無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年03月04日(火) 騙されるほうがねえ/『たったひとつの冴えたやりかた』(J・ティプトリー・Jr.)/『ENDZONE』2巻(えんどコイチ)ほか

 訃報が二つ。
 ミステリ作家・生島治郎氏が、2日午後、肺炎のため死去。享年70。
 氏の「兇悪」シリーズ、これは好きで何冊か読んでたんだが(単行本はよく出てたけど、文庫は数冊しか出なかった。あれだけのヒット作家だったのに、なぜかなあ?)、「日本におけるハードボイルド小説の草分け」とか言われてるわりに、結構ウェルメイドだな、と思った印象がある。
 もっとも私は、「ハードボイルド」というジャンル自体、そう信じてはいない。心理描写を全く欠いた、完全に「乾いた」小説など書きようがないと思っている。ダシェル・ハメットだって、ロス・マクドナルドだって、主人公の行動の背景に当然その人物の心理が読み取れるようになっているのである。
 「兇悪」シリーズのテレビ映像化『非情のライセンス』は、主役の会田刑事を演じた天知茂の眉間のシワが全てと言っていいような番組だったが、それでも後年のフヤケタ明智小五郎シリーズよりはずっと出来がよかった。もっとも原作の会田はもっと地味で、確かにテレビほどに饒舌ではない。原作のイメージで言えば、どちらかというと仲代達矢に演じさせたかった感じである。
 文体が乾いている、という点では、生島治郎の後継者は、北方謙三でも大沢在昌でもなく、ましてやいしかわじゅんではなく(^o^)、赤川次郎なのではないかと思っている。実は赤川次郎のデビュー作は、『幽霊列車』ではなく、この『非情のライセンス』のシナリオなのである。赤川次郎が、誰を範として小説を書き始めたかが分ろうというものだ。
 後年の生島さんはあまり好きではない。例によって、『片翼だけの天使』に失望したためだ。在日外国人のソープ嬢との恋愛が成立しないとは思わない。だが生島さんの「思い」はあまりに「甘々」だ。こりゃ破綻するよ、と思っていたら、ホントにそうなった。
 映画になった『片翼』も見に行ったが、あまりに退屈でつまらなくて、途中で席を立って帰った。そんなことをしたのは、『暖流』と『プロ野球を100倍楽しく見る方法』の三本しかない。どんな作品にも一人よがりな部分はあるが、それも程を過ぎると、鼻につくのである。
 でも、この人も文壇的な評価はキチンとされてないって思うなあ。生島さんばかりでなく、大藪春彦も河野典生も小鷹信光も、日本のハードボイルド系作家たちは、みな過小評価されてるように思えてならない(確かに駄作も多いんだが)。アメリカじゃハードボイルド小説はヘミングウェイの流れに連なる現代小説の1ジャンルとしてちゃんと評価されてるってのにねえ。

 もう一つの訃報は、声優兼構成作家の井上瑤さん。2月28日午前、癌で亡くなったことが古谷徹氏のホームページに記載されていた。新聞等に訃報の記事はまだないが、まず間違いなく事実だろう。
 掲示板に以下のように書きこみ。

> 塩沢兼人さんが亡くなったときもショックだったけど、井上さんも……。
> 声優さんはあまり誕生年を発表しないから、正確なお年は分らないけれど、まだ50歳とちょっとだったんじゃないか。早いよ。早過ぎるよ。
> 『ガンダム』を「たかがロボットアニメ」と見ている人たちに対して、ムキになって一番熱弁を振るって擁護してたのが井上さんだった。ガンダムへの思い入れが強過ぎて、富野監督とケンカしたこともあった。それくらい作品に全身全霊をかけてぶつかる人だった。
> アニメが好きで、声優が好きで……。
> あえて断言するけれど、『ガンダム』の声優陣で、一番ファンに近かったのが井上さんだったのだ。
> 寂しい。

 「思い入れが強すぎて」の部分は、役者としては損な部分だったのではないかと思う。『うる星やつら』で最初の2年ほど、ランを演じていたのが、突然「インドに行って来る」と役を降りてしまった(後任は小宮和枝さん)。絵に描いたような思いこみぶりに、多少の心配を覚えたのも事実だったので、後に『うる星やつら完結編』のカルラ役で復帰したことは嬉しかった。
 声優の活動だけでは飽き足らず、『クイズダービー』の問題作成も長い間されていた。ともかく雑多な知識欲の旺盛な方で、唐沢俊一さん以前の一行知識マニアでもいらっしゃったのである。
 なぜ声優が構成作家に? そういう疑問を持つ人の方がかつては少なかった。アニメブーム以後にこの世界に入ってきた人たちと違って、自分たちが声優である前に役者であり、役者としてまず何をしなければならないか、ということを真剣に考えている人なら、「声優以外の活動」もごく自然の流れだからである。

