無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年04月23日(金) 今度の『コナン』は覚悟しろ!&「Aemaeth賞」受賞。……って私!?

 今日もまたチックと戦いながら仕事。
 いやもう、溜まった仕事片付けるためにほぼ一日、トンガリさんの隣で仕事してたから(~_~;)。
 もちろんその間、トンガリさんは独特の言葉遣いでずっと話しかけてくるんである。
 実を言うと、この日記では意味が少しでも通りやすいように「意訳」して内容を紹介しているが、このトンガリさん、意味不明な言葉をしょっちゅう喋っているのである。
 例えば、いきなり「おうちはいかがですか?」なんて聞いてくるので、初対面のころは、いったい私の家のことをこの人はどうして気にするのだろう、と不審に思っていたのだが、この「おうち」というのは、「あなた」と同義で、つまり挨拶のつもりで「あなたの今日のご機嫌はいかがですか?」と言っていたのであった。「おたく」と似たような使い方らしいが、あまり知らない用法である。どこかの方言なのかもしれないが(って、地元の人のはずなんだが)、少なくともこんな言葉遣いする人は職場にはほかにいない。こういう「この人だけが使っている用語」がやたら挿入されるので、意味を理解するのがかなり難しい。
 更にはやたら言い間違いや用語の間違いが多いので、その点でも同僚はみんな、この人が何を喋っているのか意味を汲み取るのに手間がかがって苦労させられているのである。今日も「担当」というのを「担任」と言い間違えていたので、「担任」って誰やねん、ここは学校とちゃうぞと苦笑させられた。
 たいていの場合、この人の喋る内容は、やたらと長くダラダラと続く。「こんなことを申し上げるのは余計なことかもしれませんけれど、また○○(トンガリさんの名前。自分のことを名字で自称するのである)が要らないことを言ってると思われるかもしれませんけれど、これもおうちのためだと思いますからあえて申しますが……、」と前置きがやたら長い。
 短く喋るときもあるのだが、そのときは主語や目的語が省略された(そんなことはわかっているだろうと思いこんでいるのだろう)意味不明な言葉が多いので、これも意味を想像するのに骨が折れる。まあ、普通の人でも、「困りますねえ」とかいきなり声をかけて来て、何が困るんや、と相手をビビらせるというやり方をしないわけではないが、この人の場合、そのあと何を困っているのか言わないで、そのままスッと去っていったりするものだから、「だから何を困ってるの! 一人ごとかい、今のは!」ということになってしまうのである。
 それから、あとは「解読不能なメモ」。これも今日の出来事だが、私の机の上にメモが置かれていて、ヒトコトただ「規則」と書いてある。いったい何のことやら全く見当がつかず、これは私が何かのルールを破りでもしていて(身に覚えはないが)、そのことを注意でもしたいのかと思って、首を捻り、さすがにこれはどうにも解読できずに、仕方なく「どういうことでしょう?」と本人に聞いてみた。そのときの返事もかなり意味不明で、読解するのにひと苦労したのだが、要するに「パソコンのマニュアルを読んでおいてください」ということなのであった。……どうやら、「教本」の意味で「規則」という言葉を使っていたようなのである。それにしても、「何の規則か」書いてくれないと、意味なんか取れやしねえ。ともかく同僚がみんなこの人を避けているのは、「何が言いたいんだか分からない」点が大きい。
 でもねー、一番つらいのはねー、言葉遣いそのものよりもその内容がほぼ全て職場と職場の同僚と上司への愚痴と呪詛だってことなんだよね〜。
 「こちらに勤めさせていただいて、初めは○○もいろいろと言わせていただいておりましたし、こちらにはこちらのやり方があるのであろうと理解はしておりましたけれども、だんだん○○も知恵がついてまいりまして、こんなことを言っても全て忘れられてしまうのだな、○○の言うことなど聞いていただけないのだな、言っても仕方がないのだな、と○○も学習いたしましたので、もう何も申し上げるつもりはございません」と前置きして延々と愚痴を言い始めるのである。
 今日も出たくもない宴会に付き合いで出なきゃいけないことを仕事をしている最中の私の隣で延々と愚痴る愚痴る。だったら出なきゃいーじゃん! 「おうちならお分かりいただけるでしょう?」って、私だってわかんね〜よ!
 ……あなた、それをまる一日聞かされて御覧なさい、どんな気分になるか。
 私も最初はこの人の言葉を「解読」するのに時間がかかったが、ヘタにある程度「解読し慣れ」てしまったために、「あの人のことは頼むよ」ということになってしまったのである。これもやはり意味不明な言葉を喋りまくる女房と長年付き合ってその言葉を「解読」してきた努力の賜物であろうか。しげに言わせると、「そりゃあんたが世間との『勝負』に『負けて』んだよ」ということになるのだが、当のお前がそれを言うか。
 でも言葉の意味は解読できても、気持ちまでは理解できない。ココロの中で私は「助けてくれ〜」と叫んでいるのだが、その気持ちを「解読」してくれる人はいないのだ。
 あああ、なんて楽しい職場(T∇T)。


