無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年07月06日(土) 理想の正論より現実の暴論/映画『スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃』

 休日だが出張。
 もっとも午後からなので、午前中はゆっくり寝られる……って、また病院に行き損なっちまったい。金曜の夜に出歩くと、やっぱり翌日は疲れ切っているのである。けど、医者にはマジでそろそろ行っとかないと、薬だけはもらっているものの、検査は2ヶ月近くサボってるんである。これはちょっとヤバいかも。
 最近、左手の指先が痺れてるんで、もしかしたらいよいよ糖尿の合併症が表れてきたのかもしれない。単に横になって寝てたせいで腕が痺れただけかもしれんが、まあ年齢的にもそろそろ可能性はある。
 働けなくなったらホントに覚悟するしかないんだけれども、また入院するようになったら、今度は個室を頼もう。もちろん、パソコンを持ちこんで、この日記を継続するためである。その前にノートパソコンを買って、使い方を覚えにゃならんが。


 出張と言っても、中味は会議。
 しかも私はメインではなくて、職場の若い女の子の付き添いみたいなものである。実際、用向きの内容っつーか、会議で何を話し合うのかもよく知らない。いいのかそれで(^_^;)……って、この出張自体、私はいきなり代理を頼まれただけなので、知らないのも当たり前なんだが。
 付き添いとは言っても、あいにく彼女も車の免許は持っていない。さて、どうやって行けばいいだろう? 出張先までの距離を考えると、電車やバスは時間がかかり過ぎて使えない。早めに出かければいいじゃないかと言われそうだが、午前中は彼女も用事があって、昼過ぎにならないと抜けられないのである。タクシー代くらい、職場が出してくれたってよさそうなものだが、ウチの職場はそういうところはとことんケチである。まあ、値段を考えたら、これはケチられても仕方がない額だが。
 で、結局、しげに車で送ってもらうように頼む。
 「なんでアンタの仕事を私が手伝わんといかんと?」
 と、しげは至極マットウな正論を述べるが、ここは暴論に従うしかない。「理想の正論より現実の暴論」。なんかこれも格言っぽくていいな(^o^)。最近格言づいてるのか。もっとも、こういう場合は「立ってるものなら親でも使え」とか、「猫の手も借りたい」とか、「○○とハサミも使いよう」とか、そんなのの方が妥当な気はするが。

 初対面の他人を乗せてしかも初めての道を通るのだから、しげ、運転には相当緊張したらしい。おかげでいつもの1.2倍くらいスピードが増している。
 いやあ、しげの車に乗ると、カーブがホントに楽しいなあ! 遊園地でゴーカートに乗ってるみたいだ(←皮肉だよ皮肉)。
 しかも、ナビしてもナビしてもやたら道を間違えやがるし。
 「その三つ先の信号の○○○って角を右に曲がって……」
 「○○○だね?」
 「うん、○○○」
 で、実際にその角まで来ると、「今、○○○ってとこだけど、ここは真っ直ぐだね?」
 「うん……って違うよ!『そこを曲がる』って言ったじゃんか!」
 「そういうことは早く言ってよ!」
 「言ったよ!」
 そんな調子で、更に渋滞にも引っかかったが、不思議にも出張先に到着したのが定刻の30分前。結果よければなんとやらだが、後部席に乗ってた彼女はなんと思ってたことやら。
 つまんなくて無駄の多い会議が終わったのが夕方の4時。
 この後、しげと食事でもするかと連絡を入れるが、「帰って来ぃよ」と一言だけ。
 「食事とかはせんでいいんかね?」と聞くが、やっぱり、「いいから帰って来ぃ」としか答えない。何となく腑に落ちない感じだが、文句をつけても仕方がないので、帰りは電車で博多駅まで戻り、そこで女の子と別れる。紀伊國屋で新刊を物色していったんバスで帰宅。
 ウチに入ると、しげは横になって、うでっと寝ている。……なんだ、「早く帰って来い」って、要するに疲れてるからすぐに外に出る気にはなれなかったってことかい。
 寝るんだったらしゃあないな、今日も映画は諦めるか、と思って、私もゆっくりするつもりで風呂に入ったその途端に、しげがバタバタとけたたましい音を立てて、風呂場まで駆けて来る。
 「ね、券どこ!」
 「……券って……何の券?」
 「映画の! 割引券!」
 「……前売券のこと? こないだ買った『スター・ウォーズ』の」
 「うん、それ! どこ!?」
 「ポケットの中だよ」
 「どこの!?」
 「背広の! サイフの中! そこに入れたの、オマエも見てたろ?!」
 「見てたけど直前に確認しとかんと、不安やん!」
 「オマエが自分で自分を不安に追いこんでるだけだろが! ……って、『直前』って何?」
 「大急ぎで行けば、『スター・ウォーズ』、間に合うよ!」
 「……なら、映画館で待ち合わせしとけばよかったやんか!」