 『ガンダム』シリーズも、『逆襲のシャア』にセイラさんが出てこないのはどう考えてもおかしいのである。富野監督は、イベントなどで「セイラさんは声優さんがボクを嫌っているので出ません」と冗談めかした発言をしていたが、実際にそうした部分もあったのではないか。
 井上さんのエピソードで、こんな話がある。
 『ガンダム』関係か何かのパーティで、どこぞの会社のおエライさんが、「どうして『ガンダム』はこんなに人気があるんでしょうかねえ」と井上さんに聞いたとき、井上さんは、「あなたは『ガンダム』を一本でも見たことがありますか? 見たことはないでしょう。見ていればなぜ『ガンダム』に人気があるかは分るはずだからです。何か仰りたいなら、ともかく一本でもいから、まず『ガンダム』を見てみてください」と啖呵を切ったという。
 ……カッコイイなあ(T-T)。
 役と役者を同一視する愚は避けたいと思いつつ、「セイラさん本人や!」という思いを打ち消すことができない。
 そんな井上さんだから、「たかがロボットアニメ」と、自作に対するあまりに自嘲気味な発言を繰り返す富野監督に対して(富野さんがそう言いたがる気持ちも理解できなくはないんだが)、井上さんが不満に近い思いを抱いていたであろうことも見当がつく。
 富野さん、どうして『逆シャア』をアムロとシャアとセイラさんの物語として描かなかったんだ。
 今更言っても詮無いことではあるのだが。

 『未来放浪ガルディーン』のアニメ企画も、火浦功がもちっと作家としてマトモだったら実現してたんだよなあ。塩沢さんも井上さんも亡くなった今となっては、仮に制作されることがあったとしても、全然別物になってしまう。火浦功、なんでちゃんと原作書かなかった。
 今更言っても詮無いことではあるのだが。

 セイラさん、ランちゃん以外にも、シェリル、香貫花、おそ松くん、天野邪子、ゲベルニッチなど、役は変われど聞いただけで「瑶さんだ」とすぐわかる個性のある声。そんな人が、どんどん少なくなっているように思う。
 惜しみても余りある思いが、汲めども尽きぬほどに流れてくるのだ。
 

 仕事帰りの晩飯、「王将」で牛モツラーメンと豚の天ぷら。
 ここも間を置いて行くと、いろいろ変わったメニューが増えている。
 料理が来るまでの間、例の「ウソ職業」を集めた本、クラフト・エヴィング商會の『じつは、わたくしこういうものです』をしげに「これ、面白いよ」と言って読ませてみたのだが、何ページか読んで、腹立たしそうに「読んだ」と言って、突き返してきた。
 「面白くなかった? こういうの好きかと思ったんだけど」
 「だって、ふざけとうやん!」
 「……何が?」
 「妖しいオヤジが『月光密売の方法は秘密です』とか言って、明かそうとせんもん!」
 「……何言ってんの? 明かそうったって明かしようがないやん」
 「なんで?」
 「できるわけないじゃん!」
 「だって、ここに『月光密売してます』って書いてるじゃん!」
 「……おまえ、もしかして、この本に載ってる職業がホントにあると思ってる?」
 「違うと!?」
 「『月光』なんて、どうやって密売するんだよ! ウソだってすぐわかるだろ!?」
 「だって、写真で杯持ってるじゃん! 何か秘伝のワザがあるのかなって思って……」
 「『一瞬にして、地球の裏側の夜のところから、表側の昼のところまで月光を運んでくる』って、できるわけないじゃん……。これは『ウソを楽しむ』本なんだからさあ、少しは気づけよ」
 「だってオレが騙されやすいの知っとろ? エロさんとこの『銀河パトロールのジョンさん』にだって騙されたんだから!」
 だからなあ、エロさんには誰も読者を騙そうなんて意図はないんだって。勝手に騙されたのはおまえだろうに。
 あの、読者のみなさま方の中で、しげのこういった一連の言動を読んで、「いくらなんでもそんなバカな人間はいないだろう、私が話を誇張しているか作ってるんじゃないか?」と思ってらっしゃるかもしれませんが、しげに関する限り誇張は全くありません。まんまです。典型的な天然かつ不思議ちゃんなのです。劇団の連中にはもっと激しい不思議ちゃんが何人もいるので一番マトモに見えるのですが(考えてみたらすげえ劇団だ)、単に総体的な問題でしかありません。
 で、思い出したので書いときますが、これも実話です。
 以前、空を見上げて、「実はあの空って書き割りなんだよ」としげに言ったら、「へええ」と感心してました。……信じるなよ(-_-;)。


