無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年10月05日(日) 追加日記4/『映画に毛が3本!』(黒田硫黄)ほか

 アニメ『鉄腕アトム』、いよいよ青騎士登場。それに合わせてオープニングも変わったけれど、なんかチラチラして見難い。悪役四天王がアセチレン・ランプ、ハム・エッグ、七色いんこ、スカンク草井ってのは、原作を相当改変することを予告してるみたいで、あまり嬉しくない。話変えても面白くならないってこと、これまでの流れで見えちゃったしなあ。プルグ伯爵出ないんじゃなあ。

 今日の練習は、参加者が少ないので中止とのこと。
 先に出かけてたしげを追っかけて、バス停までは出かけてたのだが、しげから連絡があって「来んでいいよ」と来た。なんかそれじゃせっかく出ただけの甲斐がないので、スーパーに寄って食料の買い込み。
 スパゲティにウィンナーを混ぜただけで、しげはホクホク顔あるが、普通に和食を作っても、和食嫌いのしげは全然食ってはくれないから、あまりうれしかないのである。


 エドワード・ゴーリー『うろんな客 ポストカード』(河出書房新社・924円)。
 ポストカードだけれども、オリジナル版の絵は全て収録されている。載ってないのは柴田元幸氏の訳だけ。原文はゴーリーらしく韻を踏んだ楽しいものだけれど、それを柴田さんは「風強く 客もなきはず 冬の夜 ベルは鳴れども 人影皆無。ふと見れば 壺の上にぞ 何か立つ 珍奇な姿に 一家仰天。」てな感じの短歌形式で訳していた。なかなか面白い趣向だけれど、訳が分かり難くなってしまっているのが難点のように思える。でも、日本語訳したときに韻を踏ませることはほぼ不可能に近いことを承知の上でこういう試みをしたこと自体には敬意を表したい。他の作品の柴田さんの訳は、カッコつけが多くて意味が取りにくく、今一つな印象が強いが、これはそのカッコつけがよい方向に作用していて一番面白い。「doubtful」を「うろんな」と訳しているのも上手い。私が最初に出会ったゴーリー作品がこれだったが、他の翻訳作だったらそれほどファンにはなっていなかったかもしれない。
 以下に拙訳をご紹介するが、韻はやっぱりうまく踏めなかった。

The Doubtful Guest by Edward Gorey
「うろんな客」エドワード・ゴーリー
1 When they answered the bell on that wild winter night, There was no one expected−and no one in sight.
 それはその年の冬のこと、激しい嵐の夜だというのに玄関の呼び鈴が鳴ったものだから、家族は表に出ていった。けれどもみんな、思いもよらなかった。――まさかそこに誰もいないとは。
2 Then they saw something standing on top of an urn, Whose peculiar appearanse gave them quite a turn.
 振り返ると、ツボの上に何だか生き物っぽいものがちょこんと立っていた。そいつの見てくれがあんまり奇天烈だったものだから、家族はすっかり肝をつぶしてしまった。
3 All at once it leapt down and ran into the hall, Where it chose to remain with its nose to the wall.
 そいつは、やにわに飛び降りると、大広間にパタパタと駆け込んで行った。そこでそいつは、壁に鼻をぐいと押しつけたまま、てんで動かなくなっちまった。
4 It was seemingly deaf to whatever they said, So at last they stopped screaming, and went off to bed.
 そいつは、家族がどんなに声をかけても、うわべはまるで耳が聞こえないってフリをしていた。だもんで、とうとう家族は叫び飽きて、もう寝ちまおうってことになった。
5 It joined them at breakfast and presently ate All the syrup and toast and a part of a plate.
 そいつは、朝食になったらちゃっかり家族に混じって、アッという間にシロップを塗ったトーストを全部と、皿を何枚かぺろりと平らげちまった。
6 It wrenched off the horn from the new gramophone, And could not be persuaded to leave it alone.
 そいつは、新品の蓄音機の拡声器をしゃにむにもぎ取ったかと思うと、どんなに返すように説得しようと聞き入れようとしなかった。
7 It betrayed a great liking for peering up flues, And for peeling the soles of its white canvas shoes.
 そいつは、煙突の中を下からじっと見上げるのが大好きだったみたいで、もう一つの趣味は、自分の履いてた白いズックの靴底を剥がすことだった。
8 At times it would tear out whole chapters from books, Or put roomfuls of pictures askew on their hooks.
 たまにそいつは、本のページを全部びりびり破いていた。またある時は、部屋中の絵を全部、フックに斜めに引っ掛けてたものだった。
9 Every sunday it brooded and lay on the floor, Inconveniently close to the drawing-room door.
 日曜日になるとそいつは決まって落ちこんで床に寝転んだ。おかげで応接間のドアが開かなくなって、とんだ迷惑。
10  Now and then it would vanish for hours from the scene, But alas, be discovered inside a tureen.
 時々そいつは、何時間も姿を消していたんだけれど、嘆かわしや、見つかったのはキャセロール鍋の中だった。
11 It was subject to fits of bewildering wrath, During which it would hide all the towels from the bath.
そいつは、突発的な激情に取り憑かれてイカレちまったのか、ずっと風呂場のタオルを全部隠しちゃったこともあった。
12 In the night through the house it would aimlessly creep, In spite of the fact of its being asleep.
夜ともなるとそいつは屋敷の中をあてもなくフラフラと徘徊した。眠っているのはハッキリしてたんだけれど。
13 It would carry off objects of which it grew fond, And protect them by dropping them into the pond.
そいつは、自分の気に入ったものを勝手に持ち出しては池の中に落として保管してる気になっていた。
14 It came seventeen years ago -- and to this day It has shown no intention of going away.
それから17年が経った。――で、今日ただ今、そいつがどこかに出て行っちまったかというと ―― 実はまだここにいるのです。

