無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月13日(月) またまた風邪悪化/『別冊宝島Real まれに見るバカ女』/『宇宙をぼくの手の上に』(山本弘)ほか

 ネットカフェの話、続く(←マネって言うなよ)。
 と言うのも、気がついたら午前サマだったからなんだな。
 夜8時に入って、外に出てみたらもう2時。6時間もいたのかよ。それで4千円もしたのか。
 考えて見たら、その間、映画を一本見て、私もしげもあとはマンガ読みまくりだったのだから、6時間経ってたってのも当たり前なのである。昨日の日記ではもうメンドクサイので省略したけど、他にも『イリヤッド』とか『ラブひな』とか読んでたんである。……そんなん全部感想書いてる時間なんかねー(^_^;)。
 帰宅して、昼まで昼寝。いや、朝寝か。
 夜更かしのせいなのか、風邪がぶり返している。やはり油断は禁物だったなあ。


 マンガ、手塚治虫『ブラック・ジャック B・J生い立ち編+2/ピノコ誕生編+2』(秋田書店・各880円)。
 コンビニで「文庫版未収録作品特別掲載」の文字に惹かれて購入。
 でも『人間鳥』も『化身』も、雑誌掲載時に読んじゃいるのだ。両作とも初期作品で、人間を鳥に改造したり、馬の脳を人間に移殖したりと、非現実的でSF色の強い作品だったので、「ヒューマンドラマ」の印象が強くなった単行本には未収録だったのだろう。でも『ブラック・ジャック』ってもともとそういう傾向が強かったんだよな。
 オマケのB・J&ピノコのキューブリック人形ってのがエラいチャチ。こんなん付いて何か楽しいんだろうか。海洋堂の作った食玩のB・J、造型が気に入らなかったんだが、これに比べりゃ天と地ほどの差がある。反作用的に海洋堂の株が上がっちゃうなあ。


 『別冊宝島Real043 まれに見るバカ女 社民党議員から人権侵害作家、芸なし芸能人まで!』(宝島社・1260円)。
 すげえ企画だなあ、こういうのが通るようになったか。
 思いっきり女性差別を目的とした本ではないか、とお腹立ちのフェミニストの方もいらっしゃるかもしれないが、いやいやいや、短絡的にお怒りになってはいけませんよ。「出る杭は打たれる」の譬え通り、叩かれるためにはまず「出」なきゃならない。どんなに「芸なし」とさげすまれようが、とりあえず「顔出し」さえしていれば、話題にはなる。話題になればテレビか雑誌か、どこかで使ってもらえる。これもまた「生活の知恵」というやつでありましょう。
 さて、今回取り上げられた60人の女性の一人一人についてカンソウを述べる余裕はないので、何人かをピックアップ。とりあえず田嶋陽子や辻元清美ほか政治家関係は省こう。

 柳美里の『石に泳ぐ魚』、実は未だに読んでない。
 けれども、裁判のヤリトリなどの一部を抜粋して、彼女がいかに「人権侵害作家」であるかを追求した石井政之氏のレポートを読むと、このひたーやっぱし、原告のプライバシーなんか屁とも思っちゃいねーよな、と思っちゃうね。
 いや、対象書を未読であることも無視して、ここはもう柳美里を「モデルの女性の人権なんか知ったこっちゃねえ」と思ってるクソ女だと規定してしまおう。「文学かプライバシーか」という問題について考えるなら、その方がスッキリするからだ。
 社会常識的に判断すれば、柳美里が原告の女性の身体的障害や出自について何の相談もなく小説化したことは、どう考えたって人倫に反する行為である。
 スゲーな、と思ったのが、「顔面の腫瘍は人にさらされているわけだからプライバシーに当たらない」という裁判中の柳美里の主張だ。これをして石井氏は「身勝手な理屈」と怒りを表明しているが、そりゃ当然だわな。
 で、「柳美里ってそんなバカなのか」、と判断してしまえばそれで終わりなのだが、ちょっとそこでヒト呼吸置いて考えてみたいのは、この屁理屈、柳さん本人もムチャクチャだとわかってて、ワザと言ってんじゃないかってことなんだね。
 私もある件で昔、裁判の証人として立った経験があるので言えることなんだけど、たとえどんなに常識的にはムチャクチャな理屈であろうと、被告の弁護に立つ場合には、ほんのちょっとでも検察側に「弱み」を見せてはならぬ、と弁護士さんからクギを刺されるものなんだよね。
 極端な話、誰が見ても明白な形で犯罪を犯したことがわかっている場合でも、例えば、殺人の現行犯で逮捕された被告の弁護に立ったときに、「やったことは悪いことだけど、本人も反省してますから情状酌量を」なんてナマヌルイ懇願をしたところで、そんなの何の弁護効果もないのだ。
 じゃあどう言えばいいかっていうと、「被告には殺意はなかった」とか「偶然の事故だ」とか主張しなきゃならないのね。大事なのは、「たとえそれが事実に反することであろうと、被告を救いたいという意志を表明すること」、これなんだね。アナタ、世間一般に流通してるアマイアマ〜イヒューマニズムとか良心なんてものを持ってたら、裁判にゃ勝てやしないんですぜ。

