無責任賛歌
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2002年12月18日(水) |
つらいよねえ、やっぱり/『“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期』(デイヴ・ペルザー作/田栗美奈子訳) |
ちょっと楽しい話題から。 東京書籍発行の中学教科書『新しい社会 公民』の記述の中で、新潟県中里村の「雪国はつらつ条例」を「雪国はつらいよ条例」と誤記していたことが判明。 もちろん東京書籍は来年度用の教科書では修正する措置を取ったそうだが、村の方は「雪を克服しようとしているのに、まったく逆のイメージが広まってしまった」とカンカンに怒ってるそうだ。 村が怒るのは当然だけれど、申し訳ないことにこういうニュースは大好きである。文部科学省もこのミスに気がつかなかつたってんだから痛快じゃないの。 原因はパソコンへの入力ミスということで、打ちこんだ人も多分「雪国はツライよ」と信じきっていたに違いないね。だってさあ、「南国はツライよ」とか「常夏はつらいよ」とかじゃあイメージが結びつかなくて誤記のしようがないもの。これが「雪国」だからしっかりハマっちゃったのである。 それにヒドイ話ではあるが、これで「はつらつ条例」はかえって有名になったんじゃない? こういう事件がない限り私だってそんなん知る機会なかったと思うし。怒るほどマイナスイメージにはなってないと思うけどなあ。雪国の人がはつらつとしてるってんなら、こういうミスも笑って赦してやるくらいの度量があったらよかったと思うんだけど、どうかね。 それにしても「条例」とは言ってるけど、具体的にはどんなこと記してあるのかねえ。「第一章・雪国人は雪国人としての誇りを持たねばならない」とか? 「第二章・雪国人は雪との平和的な共存を図り、雪だるま・カマクラ・雪合戦などの雪国文化を後世に伝えるべく努力すべし」とか。 雪国の商工会議所のあちこちにこれが張られてて、みんな朝礼で唱和してから仕事にかかるんだよ、きっと。 せっかくだから「ホントはこうです」って宣伝すればいいのにねえ。どうも役所ってとこはアタマが固くてイカンよねえ。
珍しいことはウチでも起こるという話。 仕事帰り、迎えに来たしげが愚痴を言う。 「今日、水漏れがあったんよ」 「なにそれ」 「上の階の洗濯機の配管が壊れてて、天井から水が漏れてきたと」 「それでどしたん」 「仕方ないから管理会社に電話して直してもらった」 「直ったんならいいやん」 「よくないよ、工事の人がくるまで、管理会社の人とずっと世間話しなきゃならなかったんだから」 「なんて?」 「『本やビデオがたくさんありますねー』とか、『ガンダム』見つけて『ファンでしたー』とか『イデオンがどうの』とか」。 どうやら結構オタクな兄ちゃんだったらしい。 そういう会話は確かにしげは苦手だろうが、それも世間との付き合い方の勉強になるというものだ。 帰宅して見ると、なるほど、天井にヒビが入っていて、水が漏れた跡がある。洗面器を置いてあるのが昔の貧乏長屋の風景みたいだ。あと数センチずれていたら、DVDプレイヤーにかかっていたところで、危機一髪であった。 これの修繕費、当然タダなんだろうな。
今日もしげは早出だと言うので一緒の食事はなし。 昨日同様、ほっかほっか亭で新発売のガーリックチキン弁当を頼んで食う。こちらの方が昨日のテリヤキより好み。 新製品に飛び付く、というより、もともと私は定食屋などでも一通りメニューを制覇しないと気が収まらない性格なのである。 同じものしか頼まないしげと趣味が合わないのも仕方ないか。
デイヴ・ペルザー作・田栗美奈子訳『“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期』(ソニー・マガジンズ/ヴィレッジブックス・650円)。 ベストセラーの文庫化。 作者自身がいかに母親から虐待を受けて来たかって経験を語っているだけだから、本来ツッコミの入れようもないはずなんだけれど、一人称の伝記というのは、ともすれば客観性を失う危険を秘めている。 読んでいて母親の折檻の異常さ、特にデヴィッドを風呂場に閉じ込めてガスで苦しめるなんてのは戦慄ものなんだけれど、そういう描写を読まされるたびにどうにも疑問が涌きあがって、素直に「かわいそう」とか「ひどいなあ」とか思えなくなってしまうのである。