無責任賛歌
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2002年07月17日(水) |
それさえも平穏な日々/『脱ゴーマニズム宣言』(上杉聰)/『潜水艦スーパー99』(松本零士)ほか |
朝、目覚めたときには、空はカラリと晴れていたのである。 いつものように、冷蔵庫を開けて牛乳を飲む。 いつものように、便所で血便を搾り出す。 いつものように、しげのロドリゲスに乗りこんで、職場まで運んでもらう。 ここまではなんの変哲もない一日の始まりであった。
車から降りて、職場の玄関の階段を上ろうとした途端、それは起こった。 そのとき、私は窓を背にしていたのだが、それでも一瞬、世界がまっ白になったのを感じた。 閃光。 間髪を置かず轟音が空気をつんざく。 まさに青天の霹靂だった。 思わず階段からコケ落ちそうになったが、なんとか踏み止まった。振り帰ると窓の外は突然の豪雨、それこそ「雨が降る」なんてレベルじゃない、水滴どころか濁流が天から降り注いでいる。 職場のあちこちから悲鳴が聞こえる。突然の雷鳴は、大地震に見舞われたかと錯覚するほどのショックを我々に与えた。 向後10分ほどは仕事にならなかったね。
とはいえ、これも典型的な夏の通り雨で、午後になるころにはウソのようにカラッと晴れあがっちゃったのだが、ふと気づいたのは、なぜこんな突然の気象の変化が起きるのか、その物理法則を全く知らないってことである。 いやね、雨が空気中の水蒸気が重くなって降ってくるって理屈はわかるよ、けど、なんでこう、いきなりドバッと降ってくるのか。まるでホントに空にカミナリ様がいてだよ、雲をギュウッと雑巾搾ったみたいなんだよね、これだけ一気に、しかも大量に落ちて来るんだから。正しいリクツよりなにより、そういう「手作業」が空で行われたと言われたほうが、感覚的には納得できてしまうのだ。
京極夏彦みたいなことを言ってしまいそうになるが、つまりは「妖怪」の類は文化的には「実在」しているのだ。科学的な知識がどんなに増え、それが常識になろうと、我々は目の前にあるもの、実際に耳にしたもの、触れたものを実態と感じるようにできている。そしてその感覚に従ったほうが、実は我々は幸せなのではないか、という気持ちにもなってくる。 地球が太陽の周りを回ってるんじゃないよ、太陽が地球を回ってるんだよ。 人間は神様が作ったんだよ、類人猿から進化したんじゃないんだよ。 生半可に科学の知識があると、かえって、西原理恵子が電車やバスの中で飛び上がっても置いてかれないのはなぜ? なんてことで一生悩むハメになるのである。 「愚か」であることが「徳」であるとは、そういうことなのだろう。 それにしても、この豪雨の中、ロドリゲスで帰るしげは大変だろうな、と思っていたのだが、実際、前もほとんど見えない状態だったらしい。それでもなんとかウチに帰りつきはしたものの、途中、山と山の谷間の坂道が水没して、車が動けずに困ってたそうな。 ……って、職場からその坂道に差し掛かるまで、掛かっても7、8分のはずだ。そんな短時間で水没。どれほどの豪雨だったか、分ろうというものだ。 しげ、迎えに来た車の中で、「あんたのせいでひどい目にあった」と悪態をつく。 「なんでオレのせいになるんだよ、天災だろ? 当たるなよ」 「アンタに当たらんで誰に当たるん」 「誰にも当たらなきゃいいだろ!」 ……やっぱりいつもの会話である。
晩飯はどうしようか、の問いに、しげ、またしても「王将かめしや丼」と答える。私はもうナゲヤリである。 「いいよ、もう、めしや丼で」 「なん、好かんとやなかったと?」 「好かんでも行くとやろ? だったらもうオレ、メニューの右端から順番に食ってくからいいよ、それで」 「なん、それ」 しげ、声を出さずにぐふふと笑っているが、バリエーションのない外食ほどつまらないものはない。せめてしげが買い物や後片付けしてくれる程度の手伝いをしてくれるんなら、毎日違ったメニューの食事を作ってやるくらいのことはするんだが。……って、既にしげに料理を作らせようという発想がなくなってるなあ(-_-;)。 で、めしや丼でこないだ食ったメシの隣にあったのは「ウナギ定食」なのであった。しげはチキン南蛮定食。しょっちゅうこればっかり食ってるが、よく飽きねえよなあ。美味しいと感じる味覚が多分、通常の人間の十分の一程度しかないのだろう。
