無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年10月25日(金) 巨とか貧とか実はさほど気にしてない。ホントよ/『敬虔な幼子』(エドワード・ゴーリー)/ドラマ『時をかける少女』(内田有紀版)ほか

 私がとある劇団の代表みたいなものをやってることはこの日記の読者でいらっしゃれば先刻ご承知であろうが、その辺の付き合いもあって、ほかの演劇関係者と会話をすることがある。
 ちょっと差し障りがあるので、どこの誰とは言えないのだが、今日、ある役者の女の子とお喋りする機会があった。その子と知りあったのは別に演劇関係の場所ではなかったのだが、役者独特のオーラを発していたので、すぐにそれと知れた(^o^)。長年、その道にいると同族はピンと来るものである。演劇関係者とオタクは特に。本職の関係者は全く分らないんだけどね(^_^;)。
 その子は役者をやりながら、イラストなんぞも描いていて、某ゲーム雑誌に投稿して常連さんになっているとか。ネットでもあるHNで徘徊していて、プロのマンガ家の方々ともやりとりをしているのだそうな。どうやら役者よりもそちら方面でタツキを立てて行きたいらしく、役者を辞めてしまうのはチトもったいないのだが、それはまあ、その子の選んだ道だから仕方がない。
 それにしても演劇やってる女の子って、やたらオタクが多いが、某サイトで近頃話題になっていた「独身オタクが結婚するためにはヤンキーになればいい」というネタ、そんなハードなハードルを越えるようなことをせんでも、芝居をやればいいのである。女の子は余るくらいいるし、別にこちらが節を屈せずとも、相手は既にオタクだ。何をためらうことがあろうか。
 もちろん、そんなオタクにとって天国のような環境であっても、問題がないわけではない。つまり、天国なものだから、たいていの女の子は早々と誰ぞのお手つきになってしまうのである(「差し障り」と言った意味の一端をご理解頂けただろうか)。
 けれど大丈夫。熱しやすく冷めやすいの例え通り、芝居やってる女の子は、様々な役を演じて様々な恋を経験するように、私生活でも一人のオトコに飽きたらまた次のオトコに乗り返るのである。そのココロとココロの隙間を狙えば、独身でお悩みのアナタでもチョイといいカモが……。
 ちょっと話がヤバくなってきたな(いつものことだが)。本気に取る人があると困るので、「これは冗談です」とちゃんと言っておこう(^_^;)。ね、言いましたからね、「冗談」だと。仮にアナタが役者の女の子にコナかけて手ひどくフラレたとしても、当方は一切関知しませんので悪しからず。

 役者としてのその子は、実は男役しかしたことがない。タッパが高い、ということもあるのだが、実はその、ご本人には悪いのだが超絶的にムネがないのである(これもまた「差し障り」の一つとお考え頂きたい)。
 演劇仲間のもう一人の女の子に、今日、その子がムネのことでからかわれたのである(ちなみにもう一人の子は超絶的にムネが「ある」)。と言っても、会話の口火を切ったのは私であるが。
 「女の子は大変だよなあ。土台骨格が違うんだから、男役になるのは無理があるし、ムネにサラシ巻かなきゃなんないし」
 途端にムネあり子が(^o^)、
 「あ、でもこいつなんか簡単ですよ(と例のムネなし子を指差して)、そのまんま男役できますから」
 私が慌てて「……それセクハラ発言じゃ……」と言いかけたら、ムネなし子が堂々とないムネを張って、言ったのである。
 「自慢じゃないが、サラシを巻いたことなど一度もないっ!」
 ……そりゃ確かに自慢にならんのとちゃうか。っつーか、何を言い放ってるんだか。

