無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年03月06日(木) 御乱心!……って、マジなんですけど/『オタクの迷い道』(岡田斗司夫)ほか

 先日の東京行きでヨナさんに頂いたCDを、ここんとこずっとパソコン打ちのBGMにして聞いている。
 ずっと通してこの日記を読んでいらっしゃる方ならお分りいただけるだろうが、私は、誰それから何を頂いたとか、私の方から何をお贈りしたということを、この日記にはあまり書かないようにしている。
 というのも、実は私、日頃から結構いろんな人にモノを頂いてるのである。もちろん、ご好意は嬉しい限りなので、素直に喜んではしゃいでる様子を書いてもいいのだが、それがあまり度重なるってのもちょっとみっともない、日記の雰囲気が何となく浅ましくなっちゃうような気がして省略してるんである。
 それに、あまり喜んでると、贈り物をしてくださった方が、「じゃあ次はもっと喜ばせてあげよう」ってなこと考えて、どんどん豪勢なものをくれたりするので、抑え気味にしないとヤバいんである。
 だって、今回ヨナさんが下さったの、CDが3枚ですよ。それだけで6000円越してんですから。ビックリ〜(/'O';)/
 ……あまり日記で金がないだの貧乏だなどと書くものではないなあ。あちらこちらから御喜捨が慈雨のごとく……(^_^;)。

 頂いたCDはいずれもヴィヴァルディの『四季』である。クラシックの造詣なんぞ全くない私でも、さすがにこれくらいは知ってるし、ウチにもCDは何枚かある。もっとも殆ど映画のサントラに収録されてるものばかりなので、フル演奏のものは少ない。しかも本棚の奥に埋まっていて取り出せないと来ている(いつものことだ)。
 唯一フルバージョンで持ってるヤツは、悪名高きディアゴスティーニのシリーズのもの。と言っても中身が悪いわけではなく、アルベルト・リッツィオ指揮、サン・マルコ合奏団の演奏する『四季』は、メロディーラインの強弱がハッキリしていて、わりあい好きな演奏であった。
 ヨナさんに頂いた一枚目は、カール・ミュンヒンガー指揮、シュトゥットガルト室内管弦楽団の『四季』。メロディー全体よりも、奏でる音の一つ一つを力強く響かせるタイプ。『春』なんかは全然優しげに聞こえない。『秋』も同様。何となくヴィヴァルディに「挑戦」している雰囲気だ。
 二枚目はニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの『四季』。軽快かつ流麗、畳みかけるところは勢いに乗って迫ってくるが、決して「怒涛のごとく」とはならない。『秋』なんてやや高めの浪が落ちつきなく連続してわしゃわしゃとかぶってくる感じで、何だか滑稽だ。「笑える『四季』」なんて初めて聞いたなあ。
 三枚目はイ・ムジチ合奏団による『四季』。印象は「豊饒」である。1995年の録音で、3枚の中では一番新しいバージョンであるせいかもしれないが、一つの音に絡む楽器の多さが目立つと言うか、重層的で一番オーケストラっぽい。ただ、その分「いかにも」な演奏になっており、『冬』のように静かなメロディーであれば、深く沈んだ音の中に潜んでいる奥深さを感じ取ることもできるが、『春』あたりだと、かえってオーソドックスすぎるくらいに聞こえてしまう。
 まあ、こんなのはシロウトの勝手な印象批評でしかないが、楽団の「個性」によって、「同一曲でもこれだけ印象が違うんですよ」ということを理解させたいヨナさんの意図は伝わった。
 だからと言って、これでクラシックにハマるかどうかは分りませんよ、とヨナさんには言っておこう(^o^)。