つまり、母親の虐待の動機が全く語られない点、それと父親の見て見ぬフリ、この二点が引っかかって、なかなか読み進められないのである。 もちろん、子供であるデヴィッドにもそれはわからない。彼はいつの間にかどういうわけか兄弟三人のうちたった一人だけ、虐待され始めたのだ。彼が考えていたことは、現実に目の前にある虐待という事実からいかに逃げるかということだけで、「どうして自分が?」と思う余裕すらなかったのである。 読者は受け入れるしかない。 親は子を憎み、殴り、刺し、虐待し続けるものなのだと。父親の放置も緩やかな虐待であろう。 なぜそんなことをするのかと両親に聞いても、恐らく彼ら自身、答えられないだろう。本当は、理由などないのだから。親が子を愛するのに理由がないように。
私もかつて、子供のころ、父親から「虐待」と言ってもいい折檻を受けたことがしばしばあった。難しいのは、一方で父親に熱愛されたことも間違いない事実として認識していることだ。この矛盾をどう理解すればいいのか? 母親は私に「お父さんはアンタのことがすごく好きだから、自分の思い通りに育ってくれないのが悔しいんよ」と説明した。 だからってなあ、殺そうとまでするかなあ。酔っ払ったオヤジに鉄板でアタマ殴られたこともあるんだぞ(私は事故で頭蓋骨にヒビが入っているので、ショックで死ぬ危険もあったのである)。親は子にそんなことまでするのか。いや、酔っ払ってるからこそ本性が現われたのかもしれないが。 子供のころの私にとって父親は恐怖の対象であった。父と話ができるようになってきたのは皮肉なことに父が病気で老いさらばえてきてからである。今ならケンカして私が負ける心配はない。
デヴィッドの母親がデヴィッドを憎んで虐待していたのか、それはわからない。あるいはそれが母親の歪んだ愛情の形だったのかもしれないとも思う。それで死んでしまう子も存在するとしても、やはりそれは「愛情」としか言えない場合もあるのだ。 愛情なんて、もともと人と人を繋ぐものとしては極めて不確定かつ危険なものである。移ろいやすく、アテにならない場合も多い。「家族の絆は愛情」とか、能天気に言い放って平気でいられる人間が多いのは、実は潜在意識の奥底で、その絆が簡単に解けることを知っていて、リセットの準備をしているのではなかろうか。 でなきゃ、どうしてこんなに欧米でも日本でも離婚率が高くなっているのか? 子を育てるシステムとして、「個人個人の愛情によって結ばれた家族」というのは、実は極めて持ちが弱いのである。『オトナ帝国の逆襲』でしんちゃんは「ずっとみんなといたいから」と叫んだが、実は原作マンガでは「ずっといっしょ? それもちょっとな」と現実的なことを言っている。ハタチを過ぎても親元から離れないパラサイト・シングルが増えている状況を、果たして「家族の絆」などという甘いコトバで語れるのか? 疑問が膨らんでしまうのは、デヴィッドの母親は、息子を一生自分の手元から離すまいと思っていたのではないか、という気がするからである。デヴィッドがオトナになって「自立」すれば、自分の行為が白日のもとに晒されるのである。そうならないようにする意図がなければ、どうしてあれほどの虐待を続けられものだろうか。母親は「虐待」という絆で、デヴィッドとの永遠の関係を夢見ていたようにすら思える。実際にデヴィッドは、その虐待される関係から抜けだし、救いを求めることがずっとできなかったのだ。 これが悲劇でなくてなんであろう。 子供って、できるだけ早く自立させるもんだと思うんだけれど、違うかね。少なくとも「優しさ」とか「思いやり」とか「気遣い」とか「助け合い」が「強制」される世の中って、すごく気持ちが悪いと思うんだけど、どうかな。
2001年12月18日(火) バラゴンには女の人が入ってるんだよ/映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』ほか 2000年12月18日(月) もしかしたらあなたも覗かれてるかも/『だから声優やめられない!』(山寺宏一)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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