 柳美里の目的は自作を出版することである。
 自らを「文学者」と自認している人間が、目の前に書いてみたい題材が転がっていた場合、たとえモデルとなる人間の人権を傷つけることになることがわかっていても、それを果たして書かずにいられるものなのかどうか。
 もともと、「作家」だの「文学者」なんて存在は、常識や道徳観にとらわれないところに位置しているものだ。彼らを突き動かすものは自らの正義のみであり、だからこそ、従来の規範や既成概念を破壊する方向に往々にして進んでしまう。いい悪いではなく、そうでなければ「作家」は「作家」としてのアイデンティティー自体を断たれてしまう。
 柳美里は、本心では「人権」なんてどうでもいいと思っているのだ。というより嫌悪しているといってもいい。裁判での「身勝手な理屈」はもちろん柳美里の本心の声ではない。自らの著作を何が何でも出版したいための方便である。
 柳美里は少なくとも「バカ女」ではないと思う。外道だし、クソ女だし、多分既知外でもあろうが、彼女が「文学者」であるならば彼女の取った行動は全て当然のことだ。ただ、私が柳さんを無条件に「弁護」してるとは思わないでほしい。いくら「作家なら当然の行為」だからって、社会的に許されることではないから裁かれているわけなんでね。
 たとえ改訂版であっても、『石に泳ぐ魚』は出版された。改訂前の形で出せなかったことに柳さん本人は不服かもしれないが、うまいこと裁判官をだまくらかしてそこまでこぎつけたんだから、これはもう柳さんの「勝利」である。実際の作品を読んで面白いと思うか腹を立てるかはまた別の問題。
 ただ、そこまで「作家」に拘るのであれば、「人権無視して何が悪い」と開き直って弾圧食らうくらいのことはしてほしかったな、とも思う。それが、「文学者」だの「作家」だのという人種に余計なステイタスを与え過ぎてきた戦後の思潮に対するカウンターカルチャーになるのではないかと思うからである。
 仮に、『石に泳ぐ魚』が出版停止になったって、これだけネットがオープンになってる社会なら、改訂前の作品が闇に消えて幻になるってことはそうそうないだろう。いずれ「ほとぼりが覚めたころ」に、どこかの誰かがアップしちゃうのではないか。
 でも、その際、柳さんには、せっかく自分の作品がしっかり流通しているのだから、絶対に著作権侵害裁判なんかは起こさないでほしいもんだね(^。^)。
 
