無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年01月13日(土) 正月の半ばに/『天才伝説 横山やすし』(小林信彦)

 特に記念日ではないが、書きたいことがドカンとあるので書く。うざったいと思う方もおろうが、自分とこのHPで遠慮したって仕方がない。うっかり読んで疲れた人は野良犬に噛まれたとでも思って諦めて下さい。

 やっと体調も安定。
 と言っても夜中に何度も目覚めてしまうのは昨日と変わらないのだが、原因が病気のせいではなく、隣で寝ている女房のイビキやエルボードロップのせいであるので、これはまあ仕方のないことであろう。
 おかげで二度寝三度寝をした末、朝4時にはもう眼が冴え冴えとしてしまった。仕方なくパソコンに向かい、昨日の日記などをつけたあと、あちこちのサイトを覗く。
 唐沢俊一さんが11日付けの日記で「笑いと差別」について論じている。「笑い」が必然的に差別性を内包していること、「差別はよくない」式のタテマエと「差別ってどうしてもしちゃうよな」というホンネとは実はどちらも人間社会では不可欠なものだということ、大まかに言えば、その二点についてコンパクトにまとめている。
 でも実際にはこのホンネ派とタテマエ派との間には、男と女の間以上に、暗くて深い川があるのである。ホンネ派が「差別はなくならない」と言えばタテマエ派が「貴様は差別を容認するのか!」と激昂するし、タテマエ派が「差別はなくせる」と言えばホンネ派が「そりゃ妄想だよ」と揶揄する。両者ともに、どうしても中庸に立てないのだ。
 したがって唐沢さんがどんなにその中庸を説いたところで、両者には馬耳東風にしかならないことは解りきっている。特にタテマエ派にとって、「差別撲滅」は自己のアイデンティティと深く関わっている場合が多いので、自説を絶対に曲げようとはしない。それを変にいじくって崩壊させてしまうと、パニックに陥ってしまいかねないのである。
 実は私の職場には、このタテマエ派の方々がゴマンといらっしゃるので、どちらかと言うとホンネ派の私は発言には常に注意しておかねばならないのだ。全員を敵に回して言葉で勝つ自信はあるが、あとで逆恨みされて村八分、つまり差別反対派から差別・迫害されまくるのは解りきっているので(^_^;)、できるだけ沈黙を守るようにしている。
 卑怯なやつだと思う方もあろうが、バカには勝てんのである。

 女房、7時になってようやく起きてくる。寝たのが夕べ10時ごろだから、まるまる9時間寝通し。人の体に青痣こさえといて、いい気なものである。

 朝7時、CSで『怪談おとし穴』を録画しながら見る。中身は現代版四谷怪談なのだが、主演が私の大のご贔屓、故・成田三樹夫。後年、TV『探偵物語』で「工藤ちゃ〜ん」の名ゼリフでコミカルな演技もこなしていたが、もともと徹底的に冷徹な悪役が似合う人だったのだ。TV『江戸を斬る 梓右近隠密帳』の由井正雪と映画『伊賀忍法帖』の果心居士の二つが私のフェイバリット・ミキオである。

 映画を見ながら友人にメールを書いていると、隣室にいた女房が、突然、「お願い、助けてぇぇぇ」と、気の抜けた声で私を呼ぶ。何事かと思って覗いて見ると、女房はDVDを見ながら、自分のHP用の『花嫁はエイリアン』のデータ作成をしている。映画の中に、過去の名作のシーンがいくつか挿入されているのだが、それらが何か解らず、嘆いていたのだ。
 「ねえ、これ何の映画か解る?」
 「ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンのキスシーンだな」
 「だから何?」
 「『カサブランカ』」
 「あ、ありがとう! 他のは?」
 「……なあ、おい」
 「何?」
 「エンドクレジット見りゃ、引用された映画全部わかるんじゃないか?」
 「……おお!」
 まあ、間抜けなやつだと知っちゃあいたが。でも『カサブランカ』くらいは分らないと演劇人としてちと恥ずかしいと思うがな。ちなみにあとの引用作品は『オペラハット』『泥棒成金』他でありました。

 女房、あれだけ寝ていながら、「眠い眠い」を連発して練習に出かける。
 朝食はカレースパゲティ。自宅で作るスパゲティは、ソフト麺に限る、が持論である。適度な固さに湯がくのが難しい棒麺に比べ、ソフト麺は少しくらい炒めるときに焦がしても、却って香ばしいくらいで、男の手料理には持ってこいだからである。麺は予め少量の焼肉のタレで炒めて下味をつけているので、インスタントのわりには味に深みが出て美味しい。
 あとでこの日記を女房が読んだら、「一人で美味いもの食いやがって」と怒るかもしれないが、自分だって外で美味いもの食うこともあるんだろうから、おあいこである。
 
 風呂に入り、昨日買ったばかりの歯ブラシで歯を磨く。毛先が山型、しかも柄が湾曲しているので歯にフィットして使い易い。この「柄を曲げる」ってアイデアだけでも特許を取ってるんだろうな。単純なことだが、最初に思いついたやつはやはりサスガとしか言いようがない。