 私も、芝居の脚本で、流す音楽の指定をするときに、同じ曲の別バージョンをいくつか並べる、ということをよくやる。ギャップの違いが狂騒的な笑いを引き出す効果を狙ってるのだが、以前の芝居でナット・キング・コールの『ペーパームーン』と桜田淳子の『ペーパームーン』をオープニングとエンディングで流すというものすごいことをやった。ものすごすぎて、その意図があまり客には伝わらなかったようだが(それどころかウチの演出にもつたわんなかったもんな)。
 しかも、音響がドジって音を途中でぶった切りやがったし。やったの其ノ他くんだよ。つくづく使えねえやつめ……(-_-;)。
 今度の芝居も、脚本段階でそういう意図を狙った「ある選曲」をしてるんだが、さて、鈴邑君はちゃんと面白く演出してくれるかなあ。


 昨日から今日にかけて、職場ではトラブル続き。
 私は当事者ではないので、詳しい事情はわからないのだが、「事件」は偶然目にした。
 まずは昨日の昼ごろのこと。
 私が事務仕事をのんべんだらりとこなしていたら、向こうの方で騒がしい声が。揉めているのは同僚のAさん、Bさんである。
 A「……だいたいアンタはオレを馬鹿にしとろうが!」
 B「馬鹿になんかしとらんて!」
 A「いいや、馬鹿にしとう、どうせオレはパソコンなんて扱いきらんったい!」
 どうやら、Aさんがパソコンに入力したデータに間違いがあったので、Bさんが訂正を要求したところ、その言葉使いが悪かったので、口論になったらしい。AさんとBさんは、以前にも似たようなことで諍いを起こしていたが、そのときの憤懣もこの場に持ちこされているようだ。
 A「だいたい元々のデータが間違うとったでしょうが。だけん、最初からきちんとデータば確認してくださいて頼んどったでしょうが」
 B「そのデータは今更訂正がきかんでしょうが。もういっぺん、各部署からデータば出し直してくれなんて言えんでしょうが」
 激昂しているのはAさんであるが、話の筋道はAさんの方が通っている。元々おかしいデータをなんとか整合性を持たせて使えるものに調整しようとして、Aさんは入力に失敗したらしいのである。
 ただ、筋を通すにはAさんは人間として感情的に過ぎるのである。日頃から被害妄想的な態度が目立つし、トラブルを起こしたのもBさんとだけではないのだ。
 A「もうよか! そげん役に立たんデータなら、全部消しちゃる! コンピュータの中のデータも全部消しちゃる!」
 B「やめんね! そげんことしたらどげんなるか、わかっとうとね!」
 Aさんが暴れ出したので、周囲も途端に騒然となった。
 胸倉を掴んだの掴まないのでケンカになる。
 争いを止めようと何人もの同僚が集まってくる。
 A「キサマ、殺す! C、殺す!」
 Aさん、もう完全に常軌を逸している。いきなりCと別の同僚の名前を叫ぶが、その場にCさんはいないのだ。どうやらAさんの妄想の中では、全てのトラブルはAさんの直接の上司であるCさんの陰謀によるものらしい。BさんをCさんの腰巾着だと思っているらしいが、Aさんの主張をある程度正しいものと認めても、そういう事実はなかろうと思われる。
 Aさんの暴言、もう止まらない。
 A「ちきしょう、殺してやるからな、C! キサマの家族もみんな殺すぞ! 娘も息子も殺してやる! 首を洗って待っとけよ!」
 その場にいた者でAさんは外にムリヤリされて行かれた。
 残った同僚のうち、一人の女性が突然痙攣を起こして泣き崩れた。
 「……もういや! こんな会社……!」
 こういうことがウチの職場では結構起きるのである。
 私が、この日記上で私の身分も社名も明かせない理由を少しは御理解いただけたであろうか(^_^;)。
 今日、Aさんは会社をクビになった。
 あれだけの狂いっぷりを見せた以上、それはもう仕方のないことなのだが、あまり真っ直ぐな人にデータの改竄とか、そんな裏仕事を頼んじゃいけないのである。会社だって、いつでもトカゲのシッポ切りができるように、「クビにしやすい人」を選んでそういう汚い仕事を押し付けているのがヒレツなのである。
 給料もらってる身がこういうことを言うのはなんなのだが、ウチの会社、マジで潰れたほうがいいとは思うな。
 