 最後はつげ義春の『李さん一家』である。まあねえ、誰でもこう訳したくなるだろうけれど、私もその衝動に逆らえませんでした(^_^;)。
 「うろんな客」は「子供」のアナロジーだとか。イメージは5歳くらいか? でも17年が経てば22歳くらいになってるだろう。それでもまだスネカジリってのは、親もなかなか大変なことである。でもこういう「解釈」はあまり面白いものではない。それよりも、読者の誰もが恐らくはこういう「うろんな客」に関わっていることだろうことを想起して、微苦笑されればよろしかろうと思う。


 黒田硫黄『映画に毛が3本!』(講談社・1260円)。
 タイトルは「毛が三本足りない」という意味か、はたまた『オバQ』からか(『オバQ』が絶版なのもそのせいじゃあるまいな)。マンガ家、黒田硫黄氏が『ヤングマガジンアッパーズ』に現在も連載中の映画批評マンガコラムを集めたもので、たった1ページしかないのにその映画のエッセンスを見事に伝えていて、最近の映画批評本の中では群を抜いて面白い。
 私はプロの映画評ってのは基本的にあまり信頼しないのだが(しがらみだの何だので不当に誉めてるものが多いから)、黒田さんの視点は意外と言っては失礼だが、該博な知識に支えられていて、それが静かな筆致の中に結構キツイヒトコトになって表れていて、「読ませてくれる」のである。もちろん、私と見方が必ずしも一致するものばかりではないが、それは「映画に何を見るか」の視点の違いに過ぎないので、腹立たしくはならないのだ。半可通のエセ批評とはワケが違うのである。いくつか印象に残ったものをご紹介する。
 『仮面の男』の20対4の乱闘シーンについて、「マキノ映画なら200対4とかだろうに」とサラリと書いてるけど、これが書ける人ってあまりいないんだよなあ。最近の若い映画オタクがウスくなってるからって、これくらいのセリフが吐けないようじゃ、ファン同士で、会話自体が成り立たないのである。ただ、「どのマキノ?」とかワザと聞いたりする人もいるけど、そういうのはイヤラシイのでご注意。硫黄氏のヒトコト批評「本作の教訓」は、「兄弟は仲良く。」で、これも笑えた。三銃士ものって印象があれだけ希薄な三銃士映画もなかったものなあ(マイケル・ヨーク主演の『三銃士』を見た後でコレを見ると、すげえ違和感覚えると思う)。
 ミリタリーオタクであることを公表しながら、『プライベート・ライアン』について、「何の感想も抱けない。完全に圧倒されてるから感動」とかエラい皮肉をぶちまけてくれているのも善哉(このとき、硫黄氏が杉浦しげる手をしているところもポイントね)。オタクの映画評というのはかくありたいものである。「本作の教訓」は、「本当に本当に本当に、戦争が好きなんだなスピルバーグは。」(^o^)。
