無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年01月13日(日) カメラ小僧にご用心/DVD『エコエコアザラク』/『ななか6/17』5巻(八神健)ほか

 しげとよしひと嬢、夜中の3時に撮影に出発。
 今しか時間がないということだが、風邪をひいてるってのにそりゃちょいとムチャだ。
 かと言って止められるものでもなし、しげにはトキワの「眠眠打破」、よしひと嬢には「エスタック滋養液」をあげる。
 まあ、これで少しは持ちゃあいいんだが。

 二人を送り出してひと寝入り。
 目覚めると9時過ぎで、今日も『アギト』を見逃した。
 ううん、最終回1回前だというのになあ。

 アニメ『コメットさん☆』第41回「タンバリン星国の誰かさん」。
 誰かさんって王子様だろうって野暮は言いっこなし。
 けど最終回1回前でいきなり別の王子様が現れたらタイヘンだな。
 先週は見逃したので、状況がよく分らないけれど、どうやらミラとカロン、ケースケの正体を知っていたらしい。
 ……どこにそんな伏線があった(^_^;)。まあ、毎週見てたわけじゃないからなんとも言えんけど。
 ケースケ=「タンバリン星国の誰か」の失われた輝きを捜すために、コメットさんは保育園など、自分が輝きと出会った人々の所へ連れて行く。
 けどここでちょっと気になるシーンがある。
 園児たちが粘土遊びをしている時、中の一人が突然泣き出して、「大きいの作りたいのに粘土が足りない」と駄々をこねる。すると先生がみんなに「誰か粘土を分けてあげて」と頼むのだ。
 ……普通、「わがまま言っちゃダメ」って叱らんか?
 いや、頭ごなしではなくとも、説得するのが当然だと思うんだが、子供のワガママにいちいち対処するのって躾にならんと思うんだが。
 多分これ、灰谷健次郎の『せんせいけらいになれ』に影響受けてんじゃないかなあ。できるだけ子供の自由にさせてやるのが個性を伸ばすことになるとかなんとか。でも実際にはある程度の制約がなければ子どもって考える力なくしちゃうんだが。
 コメットさんが男に変身して(でも結局ただの男装)、ケースケと男同士の話をしよう、という展開もちょっと安易だ。ラストに来て、ウチキリが響いて来たのかなあ。
 本筋とは関係ないけど、予告編のナレーションにビックリ。ムークが「これで故郷の妻と子に会える」……って、妻子持ちだったのかよ!?


 WOWOW『ノートルダムの鐘』見る。
 最近、著しく凋落の激しいディズニー。
 今度の『アトランティス』も、日米ともに興行成績が芳しくないらしいねえ。まあ、客を舐めきったような駄作を連発してりゃあ、それも当然な結果なんで、自業自得ってもんである。
 それでもこの『ノートルダム』は成績“だけ”はマシなほうだったんじゃないかな。一応、前作の『ライオン・キング』の余波があっただろうし。
 でも、実のところ、これがディズニー没落の原因の一つになったんじゃないかと私は勝手に邪推している。
 本作の原タイトルは“The Hunchback of Notre Dame”で、直訳すれば『ノートルダムの傴僂男』。ところが、オリジナルのオープニングタイトルにもちゃんと“Hunchback”と出るのに、日本公開版のみ、原題そのものまで改変して“The Bells of Notre Dame”としちゃったのは有名な話。
 こんな偽善的かつアホなマネさらしてるから、客が離れちゃうんだよ。
 元々、せむし男カジモドは、ロン・チャニーやチャールズ・ロートン、アンソニー・クインらが扮した由緒正しい“怪奇”映画の主人公として有名だった。けれど、意外や意外、原作は『レ・ミゼラブル』のビクトル・ユーゴーなんである。つまりこれって、堂々たるゴシックロマンの元祖なんだよね。
 それをまあ、よくもお花畑嗜好のディズニーが映画にしようと思ったものである。ある意味感動的だと言ってもいい。しかも悲劇的なラストで知られる原作を、ものの見事にハッピーエンドにしやがった。
 いや、これは果たしてハッピーエンドか?
 カジモドは幸せになれたのか?
 確かに鐘撞男は、その醜い容貌にもかかわらず、人々に受け入れられた。
 しかし、エスメラルダと結ばれたわけではなかった。
 真実、製作者が差別に対して怒りを覚えていたなら、この結末では決してカジモドの心の傷が癒されるものではないことに気づいただろう。カジモドはエスメラルダと愛し合えてこそ、幸福になれたはずなのである。
 だから逆に言えるのである。ディズニーはカジモドを人間として認めてなんかいないのだと。……だって、冒頭に描かれてたように、彼は所詮、「異教徒」なんだから。
 正直な話、見ていてむかついた。こんな馬鹿げた、唾棄すべき映画はない。ディズニーの語る「愛」は歪みに歪みきっているのだ。