 Aさんのトラブルは、私は管轄違いのところで起こったことなので、傍観するしかなかったのだが、私の部署でも人間関係のトラブルはしょっちゅう起こっている。
 今日も若い子が一人、「私もう、この会社辞めます」なんて私に泣きついてきたので、小1時間かかってなだめるハメになった。原因は女同士の陰湿なイジメ、と本人は主張するが、これも見たところ被害妄想がちょびっと入っている。
 だからと言って、「考え過ぎだよ」と簡単には言えない。それは頭ごなしにその子の主張を否定しちゃうことになるので、下手をしたらヒステリーを起こされかねない。
 ともかく、どんなことをされてるのかを詳しく聞く。それから「陰口ぐらい気にするな」とか「イヤな態度を取られるのなら無理して付き合うことはない」とか、「陰口に負けたくらいのことで会社辞めちゃうなんて損だよ」とか、いつのまにか自分の仕事を中断して、人生相談を始めているのである。
 いや、その程度ならまだいい。なかなか泣きやまない彼女を持て余して、気がついたら、「君がいないと、会社も寂しくなっちゃうよ」とか、「君がいなくなっても悲しむヤツはいないなんて言うな。少なくともオレは悲しい、それは確かだ」とか、聞きようによっては口説き文句みたいなことを口走っているのだ。
 やばい……( ̄∇ ̄;)。
 いや、別にこの程度のことで私とその子の間でナニがナニしてナニになるとは思わない。私は中年である。しかも「冴えない」とか「しがない」とか「むさくるしい」とか、そういう形容詞が上についたほうが似合うようなナリなのだ。
 でも、私のその場限りの激励にもそれなりの効果はある。ようやく「明日も……会社に来ます」と言ってくれた彼女のその顔には、明らかに私への感謝の表情が浮かんでいたのだ。
 これがきっかけになって、必要以上に私が慕われたりしちゃったりなんかして、仮に例えばもしも万が一、「今度、藤原さんのお宅に遊びに行ってもいいですか?」なんて言われたら、しげに何と言われることになるか。
 いや、これは私の妄想ではなく、たまにそんなこと言ってくる若い子が実際にいるのだ。職場は職場、私生活は私生活で厳密に分けておきたいのだが、若い連中の面倒を見て行く過程においては、そうもいかない場合もある。面倒は見るが期待はするなという線引きをちゃんと引いておかないとマズいのである。
 読者諸君はここから何か胡乱な展開があるんじゃないかと期待する向きもあるかもしれないが、そういうことは絶対ないので煽らないようにね(~_~;)。


 岡田斗司夫『オタクの迷い道』(文春文庫・620円)。
 単行本買ってるけど、こんなに特典が付いてたんじゃ、買うしかないですねえ。単行本のときは、表紙のモデルさんがあのインリンだとは気づいてなかった(日本全国で、「あれは『インリン』じゃなくて『インラン』だな」という寒〜いオヤジギャグを思いついたヤツが五万人はいると思われる)。当時はイケてないキャバクラ姉ちゃんみたいだなあ、とか思ってたのに、こんなに売れるとはねえ。かと言って好みになったわけじゃないんだが。