 またまたあぐにさんにSF作品を紹介しようと、本棚をひっくり返して、何冊かをセレクト。既読のものでも、やっぱり読み返さないと、とてもレビューなんて書けるものではないのである。

 まずは、「これを読んでハンカチを涙で濡らさなかったら人間じゃない」とまで評されたジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『たったひとつの冴えたやりかた』(ハヤカワ文庫・720円)。
 作者は「ジェイムズ」と名乗っているが、実は女性。そして本作を遺作として、老齢で寝たきりだった夫を射殺した後に自らも覚悟の自殺を遂げた。人類の過去の歴史を語るこの短編集に込められた、作者の最後の思いを感じながら読むことも可能だろうが、私は余りそういう読み方はしない。作品論と作家論は分けて読むほうなもので。
 表紙イラストが川原由美子で、これもポイント高し。
 『エヴァ』の最終回はハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』(こちらは余り好きじゃないので奨めない)から取られているが、設定資料だと当初はこの『たった一つ』になる予定だったことが分る。話に共通性は……あるんかなあ?(^_^;)

  16歳になったばかりのお転婆娘のコーティー・キャス。親にナイショで憧れの星空に飛び出した彼女は、宇宙の裂け目「リフト」で奇妙なエイリアンに出会う。それは分子なみに超微小なイーアという種族の「少女」で、なんとコーティーの頭に住みついてしまった!
 なぜか意気投合してしまった二人(?)は、更なる宇宙の冒険に旅立つのだが……。

 リリカルなSFが好きな人にはたまらなく切ない物語だが、正直言って、昔、最初に読んだときには、主人公コーティ・キャスの「青二才」……と言うか、はっきりと「バカ」だよねえ、この子。そのバカっぷりがどうにも付いて行けなくて、鼻白んだものだった。ラストの切なく厳しい彼女の決断も、「結局は自業自得じゃん?」てなもんで「『好奇心猫をも殺す』って言葉知らない?」って彼女に言いたくなっちゃったのである。
 それに、この物語の基本設定は、トム・ゴドウィンの『冷たい方程式』に属するものなので、少女に対して一片の同情も持たないこちらのオリジナルの方が私には好みだったのである。
 ところがトシを取ってくると涙腺が弱くなってくるのか、バカもバカとして赦せるようになってくるというのか。読み返してみると不思議不思議、昔は腹立たしかった主人公「二人」の「バカさ」加減が、妙にいとおしくなってきたのである。
 そうだよ、「人」は本来「バカ」な存在なんだ。コーティも、そして「彼女」もやはり自らを知らぬ愚か者。けれど、自らが愚かであることの運命を、受け入れたがらぬ者が、現実の世界にどれだけ蔓延していることだろう。それに比べれば、コーティたちの「決断」がいかに潔いことか。
 今回読み返してみて、これならSF嫌いの人にでも推薦できるなあ、と思った次第。けれどあぐにさんはともかく、しげだったらやっぱり『冷たい方程式』の方が好みだろうなあ。


 次にR・A・ラファティの『九百人のお祖母さん』(ハヤカワ文庫・699円)。
 先日、こうたろう君と電話で会話したときに、「あぐにさんに『九百人のお祖母さん』を奨めるのはどうかな? あれは比較的新しいし」と喋ったら、「新しくねえよ」と言われてしまった。確かにもう30年も前の作品なのである。でもSFの黄金期を1950年代だと思ってる身にとっては、これもつい最近って感覚なんだが。
 吾妻ひでおの『不条理日記』の中にこれをパロって「九百人のおばあさんに出合う」というのがあったが、パロディのワリには別になんという捻りもない。でも捻りがなくてストレートだからこれは笑えるのである。
 だって、もともと、この原典自体が風変わりでヘンテコで人を食ったSFなのだから、ヘタな捻りを加えるより、「九百人のおばあさん」と言ったほうがそのまま笑えるのである。
 一時期、SFファンの間で、何か面白いウワサ話やフォークロアを聞いて、それを伝えようとするのだが、うまく言えない。「おかしいなあ、この話、もっと面白かったはずなんだが」なんて言ってる奴に「そりゃ『馬の首』(小松左京)だろう」なんて言って突っ込んだものだったが、どちらかというと、これ、「『九百人のお祖母さん』かよ」と言った方がピッタリ来るのだ。『馬の首』は怪談だけれど、『九百人』は純然たる「悪趣味小説」だからねえ。何しろ読んでて「足元掬われる」感覚が大きくって、一度ハマっちゃうとこの味わいがたまらない。