 口直しに加藤夏季でも見ようと(^o^)、DVD『エコエコアザラク』見る。
 『ステーシー』の前に公開された、加藤夏季初主演作品だが、映画的な仕上がりは圧倒的に『エコエコ』のほうが上である。……ああ、けど、それって単に「比較すれば」ってことね。『ステーシー』がそれだけひどいってことなんで、『エコエコ』が「傑作」って言いたいわけじゃないのよ。

 加藤夏季が演じるのは、当然、主役である黒井ミサ。
 彼女が初めて「魔女」として目覚めるまでを描く、というのが今回の映像化のコンセプトだが、もちろんそんなのは原作にはない。
 第一、原作じゃミサの両親、ちゃんと今もいるし。
 この映画のように「覚醒」しつつあるミサのせいで両親が死に至る、なんて話にしちゃ、『エコエコ』らしくないんだよなあ。どこかホラーだけれどユーモラスな部分があったのもマンガの『エコエコ』の魅力だったんだから。
 それに、レイプされそうになったことがミサの魔力が覚醒したきっかけ、という設定も安易だよ。……『サルまん』の「イヤボーンの法則」そのまんまじゃんか。だから原作じゃ、そういうやつらを凝らしめるのはもうミサが魔力を自在に操れるようになった後ならいくらでも出てくる設定なんだよ。映画が原作から離れて、オリジナルでやりたかったんならやりたかったで、も少し頭ひねった設定は出て来なかったものか。
 それにさあ、世間がみんな「ミサが犯人か?」と疑ってるとき、未だ完全な覚醒に至らないミサが「私が殺したの……?」って涙ぐんでんだけど、見てるこちらは「そうだよお前が犯人だよ」って知ってるわけだから、同情のしようがないんだってば(-_-;)。
 脚本、『星空のむこうの国』の小林弘利じゃん。ああ、一人よがりなファンタジーばかり書いてるからこんなザツな脚本書いちゃうことになるんだな。

 けれどまあ、加藤夏季が恍惚の眼差しで虚空を見つめながら「エコエコアザラク……」と呟いてるのを見ると、やっぱ、思わずゾクっとしちゃうっスよ。
 十有五歳にして、ここまで妖艶な美をたたえる「魔」の魅力を表現しているとは、恐るべし加藤夏季。原作の古賀新一が、これだけ帳尻のあってない脚本なのに、加藤夏季を見て「ミサだ!」と言ったのも納得である。少なくとも鼻炎声の佐伯日菜子よりは遥かにミサらしい。……ああ、いや、佐伯日菜子のミサもそれはそれで嫌いじゃないけどね(何を弁解しているのかな)。
 それを引きたてる脇役陣に、光石研や蛍雪次朗ら、芸達者を揃えているのもいい演出だ。加藤夏季ファン以外にも、一応この映画は楽しめますよ、とは言っておこう。


 『サイボーグ009』第13話「倫敦(ロンドン)の霧」。
 話は「ほぼ」オリジナル。
 ……だって、007=グレート・ブリテンが、かつて自分が捨てた女の娘と出会う話なんだもの。日曜7時台になんちゅー生々しさか(^_^;)。
 タイトルの『ロンドンの霧』ってのは、グレートがかつて役者だった時代に最も得意としていた演目のこと。ところがその上演を前にして、グレートは、大劇場からのオファーというサクセスと引き替えに、同じ劇団員で恋人でもあったソフィーの前から立ち去ったのだ。
 ……あの、それはいいんですけど、グレートの恋人の名前、原作じゃオリビアなんですけど。細かいようだけど、一応オリジナルな展開で行くとしても、そういう基本設定そのものは大事にしてほしいんだけどね。004=アルベルト・ハインリヒの恋人がヒルダじゃなくてハンナとかアンネローゼだったりしたらファンは許さんでしょうに。
 しかもまた作画が間に合わなかったらしくって、一番感動的なシーンになるはずの、ソフィーの墓の前でグレートが娘のローザと語り合うところ、原画つないだだけのカットがボロボロ出てくる。
 DVDじゃちゃんとリメイクしてよね、頼むから(T.T)。
 けれど脚本は無理にブラック・ゴーストと絡めた展開を除けば(今回、ブラック・ゴーストを出す必要はない)、なかなか大胆で面白い。
 ローザはグレートに「私はあんたの娘じゃないわ、あの後ママはほかの男と結婚したの」とか言ってるけど、ホントにそうなら、わざわざグレートに墓参りさせる必要ないじゃんか。
 つまり、ローザは間違いなくグレートの娘なんである(多分スタッフは「あえて」そのことを認めんと思うが)。006とともにギャグ担当と思われがちな007だけど、やっぱり一番人生の悲哀を噛みしめて来てる「オトナ」なんだよなあ。……ああ、だからもっといい作画監督と演出と、チョーさん以外の役者を007に当ててくれ!
 なんつーか、イマイチ乗りが悪いんだよね、長島雄一。もっとも、それは作画が間に合ってないせいなのかもしれないけど。
 しげは『このまちだいすき』のチョーさん以来、彼のファンらしいんだけど、わしゃどうせギャグやってくれるんなら、007には「ナンタルチャ!」だけでなくって、「ミルクちゃん、大統領はさみしいダス」とか、楽屋オチくらいはやってほしかったけどねえ。いや、無理なのはわかってるけど。