 唐沢俊一・宮脇修一両氏との対談は、なんと87ページにも及ぶ。しかもその内容の濃いことと言ったらもう(_△_;)。
 対談中に「我々は薄い」発言があるが、もちろん全てのオタク情報を知識として仕入れることなど不可能なことを認識した上での発言である。
 岡田さんや唐沢さんが若いオタクに向かってよくする「こんなことも知らないのか」発言にカチンと来て「自分はどうなんだよ、おまえらだってこんなことも知らないし薄いじゃないか」と難癖つけたがる人は結構いるようだが、オタクとしての「濃さ」ってのは、単に知識の多寡にあるのではない。手に入れた情報が、自らの価値判断のフィールドの中でどのような位置に属しているのかを分析できる「能力」、更にはそれを社会的な価値判断の中にも反映させていける「表現力」を言うのであって、ただ単に知識があるだけでは、そりゃ、ただの「知ったかぶり」でしかないのである。
 某掲示板の定連さんなんかみんなそうだからなあ(-_-;)。
 唐沢さんの「オタク」を標榜するスタンスも、この対談や最近の日記を読んでいると、少しずつ変わってきているなあ、と思う。『オトナ帝国』を誉めていたころには、まだ世代間を越えたオタク的知識の伝達がありえるのではないかと考えておられたようだが、何だか最近は若い世代の無知無教養ぶりに諦めがちのようだ。
 私はもう「『オトナ帝国』は万博世代以外には本当には分らない」と思っているし、30代以下の人間の『クレしん』に対する面白がり方は総じてウスいなあと寂しく感じているのだが、でも「実体験」のないヤツに想像力で補えと言っても限界があることは仕方のないことなのだ。
 例えば、戦争経験のない人間の反戦の主張がほぼ全て偽善にしか見えないことと状況は同じである。
 祖母が目玉の松ちゃんや林長二郎の魅力を熱く語り、母が大川橋蔵の死とともに「青春が終わった」と語った「事実」は伝えられるが、その「実感」は決して祖母や母の中から私に移し替えられはしないのである。
 唐沢さんが小林信彦の「リアルタイム経験論」を苦々しく思いつつも受け入れざるをえないと考えておられるのも、自分が「オタク第2世代」として、その時代に生まれていなければ、自らオタクの道を選択することはなかったこと、言い替えれば、時代が「岡田斗司夫」を生み、「唐沢俊一」を生んだことを実感されているからであろう。
 だとすれば、これからの「時代」において、「オタク」はどういう「在り様」を作っていけばいいのか、その指針を示すことが唐沢さんのこれからの「仕事」になっていくはずなのだが、唐沢さんはズルイことにそのアタリについてはあえて発言を控えている。
 自分の著作でそれは語って行くおつもりなんだろうなあ、つまりこの対談は『唐沢俊一的オタク論』の予告編のようなものなので、人の軒先を借りてちゃっかり伏線を張っているあたり、相変わらず商売上手なことである。

 岡田斗司夫さんの本なのに、唐沢さんのことばかり書いちゃったな。
 それじゃあんまりなので、岡田さんのことにも触れておこう(^o^)。今回、初めて知ったのだが、この連載の文章を実際に執筆されていたのは、奥さんの岡田和美さんであったのだった。悪く言えば奥さんは旦那さんのゴーストライターであったわけだが、これは夫唱婦随の合作と考えるべきだろう。
 こういう夫婦関係って羨ましいなあ。
 岡田さんは開田裕治さん夫妻を「オタク同士の理想の夫婦像」と語っているが、どうしてどうして、『フロン』の件でも分る通り、岡田さん夫婦もお互いの人格を理解しあって、あの二人にしかできない夫婦関係をちゃんと築いておられるのである。
 夫婦というものが絶対無二のものであり、他との相対的な価値判断で見なすことがどれだけ愚かしいかということを、実践しちゃっているのだ。これから書かれる岡田さんの本も、全部が全部ではないにしろ、岡田さんが語ったものを奥さんがまとめる形で成り立つものもたくさん生まれていくのであろう。「岡田斗司夫」とは実は、「エラリー・クイーン」であったのだ、という嬉しい発見である。


 晩飯はしげが仕事に行く時間が迫っていたので、マクドナルドのドライブインでてりたまバーガー。ちょっと簡単過ぎ(~_~;)。
 でも、これがわれら夫婦の現在のスタンダードスタイルなのである。別にそうなりたくてなったわけではないのだが。

2002年03月06日(水) 夢のビル・ゲイツ/『金田一耕助の新冒険』(横溝正史)
2001年03月06日(火) 優しい夫ごっこ/『真・無責任艦長タイラー2 奮闘編』(吉岡平)ほか



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