しげ、またもや私が作ったブレンド茶に文句をつけ始める。 苦くて飲めないというのだが、苦いのがお茶だ。こいつはカレーライスの甘口ですら「辛い」と文句つけるやつだから、お茶の微妙な味わいなど分るはずもない。 「美味いじゃん、グァバ茶」 と言っても、いっかな受け付けようとしない。 「グァバ茶以外のお茶を作ったら教えて」と言う。 「ワガママだよ、オマエの」と言い返すと、 「オレだってアンタに煮え湯を飲まされてるんだからね」と反駁。 「……ちょっと待て、なんだよその『煮え湯を飲まされる』っての。言葉の使い方が変だろ?」 「違ってないよ、ホントに『煮え湯』飲まされとうっちゃけんね」 「いつだよ、言ってみろよ!」 子供の喧嘩である。
しげから今朝見た夢の話を聞く。 私も最近よく変な夢を見てはいるのだが、起きるとたいてい忘れている。私以上に記憶力のないしげはそれこそすぐに忘れてしまうのだが、今日はたまたま覚えていたそうな。 「あのね、ビールを注いでいたら、足りなくなって、樽買いすることにしたと」 それだけ言って、しげ、にこにこ笑っている。いつまで経っても続きがしげの口から出て来ないので、シビレを切らして問い返す。 「……で?」 「それだけ」 「……そんなん聞いてどうしろってんだよ!」 誰か、しげとどうやったら会話できるか、教えてください(T∇T)。
今年の新作ゴジラが『ゴジラ×メカゴジラ』になることは聞いていたが、その正式な製作発表が16日に行われた。 ヒロインはなんと釈由美子である。こりゃ、『修羅雪姫』の熱演が買われたのかもな。驚いたのは、そのコメント。 「この役が来るまでゴジラを見たことがなくて最初は実感がわきませんでしたが、過去の25作全部を見て、なんてすごい大作なんだろうと思いました」 いや、驚いたのはゴジラ映画を今まで一本も見たことがない、ということではない。若い世代の女の子ならそれも仕方がないことだ。それより役作りのためかもしれないが、過去の全作を見たってことだ。当たり前と言えば当たり前なんだけれど、実際にはそこまでするアイドルはあまりいないぞ。しょっちゅう天然みたいに言われてる釈由美子だけれど、意外に根性あるんじゃないか。 ゴジラシリーズのヒロインって、昔の「右往左往タイプ」からだんだん「戦うヒロイン」に移行してきているけど、前作がイマイチだっただけに、もしかしたら今回゛一つの頂点を極めることになるかもしれない。 いや、ヒロインだけ期待しても仕方ないって文句ある人も多いと思うけどね、じゃあ、他にナニに期待して見に行くっていうのよ(^_^;)。
アニメ『ヒカルの碁』第四十局『白星の行方』。 ヒカル対伊角の対局、決着編だけれど、どうも伊角の作画が冴えない。 今回も主要スタッフは外注っぽいな。原作の人気を越える作画や演出をしていくのが大変なのは分るけれど、プロ試験中の作画なんだから、もう少し気を入れてほしいものである。
CSチャンネルNECOで映画『どら平太』を再見。 全く、何度見てもイマイチだなあ。いい役者といい演出だったら、ずっと面白くなるのに、この脚本。市川崑監督、撮り方がとことん暗いよ。これはもっと明るくさっぱり撮らないと。
上杉聰『脱ゴーマニズム宣言 新装改訂版 小林よしのりの「慰安婦」問題』(東方出版・1260円)。 「出版差し止めにはなったんだから勝訴だ」と小林さんが言いはっていた例の批判本だけれど、改変していた部分をもとに戻して再出版したのだから、もう小林さんのほうはもう一度この本を訴えても勝ち目はない。さて、今度は小林さんはどう言い訳をするつもりだろうか(多分しないだろうけれど)。 著作権法におけるマンガの引用権が明確に認められた点については、この判決はもう諸手をあげて賛同を示したいことだ。小林さんの『新ゴーマニズム宣言』での反論はもう支離滅裂、常軌を逸していると言われてもしかたがない慌てぶりだったものね。それもしかたがないところで、この本、小林さんの慰安婦についての論がことごとくいい加減で、資料の誤読、牽強付会ぶりをいちいち指摘していてそれが実に的を射ているからだ。これに再反論するのはなかなか難しいわなあ。