 午前11時、郵便局を回り、博多駅の紀伊國屋へ。目的は夏目房之介『これから』だったが、つい他の本も物色。まあ、いつものことだけど。
 つい目が止まって、うっかり買ってしまったのが小林信彦『天才伝説 横山やすし』(文庫)である。ああ、単行本が出たとき、「どうせ文庫になるだろうな、で、マニアックな小林信彦のことだから後日判明したいろんな事柄を加筆したりするんだろうな、今買うと損するぞ」と思いつつ結局買っていたのに。案の定、加筆があり、森卓也の解説まで付いているのだ。こうして私は無駄に金を本屋に落としていく。ううう(T_T)。

 買いこんだ本を持って、早速マクドナルドでファンタを飲みながらまずは『天才伝説』を一読。
 以前単行本で読んだときにも思ったのだが、小林氏の「自分の見聞したことに基づいてしか書かない」という姿勢は、一見良心的だが、客観性を欠く場合も生じるという欠点を併せ持つ。東京人である小林氏には関西の芸人について書くことはもともと不慣れで、本当は本人もやりたくなかったのではないかと推察する。小林氏の『唐獅子株式会社』が横山やすし主演で映画化された関わりがなかったら、多分、小林氏の書く日本の喜劇史の中に「やすきよ」が登場することすらなかったのではないか。
 小林氏はまだしも、一般の東京人は関西芸人について驚くほど知らない。テレビ放送がないから仕方がないのだが、博多に住み、関東関西どちらの番組も平行して見ながら育ってきた私にしてみれば、東京人の無知ぶりは「それで『笑い』について語れるつもりか」と憤りたくなるほどだったのである。関東関西、どちらの笑いが上か、などという不毛な争いをしたくはないが、まずその存在を知らないことには話にならない。
 私が大学にいた頃、東京人で、松竹新喜劇、吉本新喜劇の存在を知らなかった人が殆どだった。
 漫才についてもそれは然りで、あの80年代の『花王名人劇場』を中心とした狂乱の漫才ブームが、例えば福岡ではそれ以前からのずっと「地続き」のものだと認識されていたのに対して、東京ではほぼ突発的かつ衝撃的に迎えられていたように思う。
 別に「やすきよ」は「漫才ブーム」で出て来た人ではないし、確かに「花王」で漫才のトリをよく務めてはいたが、関西漫才師のベスト、と地元の誰もに認められていたわけでもない。東京人がその辺を錯覚するのは、結局、「それ以前」を知らないからだろう。
 『天才伝説』の中にこんな笑える一節がある。
 1974年、大阪にいた小林氏が知人に誘われる。
  「『さ、ハザマ・カンペイを観に行きましょう』
   『ハザマ・カンペイって何ですか?』」
 小林氏にすれば、正直に自分の経験を語っただけだろうが、「1963年から大阪の芸能を見ている」わりにこの程度の認識だ。
 後年、吉本新喜劇が東京に進出し、間寛平の独特のボケぶりもようやく東京で知られるようになったが、彼の旬が20年前に終わっていることは関西以西ではとっくに分っていることだ。東京人は「カンペーちゃん」の残りカスを見て喜んでいるのである。
 いや、70年代当時ですら、間寛平は「カカ、カンニンナ、カンニンナ」などの一発芸で受けてはいたが、芸人としての評価は必ずしも高くなかった。吉本で言えば先輩だから当たり前なのだが、岡八郎・花紀京の芸の深みに敵うものはなかった。相方との絶妙の呼吸でこずるい悪党を演じたときの花紀京は、ルーティーンに見せつつ着実に観客の笑いをコントロールしていた。
 逆に間寛平はその全盛時ですら、舞台上でつい「素に戻って」笑いの間を外すことも多かった。彼の不幸はそんな場合も客にはウケていたことだ。他の吉本のメンバーに比べ、寛平が東京進出に出遅れたのは、芸ナシの自分をどう売るか模索していたからに他ならない。
 『天才伝説』の加筆の中で、小林氏が上岡龍太郎の「やすきよが漫才史の上で過大評価されている」という言を引き、「東京の人間にはなかなか漫才の歴史が掴めない」と書いているのも正直ではある。実際、あの漫才ブームの中で本当に実力があったのは、東京ではセント・ルイスとビートたけしだったろうが、関西では恐らく中田カウス・ボタンとオール阪神・巨人である。
 ただ、カウス・ボタンの芸は実にテレビの電波に乗りにくい。ビートたけしの毒舌は「批評」であるが、カウスの芸は詐欺師・犯罪者を体現して見せるので、「こいつ、ほんまやっとるんちゃうか」と一瞬錯覚してしまうのである。「やすきよ」よりやや後輩ということもあったのだろうが、評価の高さに比べ、テレビの露出度は少なかった。
 花紀京やカウスの芸を見ている人間にとってはビートたけしの悪党ぶりもそれほどショッキングではない。私がビートたけしに驚嘆したのはその毒舌に対してではなく、相方を無視し間を外しても「狂気」でそれを補い漫才を成立させている点にあったのだ。
 『天才伝説』、解説の森卓也氏は名古屋人、小林氏よりは関西芸能に詳しい。まるで小林氏の無知の間隙を埋めるかのようにエピソードを語っていくあたりも面白いが、要はその批評のし方だ。
 「全盛期の時、きよしは、もっちゃりした個性を生かし、全速で飛ばすやすしと観客の間をつなぐ役廻りをしていた」
 この「もっちゃり」という表現が小林氏にはできない。森氏は、これらのエピソードをいくら紹介しても「全て小林信彦に収斂される」と謙遜しているが、だったら最初から書かねばよいので、これはヨイショである(^_^;)。全く、食えないジイさんであることだ。