 練習から帰ってきたしげと、ガストで食事。
 今日の撮影の話などを聞く。
 「あの例の『姫』の衣装を着て、撮影したわけ? 鴉丸さん」
 「そうだよ」
 「志賀島で?」
 「そうだってば。脚本にそう書いたのアンタやん」
 「ロケ地まで指定しちゃいないよ。なんかなあ、志賀島はなあ、イメージに合わないんだけどなあ。……雨も降ってたろう?」
 「合間に撮ったよ。でも今日しか時間取れないからしかたないやん」
 「……近くに人がいたら、面食らったろうなあ」
 「いたよ」
 「近所の人?」
 「うんにゃ。カメラマン」
 「……カメラマン? カメラマンって……何のカメラマン?」
 「しろうとカメラマンじゃないの? 『写真撮らせてください』って言うから『いいですよ』って」
 「なんでお前たちの写真なんか撮りたがったんだよ」
 「知らないよ。多分、風景でも撮りに来たけど、雨降ってるし、いい景色がないとこへ急に『姫』が現れたんで、撮りたくなったんじゃないの?」
 「撮りたくなるのか? コミケじゃあるまいし、カメラ小僧かそいつは」
 「だから知らないってば」
 なんだかなあ、仮にその人が普通のカメラマンだとして、なにかの展示場でその写真に「志賀島の日常」とかキャプション付けても誰も信じないだろうなあ。
 しかし、しげたち、よく断らなかったよな。
 「すみません、撮影はちょっと困るんですけど」と一言言えばいいだけなのに。
 もしかして、その写真がいろいろヨコシマなことに使われる可能性は考えなかったんだろうか。……こないだ私に姫のスカートが地面につかないように持ち上げさせたときには「めくるなよスケベ」とか言いやがったくせに。
 つーか、考えてみたらウチの劇団のメンツ、ほとんどみんな元(あるいは現)コスプレイヤーなんだよな。それはもうそれとしてナニされても承知の上ってことなのかもなあ。……ホントかよ(ーー;)。

 よしひと嬢、やっぱり2時ごろでダウンしてお帰りになったとか。
 うーむ、風邪引いてるのにわざわざ来て午前3時から雨降りの志賀島で撮影して更に練習って……そりゃ倒れるわな。
 インフルエンザも流行ってるみたいだし、こじらせなきゃいいんだけど。


 マンガ、八神健『ななか6/17』5巻(秋田書店・410円)。
 そろそろアニメ化の企画が立たないのか、『ななか』。
 嵐山の妹(純和風剣道少女)なんて、お約束テコ入れ&アニメ用キャラって感じがしてならんが。
 つまりはそろそろネタ的に煮詰まってきてるんである。
 前巻登場の稔二のライバルっぽかった女たらし御神渡は早々と退場、雨宮さんの稔二への告白もうまくごまかして、さして大きな「山」にはならなかった。
 今一歩のところで踏み混みが足りないんだよなあ。いい加減、周囲もななかに何が起こったのか気付いてもよさそうなもんだが。
 その、たまに覚醒する17歳のななか、どうやら6歳のななかとは別人格、と言うことらしい。するってーと、これは「幼児退行」ではなくて「多重人格」ってことになるわけだな。
 どうもこれも、後づけな設定のような気がしてならないんだが、連載もめでたく1年を経過して、「二人のななかの心のせめぎあい」でもうちょっと盛り上げようってことなんだろう。
 でも「どっちも同じななかだ」って陳腐なセリフを稔二が吐きそうでヤだなあ。『密リターンズ』の時もせっかくの設定をジャンプシステムの中で陳腐な対決モノにスライドさせられてった轍を踏まないでほしいんだけどね。

2001年01月13日(土) 正月の半ばに/『天才伝説 横山やすし』(小林信彦)



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