 ぶっくたびれはしているけれど、神経は高ぶっているので、仕事を終えたあとは眠いのに眼ぶたが閉じようとしないという疲れた状態。
 迎えに来たしげと、姉の店まで散髪に行く。散髪してもらうのはしげだけの予定だったのだが、結局私も父からむりやり「散髪してけ!」と椅子に座らせられる。それはいいけど親父、客待ちにどでかくMEGUMIのカレンダー飾るのはやめてよ(~_~;)。
 父親と例のイラク人質事件について、雑談。性格も考え方も親父譲りなものだから、意見はほぼ一致で、父ももともと自衛隊の派兵自体には反対だったのだが、あの三馬鹿に対してはかなり呆れていた。
 「偏見かもしれんが、差別で言うとやない」と前置きして、父は「結局、北朝鮮のことがあるけん、アメリカの言うことば聞かなならんもんな。俺もそげんとは好かんばってん、自衛隊以外にイラクには行かれんめえが。それを人質になった人たちは何も考えとらんもんなあ」と憤る。
 「本人たちはいいことしようつもりやろう、ばってん、あげん『正義』ば振りかざすのが一番好かん」
 唐沢俊一さんは「裏モノ日記」で、彼ら三馬鹿への憤りの裏には大衆の、ええご身分やねえ的な「ひがみ」がある、と指摘されていたが、それが全くないとは言わないが、私自身は、それはかなり希薄なのではないかと思っている。ボランティア活動自体に反対する意図は父にも私にも、いや、世間の怒れる人々の大半にそれはさほどなかろうと思うからだ(いつも思うのだが、唐沢さんの周囲には「そういうことをロコツに感じさせる」下卑た人間が多すぎるんじゃなかろうか。職業柄、それも仕方がないのだろうが)。ネットをあちこち散策してみても、「あの3人に怒りは覚えるが、だからと言って中傷の手紙を自宅に送りつけたりするのは許せない」という意見もかなり見受けられる。
 もしあの三馬鹿が、危険区域に無謀にも入りこむことをせずにNGO活動を続けていたとしたら、残された家族が「自衛隊撤退」を訴えた政治活動をしなかったら、ここまで世論が沸騰し、「自業自得」論が語られることはなかったはずだからである。
 「自分が正しいことをしている」「いいことをしている」という思いこみは、一切の批判を拒絶する。マトモな神経の持ち主なら、彼ら三馬鹿を批判しつつも、それが自分にもはねかえってくる可能性を充分知っている。善意の虚偽性は自らを殺すのだ。だからこそ、彼らへの怒りは「公憤」となりえていると思うのであるが。

 店を出しなに、近所のおじさんが私を見かけて、「随分スッキリされとりますなあ」と感心したように言った。最初、散髪したことを言ってるのかと思ったが、「前はなかなか立派な体格でござらっしゃったが」と続いたので、痩せたことかと気付いた。
 けど、顔のデカさは変わってないので、「痩せた」というより「やつれた」という印象の方が強いのである。それに肉が落ちてるのは肩と腕ばかりで、腹は落ちてないんだよなあ(T∇T)。


 そのまま、夜はキャナルシテイまで出かけ行って、映画『名探偵コナン 銀翼の奇術師(マジシャン)』を見る。
 毎年毎年、どんどんどうしようもなくなってくる『コナン』映画シリーズであるが、今回のは特に最低を通りこし、見ている最中は脱力をはるかに越えてただひたすら「無」としか言いようのない境地でいられるほどのスバラシイ出来であった。これはもう、『アルマゲドン』とか『パール・ハーバー』の比ではない。制作者たちが何を作ろうとしているのかははっきりと見えているのだが、それが見事なくらいに「何も描いていない」のだ。この超絶脳天逆落とし大馬鹿三太郎ムービーの前では、「こんなの映画じゃない!」なんて罵倒すら甘く聞こえてしまう。ここまでひどいと、もう笑っちゃうしかないというか、世にこれ以外の駄作は存在しない、と断言してもいいくらいなのだが、私は既にこの映画を批評する言葉自体、失ってしまっているようだ(^_^;)。
  隣に座っていた子連れの20代と思しいママさんが、見終わったあと、感極まったように「面白い! 面白すぎる!」と声をあげていた。口調から慮るに、「本気で」面白がっているのではないことは明白であった。いや、ある意味「本気」か。実際私もそう叫びたくなったしな(^o^)。ああ、この映画の感想、コンテンツの方にはどんな風に書いたらいいだろうか。
 ともかくこの筆舌につくしがたい超ケッ作を見逃すのは一生の損である。みんなぜひ見なさい。