 さて、もう一人だけこの本の中から、かつて私の青春の象徴でもあった中島梓(栗本薫)女史について触れておこう。
 今となってはねー、恥ずかしいことなんだけどねー、彼女が『文学の輪郭』やら『ぼくらの時代』で華々しく登場する以前、雑誌『幻影城』で「早稲田のキャピキャピ女子大生がミステリ語ってマース」ってな雰囲気のまあ青い青い文章綴ってたころからのファンだったからねー。ファン歴の長さだけで言うなら、たいていのヒトには負けない。
 そのころの彼女、化粧も今ほど濃くないし、何より痩せておられたし(^_^;)、いや、結構かわいいおネエさまだったのよ。友人に「栗本薫ってかわいいよな」っつったら、「贔屓目でモノ言うな」って言われてたけど。
 でも、初期の小説のいくつかには本気で感心していたのだ。『時の石』には泣かされたし、伊集院大介シリーズ、特に『優しい密室』と『鬼面の研究』は当時の私にとってベスト・ミステリと言ってもいいくらいに感心させられた。
 けど、みなさんもご承知の通り、この方が作品世界に露骨に「趣味」を持ちこんできたあたりから段々オカシクなってきたんですねー。
 呉智英さんがこの『バカ女』で指摘してる通り、「肥大化する自意識のバケモノ」になっちゃったんである。いちいち作品を挙げてくのがメンドウなんで省くけれども、なんかもー、読む小説読む小説、キャラクターどうしのヤリトリがネチネチと鬱陶しくなってきてねー、愛の言葉ささやいててもさぁ、それが相手に対してじゃなくて、作者自身に向けられてるものだってのが見えてくるのよ。「アナタを好きな私はこんなにステキ」って感じ? ……いや、もう文章は引用しません。あまりにツラすぎるから(-_-;)。とりあえず、私の言いたいことがよく分らない人は、『終わりのないラブソング』あたりでも読んでみてくださいな(実はどの作品でもいいんですが)。私はアレだけは二度と再読する気になれません(T∇T)。
 「この人はダメだ」って思っちゃった決定的なヤツが『マンガ青春記』。
 この半自伝の中で、中島さんは、自分に自信を持てない人に対して、それまで自分が何をし、何を見聞きし、何を読んできたか、全部書きだしてみよう、と言っている。そこから自分の「核」になっているものが見付け出せるだろう、ということね。
 この方法、確かに悪くはないのだ。人間のアイデンティティはつまるところ自らの「記憶」に頼るしかない。筒井康隆も、自伝を書くよう依頼された時に、自らに与えられてきた「情報」のみで綴る、ということをやっている。「ああ、私って、結構いろんなこと経験して来てるんじゃん」、と思えれば、それは確かに自信回復につながるだろう(思い出せないとかえって自信喪失は深まるが)。
 でも、そのときに大事なことは、あくまで自らを客観視して、過去の自分と今の自分を繋いでいるものが何かを判断しなきゃならないってことなんだよね。過去の自分の中に埋没してしまうと、自分に自信のなかった人ほど、反作用的に自己の全面肯定に陥ってしまう。「私ってステキ」から抜け出せなくなるのだ。中島さんはまさにその、落ちちゃいけない落し穴に落ちてしまった。
 そこから私は中島さんの本が辛くて読めなくなってしまったのだ。結局、あの人の小説は全て「私はこんなにかわいいの、かわいいの、かわいいの」ってことを手を変え品を変え語っているに過ぎない。それを延々読み続けるなど、マリー・ローランサンの絵を何十枚何百枚と見せられ続けるようなものだ。
 栗本さんがそういうスタイルで作品を書き続けることに文句をつけるつもりはない。けれど、彼女がたびたび起こしてしまう舌禍事件、これは自分自身のファンタジーの中に入りこんでしまっている人間が往々にして犯してしまう失敗の典型なのだ。呉智英さんは「覚悟なき暴論」と批判するが、そもそもファンタジーの住人に「覚悟」などはない。覚悟を持てと、あの人に要求するんですか(^_^;)。
 今さら栗本さんに何かを言ったところでどうしようもない。『グイン・サーガ』は100巻を越えても続けられるらしいが、こりゃもうね、神棚に飾って、手を触れないようにしとくしかないよね。