では、本論である「慰安婦」問題についてはどうか。 小林さんの(他にも同じこと言ってる人いるけど)「慰安婦は商行為」という論理は、たとえそれを認めたとしても補償の対象にならないとは言えないだろう。商売してても、使用人がヒドイ待遇受けてたら補償せにゃならんでしょうに(^_^;)。 それに「軍の関与はなかった」というのは当時を知ってる人が聞けば一笑に伏すしかない暴論。もとからそこに娼館があったのならともかく、軍部が来ることになって建設し、軍人しかそこを利用してなくて、行軍にも付いて行かせたんだから、軍の関与がないわけないじゃんか。まだ生きてる人がいるんだから、こういうすぐバレるウソをついちゃいかんよねえ。 と言うことで、同じ博多出身で身贔屓したい小林さんではあるけれど、慰安婦問題に関しては小林さんの意見に賛同はしがたいのである。
けれどじゃあ、上野さんの意見に全面賛成、というかというと、そうでもないのだ。論理が破綻している点では、実は上野さんの文章も相当ヒドイ。 例えば、肖像権の問題について、「公的場にいる安倍(英)氏のような者が表現の対象となることは許されるべきだ。しかし、私的な一個人を描く場合には、おのずと限度というものがある」と主張するのはそりゃそうだと思う。けれど、その「私的な一個人」の例として、川田龍平、佐川一政、麻原彰晃、梶村太一郎、佐高信、糸圭(すが)秀実、西部邁、鳩山由紀夫を挙げてるのはどういうわけなのか? この中に一人でも「私的な一個人」がいるのか? もともと、この上野さんは小林さんを自分たちの陣営に取り込もうとして失敗した左翼の人だから、イデオロギー先行の思考をするところが多々あって、このあたりの論理の破綻も、まずは「小林批判」をしなければならないってアタマがあって、よく言葉を吟味しないで論を組みたてたための齟齬だろうと思われる。私ゃ左翼の人達が本気で慰安婦問題を考えてるとは到底思えない状況を知ってるので、こういう我田引水な文章にぶち当たると、またかい、と思っちゃうのだな。
細かい批判をしていったらこれもキリがないから、総論的に言っちゃうけど、「従軍慰安婦」と言うのは当然いたのである。否定のしようもない事実であり、日本の罪だ。それは間違いない。 では、カミングアウトした朝鮮人慰安婦への国家補償がなぜできないかと言うと、これもちゃんと歴史を知っている人間なら自明のことなのだ。それは別に「補償はもう終わった」ってことじゃなくて、それをやりだすと「日本人慰安婦の補償はどうなるか」って問題が浮上しちゃうからなんだよねえ。 日本のおばあちゃんたちの中には、今もなお、あのころの慰安婦たちが生きていて、それをカミングアウトしないまま暮らしているのである。もう過去の傷に触れてほしくないと思っている彼女たちに、周囲に悟られないように補償だけをするというのは不可能なことだ。日本人慰安婦への補償が始まれば、当然、好奇と偏見の目に晒されることになる。そんな目に会うくらいなら、黙って死んでいったほうがいい、そう考えるのが日本人の精神性なのである。白黒ハッキリさせないと気がすまない朝鮮人の精神性とは天と地ほども違う。 日本、朝鮮双方の意志を満足させられる方法は存在しない。だから、よくないことは分っていても、日本人への補償ができないように、朝鮮人への補償もできないのだ。どんなに非道であっても、国としての立場はそんなものだ。 朝鮮人に憎まれることを覚悟の上で補償を拒絶せざるをえないのは、日本という国が未来永劫贖罪できないまま背負って行くしかない業なのである。 「なら、朝鮮人にだけ補償して、日本人はほっとけ」と言いだすヤツもたまにいるけど、そうなるとこれがもう戦後補償や差別や迫害云々の問題ではなくて、単に日本に「復讐」したいって低劣なレベルの主張でしかないことが顕在化しちゃうよね。それはやっぱりしちゃいけないことなんだよ。 誤解を招きそうだから、これもハッキリ書いておくけど、私は「朝鮮人慰安婦に補償をするな」と言いたいのではないのだ。補償はしようよ、やったことはやったことなんだから。国にできないことなら、「民間補償」しか手はない、そう考えてるんである。日本人なら、そのことはすぐに見当がつきそうなものなのだが、それでもあくまで「国家補償でなきゃダメ」って主張する人たちがいるんだよねえ。それは、やっぱり「左」の方々なんであって、イデオロギーや政治的な立場で発言してるだけなのである。そのことを隠して、「善意」を振りかざしている上野さんの偽善性が、私はどうにも好きになれない。 やっぱり「小林よしのりに賛成する人間も反対する人間もトンデモ」って法則は成り立っちゃうんだねえ。