 それにしても、役者っていいなあ、と思うのはこういう肉体的なハンデ(と言っていいのかどうか)を逆に武器にできるところだと思うのである。チビにはチビの、デブにはデブの需要というものがちゃんとある。映画やドラマが美男美女ばかりで作られていたらこんな味気ないものはない。ブスの中にあってこそ美人は映えるのであって、美人女優ばかり集めたらドラマが派手になるかと言えばさにあらず、かえって地味になってしまうものなのだ。
 だから役者は常に自分を客観的に見ていなければならないし、「私ブスでよかったわ、だってブスの役が出来るんですもの」くらいの気概は欲しい。というか、そういう心構えなくして役者ができるはずもない。
 おかげで芝居の現場ではタブーとなる言葉は極めて少ない。端から見れば「ナニを話しとんじゃ」と言いたいくらいアブない言葉が飛びかったりしてるときもあるが、それが「自由」ということでもあるのである。

 思わず「いいねえ、『ムネなし』なんて言葉でも自由に言い合えて」と呟いたら、ムネなし子は冷ややかに言ったのである。
 「あ、男が言ったら腹立ちます。凸(`、´メ)」
 あ……さいですか(・・;)。
 

 一昨日、博多駅で本を買いこんだばかりだけれど、まだ買い損ねてる本があったので、天神を回る。しげはまた「疲れてるから」と付き合わない。
 やっぱさー、近所の小ぢんまりした本屋じゃなくてさー、フロアーがどど〜っと向こうの壁が見えないくらい続いててさー、そういうとこで本棚をいつまでもいつまでもいつまでもボケ〜っと眺めてるのが好きなんだけど、それはしげも同じだろうとは思うが、ペースがやっぱり微妙に違うんだろうな。ペースを合わせるためにはある程度相手を「忘れる」技術が必要なのだが、不安神経症のしげにはそれが一番苦手である。
 いや、しげだって結構私のことを忘れることはあると思うが、忘れてしまうことが自分が忘れられることに繋がるんじゃないかと思ってしまうのだろう。「忘れたらまた思い出せばいいじゃん」と気持ちを切り替えられればいいんだろうけど、しげがそういった心の修業ができるようになるまで後何年かかるのであろうか。
 福家書店で本、LIMBでDVD。
 LIMBが店内の模様替えをしていて、以前は奥まったところに階段があって、そこにアニメコーナーがあったのだが、フロア全体がフラットになっていて、アニメも棚の1コーナー、という形になっている。もしかして万引き対策か、これ。確かに以前はアニメのコーナーって陰に隠れてて暗かったんで、明るくなったのは改善されたと言っていいのかもしれない。けど、いかにもオタクな連中が狭い空間で肩寄せ合ってた以前の雰囲気も嫌いじゃなかったんだが、店にとっては迷惑だったんだろうな(^o^)。
 旧『刑事コロンボ』DVDシリーズは、今月にて完結。未見の作品も二、三混じっているので、一気に見るのはもったいない。チビチビ見て行こう。


 『プリンセスチュチュ』11.AKT 「ラ・シルフィード」。
 さあ、いよいよ最終回までカウントダウンだ。
 チュチュへの想いが募るみゅうとは、エデルさんから受け取った美しいペンダントをチュチュに贈りたいと思う。しかしそのペンダントにはクレールの呪いが……。
 その事実を知らないまま、あひるは、チュチュに変身してみゅうとの前に現れる。ペンダントをみゅうとがチュチュに手渡した途端、チュチュはペンダントの「呪い」にとらわれ身動きができなくなる。
 クレールはおもむろにみゅうとの胸から「愛する心」を抜きとって……。
 サブタイトルの「シルフィード」ってのは風の精ジルフスのことだけれど(ゲーテや小栗虫太郎読んでるとこっちの名前のほうがピンと来るのよ)、バレエ曲の『ラ・シルフィード』から取ったものだろう。婚約者があるにもかかわらず風の精に恋した少年が、それと知らずにシルフィードに呪いをかけてしまい、彼女を殺してしまうお話。チュチュが呪いをかけられるシチュエーションはそのままだが、その呪いの正体はクレールの「嫉妬」。
 いやあ、怖いわこの設定。「誰かのものになるくらいなら心をなくしてしまったほうがいい」ってクレールのセリフ、恋愛ものにはよくあるセリフだけれど、人形のように戻ってしまったみゅうとを背中から抱きしめながら言ってる姿見てるとマジで怖い。
 って似たようなセリフ、昔誰ぞに言われた気が……ああ、いやいや(^_^;)。
 ともかく来週に注目だ!(なに怖がってるのか)