 ようやく手に入れた『SFJapan』6号(徳間書店・1800円)。
 今回の特集は、「翻訳の載らない翻訳SF特集」と題して、翻訳SF名作のタイトルから連想した新短編を、現代のSF作家さんたちに書かせるという趣向。

 とりあえず、SFファン必読なのは、火浦功の『火星のプリンセス』であろうか。
 と言っても、あの人が既に作家としてダメだということを確認する意味での「必読」と言うことだが。
 引用が簡単なので、全文を紹介しよう。

 『2001年宇宙の旅』火浦功
 「去年じゃん」
            おわり

 『火星のプリンセス』を書こうとあれこれ考えてるうちに〆切りが来ちゃったんで、こーゆーのを書いたそうです。
 ある意味こんなのを堂々と書けるという神経がスゴイんだが、1800円の定価のうち、30円くらいは返せと言いたい(-_-;)。

 山本弘さんの『宇宙をぼくの手の上に』、もちろんフレドリック・ブラウンの短編が元タイトルだが、ストーリーは一切原典と関係がない。
 読んでつまんなかったらどうしよう、と考えていたが、幸いそれは杞憂に終わった。
 書きだしが魅力的かどうかで、その作品が秀作かどうかの判断ができる、とはよく言われることだが、SF作品は特にその傾向が強い、というのが私の持論だ。
 冒頭の、「灰色のコートの刑事が私のアパートを訪ねてきたのは、高速シャトルシップ<ダート>が惑星シュードベリ1のトリポリウム採掘基地に到着した時だった。」、ここから既に「仕掛け」があるのに気づいて、思わずニヤリとした。。これはいわゆる「叙述のトリック」である。
 「刑事が私のアパートを訪ねてきた」時と、「シャトルシップが基地に到着した時」は、同一時間軸にはあっても、「世界」が違っていたのだ。よく読めば、「刑事」と「シャトル」の違和感からそのことに気づくのだが、さりげない筆致が効果的で、ミステリを読みなれてない人は結構引っかかってしまうだろう。上手いなあ。

 主人公の深宇宙探査船<セレストリアル>のキャプテン、「ジニ・ウェルナー」 ―― というのはネット上のハンドルネームで、本当はごく普通のOL、椎原ななみのアパートに、刑事が殺人事件の捜査に現われるところから物語は始まる。
 この刑事、ネットで同好の士を募ってリレー小説を書いているななみに対して、捜査そっちのけで「その歳でマンガのごっこ遊びは恥ずかしいんじゃありませんか?」なんてオタクに対する偏見丸出しの説教を始める。
 いるよな、パソコンやってる人間を勝手に「ヒキコモリ」と決めつけるヤツ(`´)。そりゃ、そういう人間も中にはいるんだろうが、全てのパソコンユーザーを十把ひとからげにして括りたがるのは、自分の理解の範疇の外にある人間を蔑むことで自己防衛を図ろうとするさもしいヤツの心理である。
 以前、私の務めてたとこの上司が全くこういう外道で、しかも職場の若い女の子にセクハラばかりしてやがったからなあ。なるほど、引きこもらないヤツは女にすぐ手が行くらしい(^o^)。
 このあたりの描写、山本さんもいろいろイヤな目に遭って来たんだろうなあ……( ̄-  ̄ ) 。
 それにしてもこの刑事、聞きこみの相手をムッとさせるような捜査してちゃ、刑事としてはヘボなんじゃないか。果ては生半可な知識で「ゲームだのインターネットだのに1日何時間も熱中してると、頭がバカになってくるんだそうですよ」と来たもんだ(例のトンデモ『ゲーム脳』論ですな)。仕事ほっぽらかして余計なこと言ってんじゃねえ。~凸(-~~- )。

