無責任賛歌
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2002年12月24日(火) |
ノロい呪い……座布団取っちまいなさい(^_^;)/『桃色サバス』7巻(中津賢也)/『蟲師』3巻(漆原友紀) |
さて、これはトンデモ本関連の話題ということになるかな。 オーストラリア・メルボルンのモナッシュ大学のマーク・ネルソン氏が、英医学誌に、「ツタンカーメンの呪いはデッチアゲだった!」と発表。 1922年、墓を開けたメンバー25人全員の死亡日を調査・特定したところ、平均で70歳ぐらいまで生きていたとのこと。 でもそれって既に『トンデモ超常現象99の真相』に書いてなかったかなあ。今さらって気がするけどねえ。 だいたい、この「ファラオの呪い」っての、オカルト事件の中じゃあ、もともと一番信憑性のないネタだったんである。私がこの事件を知ったのは、多分、小学生のころ買ってた学習雑誌のオカルト特集を読んだのだろうと思うが、その時点で「呪い」とするにはちょっとムリがあるなあ、と思わざるをえないものだったのである。 発掘の直後に死んだのって、出資者のカーナボン卿一人だけだし、肝心の発掘者であるハワード・カーター自身が結構長生きしている。1874年生まれで、発掘時は既に48歳。しかし死んだのが1939年、65歳の時で、発掘から17年も経っている。随分遅効性の呪いもあったものだ、と苦笑したものだった。
でも記事をよく読むと、今回の発表は、「呪いの否定」そのものより、「誰がこのデッチアゲを仕掛けたか」ということを暴く目的のもののようだった。 言われてみればあまりにもありきたり、仕掛け人はマスメディアだったのである。 ネルソン氏は、「英タイムズ紙が発掘について独占報道したため、歴史的発見から締め出されたライバル新聞社が呪いの話をでっち上げたのはほぼ間違いない」と主張。新聞記事にあった「『王の平穏を乱す者には早い死が訪れる』という呪いの言葉が墓に彫り込まれていた」というような記録は全くなかったのだそうだ。 ……なんだか女に捨てられた男がストーカーするのとたいして変わらん心理だよなあ。新聞にジャーナリストとしての矜持があるというのは真っ赤なウソで、どこの国でもいつの時代でも、新聞その他のマスメディアは大衆を愚弄し、権力に阿り、自らの思想を過信し、狂っているのである。
先日買い損ねていたDVDを買いに、博多駅の紀伊國屋に行く。 『プリンセス・チュチュ』のDVD第1巻なのだが、本来25日の発売予定だったものを、天神ベスト電機のLIMBでは21日の時点で既に店頭販売していたのである。 予約を入れていたのは紀伊國屋の方だったので、当然こちらも売っているものと、取りに行ったところ、「24日にならないと出ない」と断られたのだ。 「でもベスト電機ではもう売ってましたよ?」 「それは規約違反です!」 ……まあ、そうなのかもしれないけれど、既にあるものを出さずに隠しておくことの方が客をバカにしてると思うがな。
マンガ、中津賢也『桃色サバス』7巻(完結/少年画報社文庫・620円)。 まあ、ラストは『ネジ式』ですな。こういう話は予定調和で終わるしかないので、意外性がないからって別に怒りません。 今まで出し惜しみしてたカゴメのヌードもたっぷり登場、ナニも出来たし、まさしく大団円である。 でも私としてはvol.103「黄金色に輝いて」のように、「ただひたすらウンコをガマンするだけの話」のような徹底的に下らないギャグの方が好きだったりするんだが(^o^)。ギャグに気品は要らんのよ。
マンガ、漆原友紀『蟲師』3巻(講談社/アフタヌーンKC・560円)。 うわあ、こんなに早く3巻が出た……と思ったら、掲載誌を移籍してて、執筆のペースが早まったせいなんだね(『アフタヌーンシーズン増刊』から『アフタヌーン』本誌へ)。こりゃてっきり作品の質も落ちちゃいないかと心配したんだけれど、そんなことはない。作品によっては、「まだこれほどのレベルのものが書けたか」と舌を巻くほどの完成度。才能というのはこういうものを言うのだよ。 オビには大友克洋の『幻想と郷愁が静かに語られ、心に沁む作品です』の推薦文も。うーん、一般的には大友さんが誉めると「箔が付く」って感覚なんだろうなあ。私ゃ逆に、Dr.