 “誰も死なない星”プロアヴィタス(藤子・F・不二雄『モジャ公』のジュゲム星はこれがもとネタかな)。
 確かにここには墓はない。果たして本当に彼らは死なないのか? 調査員セランは、ふと、「誰も死なないのならば、彼らの祖先は、宇宙の原初から生きているのではないか?」ということに気づく。
 そして、彼は、プロアヴィタス人の祖先をたどり、「九百人のお祖母さん」にであうことになるのだった。

 え? 出会ってどうなったかって?
 いや、そんなこと可笑し過ぎて言えませんって(^o^)。


 シオドア・スタージョン『夢みる宝石』(ハヤカワ文庫・530円)。
 これ、うっかり二冊買っちゃって、1冊はC−1君にあげたんだけれど、感想聞き損なってたなあ。久しぶりに会ってみたいが、老けてるような気がするなあ。いろんな意味で(^o^)。

 養父に虐待され、家を飛び出した少年、ホーティ・ブルーイット。
 彼が逃げこんだカーニヴァル一座は、フリークス・ショー(かたわ者の見世物)を売り物にしていた。世間から迫害されている奇形児たちの中で、初めて安らぎを覚えるホーティ。しかし、ホーティの不思議な「能力」に気づいた一座の美しき小人・ジーナは、不安を覚え始める。
 その一座の団長「人食い」モネートルは、ホーティの「能力」を有する「宝石」の行方を何年も探し続けていたのだった……。

 トッド・ブラウニングの映画『フリークス(怪物団)』に着想を得たのか、物語の舞台がカーニヴァル団というのも驚き。何となく江戸川乱歩の『孤島の鬼』をも彷彿とさせるが、これはまあ、『フランケンシュタイン』や『モロー博士の島』からの平行進化だろうな。
 「作られしものの悲しみ」というのはもともとは宗教的なテーマなのだけれど、それをSFという形で定着させ、未来の人類の課題としたのは、チャペック、アシモフの功績ももちろん大なのだが、スタージョンの一連の作品も貢献してるのではないか。
 なんと言っても胸を打つのは、彼らの自らの犠牲を厭わぬ優しさに満ちた心である。
 ラスト近く、ホーティが「宝石」との交信を通じて感じた「存在」に対する問い掛け。その哲学的観想を「意味不明」と取るか、それとも、そこにあるものの「絶対的肯定」と取るか、あるいは……これらの解釈の違いによって、この物語の楽しみ方も様々に変わるだろう。


 マンガ、えんどコイチ『ENDZONE』2巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 「死」をモチーフにしたサプライズ・ストーリー、と来ればどうしてもえんどさんの前作(と言っても相当ムカシだが)『死神くん』を想起しちゃうんだけれど、殆どのエピソードをハッピーエンドにせざるをえなかった『死神くん』に比べれば、この『エンドゾーン』は随分自由になっている。まるでキレイゴトを描き続けた反動が一気に来たように、アンハッピーエンドの連続なのだ。
 もっとも、強引にハッピーエンドにしていたときのようなムリな展開がなくなって、オチが随分すっきりとしている。どこかで見たことがあるようなアイデアが多くなってしまうのは、こういうアイデア・ストーリーの場合にはどうしても起こる問題ではあるのだが、1巻のころよりは随分練られてきている。
 それこそ、若い人は『ミステリーゾーン』も『アウターリミッツ』も知らないから、新鮮に見えるかもしれないが、我々の世代ともなると、もうオリジナルアイデアなどは期待してなく、元ネタに「いかにアレンジを加えているか」という点にしか興味はないのである。特に、『雪女』などは先行作がゴマンとあるのだからゴマカシが利かない。眼を見張る、とまでは言えないが、えんどさん、なかなか健闘していると思う。
 惜しむらくはなあ、これで絵が上達してたらなあ。
 やっぱ、『とんちんかん』の絵柄でホラーはちょっとねえ(-_-;)。

2002年03月04日(月) 愛のタコ焼き情話/『八戒の大冒険 2002REMIX』(唐沢なをき)/『ダルタニャンの生涯』(佐藤賢一)ほか
2001年03月04日(日) 一日が短い。寝てるからだな/アニメ『ソル・ビアンカ』1・2話ほか



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