 帰宅して郵便ポストを開けると、どこぞから書籍小包が届いている。
 本を送られる覚えなどなかったし、送り先の会社にも見覚えがなかったので、どこぞのシューキョーの宣伝本か何かかと訝みつつ開けてみたのだが、中から出てきたのは、押井守著『イノセンス創作ノート』。
 これは既に買ってるし、注文した覚えもなかったので、どこかほかの人への荷物が紛れこんだのかと、宛先を見てみるが(封筒を破く前に見ろよ)、間違いなく私宛てである。本の間に手紙が挟み込んであったので、表紙をめくってみて手紙を取り出そうとした途端、私の目はテンになってしまった。
 こ、こ、こ、こ、これは押井守監督のサイン!
 慌てて、震える手で手紙を読んでみる。

〉「このたびはイノセンス感想文コンクールにご応募いただき、ありがとうございました。公開後、短い募集期間にも関わらず、イノセンスと向き合い真剣な感想を文章にして、わざわざご応募いただいたことを深く感謝いたします。
 あなたがお送りいただいた作品は、全作品を読んだ製作委員会のスタッフが特に多くの方に読んで欲しいと切に願うほどの作品でした。押井守監督も喜んでサインしてくれた直筆サイン入り関連グッズを贈らせていただきます。ご査収ください。」

 イノセンス感想文コンクール。そう言えば映画を見た直後に勢いで書いた感想を、『イノセンス』の公式ホームページに「感想文募集」のコーナーがあったので、押井監督やスタッフへのエールのつもりで書き送っていたのであった。受賞することを考えて書いたわけではなかったから、そのまますっかり忘れていたのである。
 慌てて『イノセンス』の公式ページを開いてみたら、発表は既に今月の14日に行なわれていた。私の文章は、確かに百選の中のNo,50に掲載されている(私のホームページの「黄泉比良坂電気館」にアップしたものを、字数の規定があるために一部カットしたもの)。
 よく見ると、私のものには★印が付いていて(数えてみると29作品に★が付いていた)、「★Aemaeth賞★」という名前が付いている。これはつ、つ、つまり、なんか「賞」をもらったということ? あああ、賞なんて賞なんて、中学校のころ、H.G.ウェルズの『宇宙戦争』の読書感想文を書いて、校内コンクールで優秀賞を受賞、賞品として『二葉亭四迷・幸田露伴・樋口一葉集』をもらって以来じゃないか! 小躍りしたくなる気持ちを抑えて、前書きに書かれてある選考の経緯を読んでみる。

>「多様に感じることができる「イノセンス」という映画においては、応募作品に明確な順位をつけるというのは、ナンセンスであると判断し、順位はつけておりません。掲載された作品の順序は無作為であり、作品の優劣とは無関係であることをご了承下さい。ちなみに★印がついた作品は、製作委員会スタッフが、文章の技巧の優劣ではなく、特に多くの方に読んで欲しいと切望した感想文です。」

 つまり、中身の優劣ではなく、「『イノセンス』って、こんな読み方もできるんだよ」っていう「多様性」を感じさせるものを選んだ、ということだ。私は日記でも何度となく書いていることなのだが、自分の文章というものに全くと言っていいほど自信を持っていない。今回書いた『イノセンス』の感想文も、勢いで書いただけのしろものだから、読み返すだに「こいつはつまり何が言いたいのだ? 『愛』を肯定したいのか否定したいのか?」と、その論旨の曖昧さに赤面してしまう。だから、決して「優劣」ではない、このような基準で自分の文章が選ばれたということがとても嬉しいのである。
 ともかく、「映画」はいろんな見方ができるから楽しいのだ。賛否両論、毀誉褒貶、様々な意見が飛び交うということは、それだけ作品に力がある証拠であり、批評とは誉めるにしろ貶すにしろ、その作品の持っている「力」を引き出してみせることにその使命がある。当たり前の話だが、「主役」なのは批評の対象となる「作品」そのものなのだ。
 ところが世の中には、作品の批評や感想を、自分を語るため、世間に自分を認めさせるための手段だと勘違いし、半可通な知識で「映画論」とやらをぶつ腐れた人間が山のようにいる。これは自己宣伝のために「映画」を利用しているだけであって、映画に対する「愛」に全くと言っていいほど欠けている行為である。
 宣伝されるべきは「作品」なのであって、「自分」ではない。自己宣伝をあえてせずとも、そこに「魂」が、「愛」がこもっていたならば、自然、「自分」は表出されるものだし、「作品」を壊してしまうことにもならない。「イノセンス感想文」にはその「愛」に満ちた文章が多々あった。私のようにくどくもなく、すっきりと内容の伝わってくる文章や気の利いたものも多い。その中に私の駄文も並べてもらったことは、言葉を尽くせぬほどにすばらしい果報だと思うのである。
 まあ、そういうことなんで、ささやかな受賞ではあるが、浮かれちゃっているのである。数少ない読者のみなさん、もしよかったらサイトが消える前にちょっくら覗いてみてくださいませ。↓

http://www.innocence-movie.jp/comingsoon/kanso.html

 リンクの色、解りにくくてすみません。

2003年04月23日(水) メモ日記/顔面神経痛の夜。
2002年04月23日(火) くましげ。/DVD『紅の豚』(フランス語版)ほか
2001年04月23日(月) 駆けて行った白い雲/DVD『ヤング・フランケンシュタイン 特別版』ほか



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