繰り返される現実に対して打ちのめされた無力な子供たちが、自分を取り戻して行く。そんな物語になっていくことを期待していたファンは多いと思う。
 なのにアニメ版『鋼の錬金術師』はどこに行こうとしているのか。


 映画を見た後、あまりに憤慨してしまったので、思わず東京のグータロウ君に「蛇足だぞアレ」とメールを送る。ところが外出していたので気がつかなかったのだが、東京では震度5弱の地震が起きていたのである。大変なときに能天気なメール送っちゃって、全く何ともはやである。

2004年07月24日(土) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」
2003年07月24日(木) 他に売れてるものがあるからいいじゃないか/『コータローまかりとおる!L』6巻(蛭田達也)/『灰色の乙女たち』1巻(加藤理絵)ほか
2002年07月24日(水) ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか
2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか



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