 高畑勲の『ホーホケキョ となりの山田くん』を誉めてる人というのを滅多に知らないが、実は私もまた硫黄さん同様、「ケ・セラ・セラ」のシーンで泣いた口だf(^^;)(唐沢俊一さんは「高畑勲は原恵一のツメの垢を煎じて飲め」とまで言ってたなあ)。硫黄さんは本作を「これが映画だ」とまで言い切る。「これみよがしの情熱よりも、かくされた人生の秘密を見るものの心に打ちこむ」とも。それがまさしく高畑勲の描きたかったものであろう。硫黄さんの批評は正鵠を射ている。高畑勲、以って瞑すべしか。「本作の教訓」は「映画は見るまでわかんない。」見てもわかんなかった人は多いと思うけど。この映画の不幸は、「いしいひさいち原作である必要がない」という点に尽きると思う。『うる星やつら』における『ビューティフル・ドリーマー』みたいなもんか。
 硫黄さんのバランス感覚がいいな、と思うのは、『アイアン・ジャイアント』評にも現れている。ホガース少年がアイアン・ジャイアントに「君はスーパーマンになれ」と語るのを「洗脳」と断定し、「ゴーマン」と批判しながら、しかしそれがアメリカの「文化」(ご承知の通り、スーパーマンは“Truth, Justice and the American Way”のために戦っているのである)であることを認めて、我々日本人がその文化を失ってしまっていることを指摘するのだ。善悪の判断は別として、そういったアメリカの「美しさ」を評価するのは、硫黄さんが「文化」の本質を理解している証拠だろう(日本人にも文化がないとは思わないけれども、殆ど無意識化してるから、それを意識化させる作業がすごく難しいのである。一歩間違うと右翼と勘違いされるしね)。「本作の教訓」は「I Love スーパーマン」。
 硫黄さんが唯一苦しそうだったのは、『千と千尋の神隠し』。宮崎駿に『茄子』のオビを書いてもらったという恩義がある。一旦は「この面白さがわかる奴は本物だ」と看板を立てるのだけれど、それをすぐ片付ける(^o^)。でもそのあと「名前を奪われるイミがわからない」「千尋が両親についてどう思ってるのか知りたかった」「千尋がどんな子かわからないのでいまいち好きになれない」「仕事についてもっとやってほしかった」「千尋は他人の善意によっかかってるだけにも見える」と、批判が連発。結論は「イミわかんないけど面白そうに見せる」というどっちつかずなもので、硫黄さん自身も現在のコメントで「揚げ足取りでまずかった」と反省している。イミわかればつまんなくなると思うけどな(^o^)。だから批評に私情は禁物なんである。
 しげもいつの間にかこの本を読んでいたが、数ある映画批評本の中で(と言っても大して読んじゃいないだろうが)、これが一番読みやすくて納得が行くと言う。『ボウリング・フォー・コロンバイン』評で、「マイケル・ムーアがヘストンの家に銃撃被害者の写真を置いていくのは単なるいやがらせ」と書いてるのにえらく共感していた。硫黄さんもいかにも「偽善」嫌いな感じだから、そこがビビッと来るのかもしれん(^o^)。

2002年10月05日(土) 東京曼陀羅/「ミステリー文学資料館」ほか
2001年10月05日(金) 新番第4弾/『クレヨンしんちゃんスペシャル』/『化粧した男の冒険』(麻耶雄嵩・風祭壮太)ほか
2000年10月05日(木) ちょっと浮気(?!)とSFJAPANと/『荒野のコーマス屋敷』(シルヴィア・ウォー)ほか



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