 エドワード・ゴーリー(柴田元幸訳)『敬虔な幼子(The pious infant)』(河出書房新社・1050円)。
 柴田氏の解説にもある通り、物語は一見、信心深い子供がその信仰活動の末に天に召されたお涙頂戴話のようなのだけれども、どうも一筋縄でいかないというか、そう単純に理解するわけにはいかないような雰囲気が漂っているのは、ゴーリー作品についてはいつもながらのこと。
 本来この作品は、本国では「レジーナ・ダウディ」の変名で出版されたものだが、ラストのイラストの墓標に、しっかり「E・G」と作者ゴーリーのイニシャルが刻まれているところに彼の「したたかさ」が見て取れる。

1,三歳になって間もなく、ヘンリー・クランプ坊やは、自分の心が邪であること、にもかかわらず神様は彼を愛し給うことを知りました。
2,坊やはじきに、多くの聖句や聖歌を覚えて、いつも一人で唱えておりました。
3,あるとき波間から鴎が舞い上がるのを見た坊やは、「御覧、あれを!」と妹のファニー・イライザに言いました。「僕が死んだら、あの鳥のように天に昇るんだよ」
4,貧しい不信心者が邪神にひれ伏さぬよう小銭を恵んでやろうと、坊やは日々お菓子も食べずに過ごしました。
5,両親を心から愛し、自分に何か出来ることはないかと、朝に夕に訊ねておりました。
6,優しい善良な坊やでしたが、時に悪魔に誘惑されてしまうこともありました。けれどそんな時も、己の罪をひしひしと感じて、やがて心から悔いるのでした。
7.坊やが階上で一人跪いて祈る姿が、よく見受けられたものでした。
8,ある日曜日、氷滑りをしている男の子たちを見かけて寄って行き、「何と浅ましい、聖書も読まず安息日を無為に過ごすとは!」と窘めました。
9,妹のファニー・イライザをたいそう可愛がり、妹が癇癪を起こすたびに、この子の魂が果たして救われるだろうかと、深く憂うのでした。
10,書物に目を通しては、神の名が軽々しく触れられているたびに、念入りに塗り潰したものでした。
11,四歳になって五か月が過ぎたある冬の午後、坊やは自分のパンプディングを、恵まれない未亡人の許へ届けに出かけました。
12,帰り道、大きな黒雲が現われて、大粒の雹が激しく降ってきました。
13,その夜、坊やの喉が痛み出し、翌朝にはそれが命取りの病となっておりました。
14,今際の際に、「神様は僕を愛してくださり、僕の罪をすべて許してくださいました。僕は幸せです!」と坊やは言って、枕に頭を横たえたました。顔からは血の気が失せ、その身は二度と動きませんでした。
15,ヘンリー・クランプの小さな体は墓の中で土に還りましたが、魂は神の御許に昇って行きました。」

 これまでの柴田さんの訳は、我田引水的か、あるいはよく意味が分らないままに適当に訳してる印象があって好きになれなかったのだが、今回は特に難しい言葉もなかったのかまあまあの出来。
 それでも、“he fell back pale and still and dead”を「枕に頭を横たえたました。顔からは血の気が失せ、その身は二度と動きませんでした」なんて訳すのは粉飾のし過ぎだし、言語のテンポを無視してるなあと思う。「枕」なんて単語、どこにもないぞ。言語のムードはもっとあっさりと「坊やは青ざめて静かになって死にました」って感じじゃないのかね。