マンガ、松本零士『潜水艦スーパー99』(秋田文庫・760円)。 どっひゃあああ! まさかこんな「古典」まで文庫で復活とは、長生きはするもんである。なんたって初出が1964年の『冒険王』だよ。この日記読んでる人で、連載読んでた人間、どれだけいるって言うんだ。私だって連載時には読んでない。子供のころ“貸本屋”で当時の単行本、サンデーコミックス全二冊を10円で借りて読んだ。ははは、ざっと30年前ですな。 松本零士と言えば『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』と思いこんでる若いファン(と言ってもそれすらオタクん中じゃ旧世代になっちゃってるけどよ)には「松本零士って海洋モノも描いてたの?」とびっくりした方もおられるでしょうが、私たちの世代には、『ヤマト』以前にはこっちのほうが松本さんの代表作だったんですよ。しかも当時、海洋モノでは小沢さとるという大御所がいらっしゃって、『青の6号』『サブマリン707』と傑作を連発してたんで、松本さんの『スーパー99』はどうしても二番煎じの印象が強かった。 松本さんがブレイクしたのはむしろ『男おいどん』のような四畳半モノで、初期のSFものはことごとくコケてたんですよ。そのころの印象が強いもので、私などはどうしても松本さんはSF作家としては二線級、と思いこんじゃってたんですね(ホントは『ヤマビコ13号』のような傑作を描いてたんですけれど子供のころは知らなかった)。 『ヤマト』の本放送だって、第1話見て、「なんだ、『スーパー99』のリメイクじゃん」と思って、最終回まで見なかった(今でも『ヤマト』はたいした作品とは思っていない)。松本さんって凄いなあ、と考えを改めるようになったのは、その代表作たる『男おいどん』をSF化した『銀河鉄道999』を読んでからなのだね。イヤハヤ、松本さん以外の誰に、「大宇宙の大四畳半」なんて呆れたイメージを思い付けるものか。
『スーパー99』に話を戻せば、実際、ストーリー展開や細かい設定、ネーミングなどに、後の『ヤマト』のモチーフとなったものが随所に見られる。西崎義展との原作者争いで負けちゃったのが不思議なくらいである(まあ、『ヤマト』を宇宙に飛ばすってアイデアは西崎さんのだから、しかたないけどね)。 ナチス・ドイツの流れを汲み世界征服を企む秘密組織・ヘルメット党の侵略から地上を守るために、科学者である父の開発した新造潜水艦スーパー99に乗り込む少年、沖ススム。誰かと誰かを合体させたような名前だけど、こっちのほうが当然元祖(^o^)。「侵略者を撃て」ってのは定番だとしても、敵はやっぱりドイツ系になるんですねえ。昔から思ってたことだけど、ドイツ人が『ヤマト』や『銀英伝』見たら本気で怒りゃしないか(『銀河英雄伝説』のドイツ語タイトルのスペルが間違ってて、ドイツ人から『銀河狼伝説』になってたという指摘があったことはなにかで読んだことがあったが)。 総統の名前がルドルフ・ヘチだなんてのも、もう少し工夫のしようはなかったのかって文句つけられそうだけれど、60年代のマンガ家のネーミングセンスは概してこんなもんなんだよね。 けれど冒険モノとしては定番なだけに、古い作品であるにもかかわらず前半は読んでて実に面白い。分割潜水艦なんてアイデア、今でも使えるよ。けれど、後半ラスト近く、「真の敵は海底人ゼスだった」なんてムリヤリな展開にしたのはいただけない。必然性もないし、しかももともと地上侵略の意志はなく、人類とは共存したかったというのだから、敵に設定する意味もない。物語を完結させようとするとボロが出る松本さんの悪いクセもこのころから現れていたのである(^o^)。
2001年07月17日(火) 何年ぶりかの酒の味/『水木しげる貸本漫画傑作選 悪魔くん』上下巻
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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