オートモに誉められても「贅肉が付く」だけじゃないかとしか思わないが。「こんなに太れる!」……さあ、何人がこのギャグ覚えてるか(^o^)。 『錆の鳴く聲』(「錆」はホントは旧字体)。 カラーページ付きである。この色遣いがまた素晴らしいんで、できれば1巻もカラー付きで再販してほしいくらいだ。 本作のヒロイン・しげの歌う聲は、「小柄な体に似つかわしくない、太くかすれた、けれど、甘く渋みのある残響を持つ、不可思議な響きの声」である。その声が人の体に目に見えぬ「錆」を涌かせ、村人たちの四肢を不自由にしていく。そのことに気付いたしげは、自らの声を封印するが、村人たちは自分達の病の原因がしげにあることに薄々気付いている……。 緊張感あるなあ。 『蟲師』はどの話もどこかに人間同士のディスコミュニケーションがあり、それは果たして越えることのできない壁であるのか、という問いかけがある。何しろしげの声は生来のものだ。自分自身の努力でどうにかできるものではない。人を傷つけたくなくても、自然に傷つけてしまわずにはいられないのである。だから、しげはこれまで「詫びる」ことでしか生きてこられなかった。 読者はしげを哀れむか? そうではないだろう、「人を傷つけずにはいられない」というのは、人間の持つ「業」であるからだ。意図せず人を傷つけたことのある人ならば、しげの悲しみの重さと、それに耐えようとする健気さが理解できるはずだ。我々はみな、しげと同じように「罪の十字架」を背負っているのであり、たとえ救われる日が来なくてもやはり生きていかなければならない存在なのである。 しげが救われるのはある意味では偶然である。 もしかしたら、しげはあのまま村人たちに責められ、殺されていたかもしれない。しかしそうだとしてもしげは決して村人たちを恨んだりはしなかったに違いない。 その力強さが我々を勇気付けてくれるのだ。
もう一つ、このマンガについて触れておきたいことは、「音」の表現についてである。 マンガで「音楽」を表現することの難しさを、昔、『サルまん』で竹熊健太郎は語っていたが、そりゃ楽譜で表せるような音楽を伝えることはムリに決まっている。いくら背景に音符を書きこんだって、楽譜を読めない人にはただの落書きにしか見えやしない。 ではマンガに「音」を伝える能力が全くないのかと言うと、そんなことはない。文学の神髄が「詩」であり、楽譜が存在しなくとも「詩」が単独で「音楽」でありえるように、マンガもまた読者の脳に働きかけて「音楽」を喚起する力があるのである。 そこで、「錆が涌く声」という設定の素晴らしさについて考えてみたいのだ。 いったい、みなさんは「錆」の涌く声というものがどのような声なのか、想像がつくだろうか? 「花」が咲く声でもなければ、「虫」が涌く声でもない。そんなのは「きれいな声だろうな」「汚い声だろうな」というだけのことで、我々の想像力を少しも刺激しない。 しげの声は、人々を病に陥れ、そしてまた人々を救う声でもある。善でもなく悪でもなく、幸福と不幸をともに内包した、まさしく「神秘」の声である。こんな「声」は想像の中にしか存在しえない。実際の楽曲で表せるものではない。だがしかし、我々はしげの声が「蟲」となって山々や村々を経巡るのを見たとき、確かに彼女の「声」を聞くのである。 これが「マンガ」だ。マンガによってしか表現できないものだ。 しげの声は村を救ってのち、変質する。 「潰れ果てたが奇妙に美しい聞き覚えのある唄声」に。恐らく読者もみな、その声を聞き、その美しさに気付くことだろう。
一つの短編にいちいちこんなに長々と書いてちゃいつまで経っても終わらないのでほかのはごく簡単に(^_^;)。 『海境(うなさか)より』。 二年半前、沖に出て妻をもやのような蟲に取りこまれた男・シロウ。 時を経て、彼はまた沖にあの時の「もや」を見る。 澁澤龍彦なども小説の題材に使った「うつほ舟」伝説をモチーフに、「浅茅が宿」的夫婦の情愛を描く。 異界が現世と違う時間が流れていることは、お伽話にはよくある設定だが、それを「不幸」としてではなく「せめてもの救い」として捉えた好編である。