 それにしても、このヘンリー・クランプ坊や、側にいたら絶対ヤなやつだと思う。イラストを見れば分るが、両親は初めこそ坊やをニコニコと見つめているが、だんだん関わらなくなっていき、坊やが喉を押さえてても背中を見せて無視するようになるのである。消極的な子殺しの話ですな(^o^)。
 坊やの押しつけがましいところや説教グセ、妹を猫かわいがりするとことか寒さで死ぬとこなんか、やたらと宮澤賢治にイメージがかぶるんだが、敬虔な宗教者って、洋の東西を問わず似ちゃうものなんだろうなあ。「僕が死んだら、あの鳥のように天に昇るんだよ」って、ほかの人間は救われないってか。独善的なやつほど自分の独善性には気がつかないってことの典型である。
 結局これって、「宗教にハマったやつはさっさと神様に責任を取って引き取ってもらおう」って話じゃないのかね(^_^;)。でもこの絵本が秀逸なのは、宗教者自身がこれを読んだら、まず100%、「ああ、ステキな話だねえ」と勘違いするだろうってことだ。「いい人って早死にするものなのよねえ」とかなんとか言いながらな。
 まあ現世のことは悪人に任せて、いい人はどんどん天国に行って頂きたいものである(^o^)。


 昨日ツタヤで借りてきた1994年CX版『時をかける少女』を見る。
 今見るとキャストがすげえ豪華だ。
  内田有紀…芳山和子(都立羽田西高校二年生。バスケットボール部部員)
  袴田吉彦…深町一夫(和子の同級生)
  河相我聞…浅倉吾朗(和子の幼なじみの同級生で実家は銭湯)
  森本レオ…芳山勉(和子の父で空港の整備士)
  吉沢京子…芳山静江(和子の母)
  安室奈美恵…芳山美代子(和子の妹)
  佐藤B作…福島隆司(和子の担任。バスケットボール部の顧問)
  森口瑤子…小松沙織(羽田西高校の英語教師)
  筒井康隆…藤原正道(和子の家の近所の寺の住職)
 ドラマは、初め、教室で福島先生が問題を当てるために座席表を見て行くシーンから始まる。このときのカメラワークがスバラシイ。佐藤B作の指の動きと目線の移動、内田有紀が振り返る顔、机を追って後ろに移動するカメラ、そして最後尾の席には……。いやあ、リキ入ってるわ。南野陽子版のクソぶりに比べると「ただのテレビドラマには終わらせない」ってスタッフの気概が見られるね。
 内田有紀は声が上ずる癖はあるが熱演。原田知世の弓道着姿もよかつたけれど、内田有紀の体操着姿もいいぞ。とりみきさんがこれにもハマっちゃったってのはよく分る。
 それに、大林宣彦監督版を強く意識しているドラマ造りになっているのは見方によってはマイナスポイントだろうが、設定が細かく付与されてリアリティが増してる分、よくなってるところも多々ある。特に、真相を知った和子が一端は一夫を拒絶するのはいい演出である。記憶を勝手に操作されてるのに、それでも「好き」って言えるようになるまでには、やっぱりある程度悩むプロセスが必要だよね。ラストが未来の和子を描くのも大林版と同じだけど、安易に一夫を再登場させなかったセンスも個人的には大林版より上に思える。
 ただ、福島先生と小松先生の不倫話と、筒井康隆のゲスト出演は余計だったな。やっぱ関西訛り抜けてないし、ヘタだよ、筒井さん(^_^;)。それから手と手を繋いで超空間を飛ぶのはハズいからやめようね。f(^^;) ポリポリ。
 さあ、あと見てない『時かけ』は、中本奈奈版と安倍なつみ&「モーニング娘。」版だけだ! って、見なきゃならんのかよ。

 『乱歩 妖しい女たち』と『金田一少年の事件簿・魔術列車殺人事件』についてはもう書いてる元気がない。『乱歩』はそのうちコーナー作る気でいるから感想はそのときでいいや。『金田一』は鈴木杏の可愛さを見るためだけに借りたので、ま、あんなもんだということで(^o^)。

2001年10月25日(木) わが名はロドリゲス/映画『眠狂四郎人肌蜘蛛』『旗本退屈男 江戸城罷り通る』ほか
2000年10月25日(水) 今日は三度も昼寝した。やっぱ体変だわ/『冬の教室』(大塚英志)ほか



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