 エドワード・ゴーリー『ギャシュリークラムのちびっ子たち』読む。
 内容は現代版マザー・グース『10人の小さな黒ん坊』と言えばいいだろうか、ただ淡々とアルファベットにのせて子供たちが次々と死んでいく。当然その数26人(^o^)、しかもそれだけでオチはない。いやあ、あっさりしてて小気味いいなあ。ゴーリーの絵本、『うろんな客』『優雅に叱責する自転車』と三冊しか邦訳されてないのがもどかしい。もっと読みたいぞ!
 でもこの本、置いてあったのがしっかり子供用の絵本コーナー。おいおい、いいのか紀伊國屋。

 帰宅して便所掃除すると、もう4時。女房に電話をして5時半に待ち合わせして映画を見ることにする。
 それまでにたまっていたビデオを少しは消化してみようと、先週から始まっているNHK教育ドラマ愛の詩シリーズの『幻のペンフレンド2001』第一回を見る。
 ビデオテープが残っていないために、往年の少年ドラマシリーズは全て名作であるかのように思われているが、リアルタイムで見ていた私にすれば、本当に名作と言えるのはせいぜい数本である。
 大体、ドシロウト同然の新人中高生を使ってドラマ作りしてるのだ。そうそう傑作揃いになるはずはない。特撮のチープさは、当時においてすら何考えてんだNHKと言いたくなるくらいで、例えば合成は必ずと言っていいくらい「ズレ」ていた。
 それでも私が欠かさず見ていたのは、かわいい女の子が出ていたからである(おいおい)。まあクラスに一人くらいはいるちょっと美少女ってレベルなんだけどさ、それが却って身近で、思春期の私はドキドキものだったのだ。
 今回の谷口紗耶香と加藤夏希の両ヒロインも若かりし頃なら燃えていたであろうかわいらしさである。さあ、果たして全12回録画しきれるか。

 聞けば、NHK少年ドラマシリーズ、好事家の間に残されていたものがDVD化されるとか。
 第一弾はなんとあの『タイムトラベラー』最終回! 後に原田知世、南野陽子、内田有紀、中川奈奈とヒロインを代えて映像化され続けた筒井康隆『時をかける少女』の初映像化作品である。30代後半から40代にかけての世代にとっては主人公の芳山和子といえば島田淳子(浅野真弓)であり、たとえ『ウルトラマン80』で眼の下にクマ作って現れようが、グラビアでヌードになろうが、永遠のヒロインなのである。
 このほかにもこのシリーズは、池上季美子、上原ゆかり、伊豆田依子、斎藤とも子、杉田かおる、紺野美沙子、古手川祐子と、数多くの美少女を輩出してきた。その全てが見られぬとしても、一部だけでもこの21世紀に復活するとは、なんと幸福なことであろうか。

 そうこうしているうちに待ち合わせの時間。慌ててバスに乗り込むが、ズボンをうっかりはき忘れてしまい、慌ててタクシーで引き返す。おかげで時間に15分遅れてしまった。理由を話したら女房に「パンツいっちょだったの?」と聞かれる。んなわけあるか。ジャージだよ。

 新しくできたお好み焼き屋でヤキソバを食べたあと、シネリーブルで『独立少年合唱団』を見る。ベルリン映画際で新人賞、と聞いていたので、相当感動的な話なのか、と思っていたら、これがヤオイ一歩手前の大怪作。
 「ボクがキミでもいいじゃないか。キミはボク、ボクはキミだよ」
 ……よかないわい。
 予告編の段階で女房は「ヤオイの話だねえ」と言っていて、私は「そんな馬鹿なことがあるか」と一笑に伏していたのだが、まさか女房の直観が当たるとは(-_-;)。さすがのよしひと嬢も「趣味に合わない」と言っていたが、男の私はひたすら気持ちが悪いだけだった。

 帰宅して『キカイダー』最終回と『幻のペンフレンド』第二回を見る。
 今回のシリーズ、何か物足りないな、と思っていたら、ロボットは出てきても、下っ端の戦闘員が全く登場しなかったのだ。まあ「ダーク、ダーク」と叫びながら迫ってくるのもアニメじゃやりにくかろうが、おかげでダーク基地の巨大感がちっとも出ていないのであった。残念。
 『幻ペン』、主人公の兄貴が「レトロ趣味」というのがおじさん世代と若者をつなぐ設定として秀逸。脚本は寺山修司の天井桟敷にいた人だとか。これから結構面白い展開を見せてくれそうで楽しみである。



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