『重い実』。 凶作の年ほど豊作になる奇妙な村。村人はそれを「別れ作」と呼び、「豊作の代償に『弱い者』がご先祖さまに取られる」と口々に言う。 贄の印は、口内に生える「瑞歯」。そして今年、瑞歯が生えた男は、この村に豊作をもたらしたはずの祭主だった。 「永遠の生命」をモチーフにした物語は数あるが、これほどに美しい物語は珍しい。萩尾望都の『ポーの一族』、諸星大二郎の『暗黒神話』、あさりよしとおの『ワッハマン』(^o^)に並ぶ傑作だろう。大地が永遠であるならば、永遠の命も決して恐れることはないのではないだろうか。
『硯に住む白』。 硯師のたがねが作った硯は、彼女の婚約者を殺し、持ち主を次々に死に至らしめていく。そして今度は蔵の中にしまわれた硯をいたずらした子供達が病にかかって……。 今巻では一番オーソドックスな妖怪退治ものかな。もちろんこれもよくできた短編なんだけれども、ほかのが傑作揃いだと印象が薄くなってしまうのがなんとももったいない。 『旅をする沼』に登場した収集家・化野(あだしの)先生の再登場、かつ失敗談としても楽しめる一編。
『眇(すがめ)の魚(うお)』。 「すがめ」とは片目、めっかち、あるいは斜視、やぶにらみのこと。「すがめで見る」という言い方をした時には「横目で見る」という意味になる。昔、差別語に指定されたこともあったが、みんなが使わなくなったら差別語であることも忘れ去られた(^o^)。おかげでこうして堂々とタイトルに使われました。 なんと「蟲師」ギンコの誕生編(カラーページ付き)。ギンコって本名じゃなかったんだね。「ギンコ」は「銀蠱」だとわかったけれど、本名の「ヨキ」ってのは「斧」って意味かなあ。 岩崩で母を失った物売りの息子・ヨキは、森に住む片目の女、ぬいに拾われる。ぬいはかつて「蟲師」を生業としていたのだが、ある時「トコヤミ」に夫と子供を捕われた。それ以来、その「トコヤミ」の住む池のそばに六年も住み続けているのだという。 「こんな恐ろしい蟲、どうして生かしておくんだよ」 ヨキの詰問にぬいは静かに答える。 「畏れや怒りに目を眩まされるな。皆、ただそれぞれがあるようにあるだけ。逃れられるモノからは知恵ある我々が逃れればいい。蟲師とは、ずっとはるか古来からその術を探してきた者達だ」 「蟲師」の時代設定が今からやや昔に設定されているのは、現代の我々が「あるようにある」ものを否定しているからではないか。口では「偏見をなくそう」と言いつつ、他人の欠陥を、世の闇を忌み嫌う人間のいかに多いことか。 醜いもの、汚れたもの、奇妙なもの、狂ったもの、害をなすもの、それらもまたこの世界を構成する一つのものではないのか。「蟲」はその象徴である。そして「蟲」を心の内に潜ませていない人間は誰一人いないだろう。 ヨキは銀蠱に出会う。トコヤミの底に住む目のない魚に。そしてトコヤミから出て再び現世の光を見るために、片目と記憶を失う。闇から抜け出すためにはなんでもいい、思いつく名を自分の名とすればいい。 そして、そのときからヨキは「ギンコ」となった。 ギンコもまた、いつかはトコヤミに飲まれる日が来るのかもしれない。それが「蟲」を見続ける者たちの宿命であるなら。ギンコは「再び会おう」と約束した人達とももう会えないのだろうか。 でも、いや、だからこそギンコは蟲たちを見続ける。自らが「あるようにある」ために。
短く書くつもりがまた長くなっちまったな。いや、これもいつものこと。 でも実はこれでも全然書きたりないのだ。こういうのはいったいどういう蟲に取り憑かれてるんだろうね?
しげ、クリスマスイブだというのに外出である。 なんでも職場の人たちとパーティーをするという。 「冷蔵庫にケーキ入れてるから、店が終わるころに持ってきてくれん?」 「店が終わるころっていつだよ」 「さあ、12時過ぎるかも」 「自分で取りに来いよ! 明日オレ仕事だよ!」 全く、自分は甘えて当然って顔して、ヒトの都合は全く考えないのである。 結局、私が寝てる間にケーキは取りに来たらしい。 最初からそうしろ。
2001年12月24日(月) イブの焼肉/DVD『三毛猫ホームズの推理』/『シベリア超特急』ほか 2000年12月24日(日) 昼寝したので今日の休日は短かった/『ルパン三世』7集(山上正月)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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