 あとのストーリーをはしょって紹介するとこんな具合。
 刑事からななみは、彼女の主催する<セレストリアル>に参加していた少年、谷崎祐一郎(HN「ショウン」)が、殺人事件を起こして逃亡中の身であり、自殺の恐れもあることを聞く。谷崎少年は、自分をいじめてきた同級生たちを、思い余って殺してしまったのだ。
 彼女は初め、ネット上では優しくおとなしい「ショウン」がそんな殺人を犯すなど信じられなかった。しかし、それがいよいよ事実だと判ったとき、なんとか彼の命を救えないかと懸命に思案する。
 そして彼女の思いついた方法というのが、リレー小説の続き、危機に陥った宇宙船クルーの命を助ける展開ををショウンに書かせることだった。たとえ虚構の中であっても、誰かの命を救う行為に従事することが、現実の彼の自殺を思い留まらせることに繋がるのではないか……。
 このアイデアはいったんは効果をあげる。どこにいるかわからない谷崎少年は、「ショウン」として<セレストリアル>に書きこみを始めたのだ。
 それでも物語のなかに「自殺」を持ちこもうとするショウンの書きこみを見て、ほかのクルーたちは次々とショウンを救う手段を提案していく。その結果、ついにショウンは自首することを決意する。

 多分、私がこのアイデアで小説を書けば、ラストは悲惨なものになっていたと思う。谷崎少年、パソコン抱いたまま死んでるシーンで終わり、とか。
 山本さんのつけた結末は、一見すると「甘い」し「安易」だ。「現実には、そう、うまくいくわけないじゃん」と批判することも簡単だろう。
 けれど、それならば私がつけたようなアンハッピーエンドは、「甘く」もなく、「安易」でもない、と言いきれるのかどうか、と考えてみたらどうだろう。どうもね、それもやっぱり「現実」にだらしなく依拠しただけの「安易な」結末なんじゃないかな、という気がしてくるのだ。
 そのときになって初めて、山本さんの意図が、そしてこの小説の「価値」が見えてきた。
 確かに、ラストのアイデア、生体宇宙船である戦闘艦ドームズデイ・シップを「改心」させるために、クルーたちの全データを送信するというアイデアは、SF設定として面白くはあっても、理想的に過ぎる、という気はしないでもない。なんか映画『ウォーゲーム』の焼きなおしみたいだな、という感触もあるし。
 でもって、実際にジームズデイ・シップは、光り輝く純白の宇宙船に変貌し、戦闘艦としての呪いから解放されるのだが、ネットでの仮想現実とは言え、ご都合主義の謗りを受ける危険は充分にある。
 何より、こんなことで現実の谷崎少年が、自首する可能性は低いのではないか?

 けれど、やはりこの物語にアンハッピーエンドはふさわしくないのだ。
 実体のない言葉だけのやりとりに過ぎないと批判されることも多いネットの世界だが、ならばネット社会には全く希望は見出せないものなのか。
 ネットに居住する人全てが2ちゃんねらーであり(^_^;)、便所の落書き的意見の垂れ流ししかできないものなのか。
 そんなことを言い出すなら、そもそも人間どうしのコミュニケーション自体が、単なる本人どうしの思いこみに過ぎなくなってしまうのではないか?
 パソコンを通じて知り合った、顔も見えない人と人との間にも心の交流がありえる、と考えて、何が悪い?
 現実的、と言えば聞こえはいいが、ただニヒルを気取ってるだけで何一つ理想を語らない姿勢が、果たして何かを生み出すものなのだろうか。
 確かに、現実は甘くない。
 けれど、理想を語らぬ現実と、信頼や友情を熱く語る虚構のどちらが魅力的か、と問われれば、私は躊躇なく、後者である、と断言する。
 理想を語らない作家もいる。それはそれで、それがその作家の姿勢だから別に文句はつけない。けれど山本さんは「理想を語る」作家なのだ。なのに「あの人は理想を語りすぎる」という批判をすることは、そもそも的外れだろう。
 安易な自己犠牲で宇宙船クルーが死にまくる映画『アルマゲドン』に対する山本さんの怒りもここにはあるような気がするな(^o^)。

2002年01月13日(日) カメラ小僧にご用心/DVD『エコエコアザラク』/『ななか6/17』5巻(八神健)ほか
2001年01月13日(土) 正月の半ばに/『天才伝説 横山やすし』(小林信彦)



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