 AMCキャナルシティ13にて、映画『スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃(STAR WARS EPISODE 2 ATTACK OF THE CLONS)』。
 原題に忠実になってるせいではあるけれど、邦題が長いね。
 日本では書誌的・記録的な意味もあって、一度決めた邦題が後で変更されることはなかなかない。だから『スターウォーズ エピソード4 新たなる希望』という映画は存在せず、『スターウォーズ』という映画があるだけなのだが、シリーズ邦題を並べてみるとどうにも座りが悪い。これくらいは過去の作品名を変更したって構わないのではないか。

 以前にも日記に書いたような気がしないでもないが、もう忘れているので、改めて邦題のつけ方について書いてみる。
 邦題のセンスにも時代による感覚というものがあって、当時は粋に聞こえても、現代ではちょっと、というものもかなりある。
 一時期、「邦題は漢字二文字が粋」っていうルールがあったらしく、ジャン・ギャバンの代表作の一つ、“Pepe Le Moko”にも『望郷』というタイトルがついていた。「ペペ・ル・モコ」とは主人公の怪盗の名前なのだけれど、確かにそのまんまだと「『ペペ・ル・モコ』ってなに? 料理の名前?」なんて勘違いされそうだが、だからと言って、この邦題を「なんていいタイトルだ!」と主張するのはどうかな、という気がする。映画を見た人はわかると思うが、ペペの心境を「望郷」の二文字で片付けちゃっていいものか、という疑問が湧いてくるのだ。
 ビビアン・リーの『哀愁』だって、原題は“WATERLOO BRIDGE”。「哀愁のなんたら」というタイトルが氾濫してしまった今となっては、オリジナルタイトル通り、『ウォータールー(ワーテルロー)橋』としてもらってたほうが区別がついたのになあ、と思わざるを得ない。
 『慕情』になるともっと悲惨で、原題は“LOVE IS A MANY SPLENDORED THING”。「愛とはたくさんのすばらしいこと」じゃ粋じゃないってんなら、どうしてせめて「永遠に輝かしき愛」とかなんとか意訳できなかったものか。この「慕情」って言葉、今や『男はつらいよ 知床慕情』に使われるくらい、そのイメージが落魄してしまった。
 一度定着したタイトルをあとで変えることには当然問題が生じる。ただ、その拘りが、「過去の名作の邦題は粋だったから」という主観的なものであってはならないと思う。
 上記のものはいずれも、今やとても魅力あるタイトルとは言えなくなっているし、憶測だが、もしもデュビビエ監督が自作の邦題が『望郷』だと知ったら憤慨するのではないか。仮にデュビビエが「邦題を変えろ」と主張したとしても(死んでるけど)、今更あのタイトルを変えることはできないが、内容とかけ離れた邦題がついていることにそもそも問題がある、という認識は持って然るべきではないか。
 私は、邦題を今の感覚に合わせてもっとシャレたものにしろ、と言いたいわけではない。物理的な理由で、モノによっては改題を再考してもいいものもあるのではないか、と言いたいのだ。
 例えば、マレーネ・ディートリッヒの『情婦』“Witness for the Prosecution”などは、ミステリーであるにもかかわらず、タイトルでトリックの一部がバラされているのである。これなど、リバイバル時からタイトルを『検察側の証人』に変更するよう、ミステリ関係者はどうして映画会社に申し入れなかったのか。今からでも改題を要求してもいいのではないか。これを放置しておく、というのは、ミステリの読み方について「どうでもいいじゃんそんなこと」と蔑んでいるのと変わらないと思うがどうか。
 『スターウォーズ』の話に戻って、第四作を『スターウォーズ』のままにしておくと、そのうちこれが第一作で、『エピソード1 ファントム・メナス』(これも『幻影の脅威』じゃどうしてダメだったのか)のことを指すと勘違いする人も出てくると思われるのである。

 タイトルの話ばかりでナカミがないな(^_^;)。
 さて、前作『ファントム・メナス』で、「ホントは『スターウォーズ』シリーズってつまんないんじゃないの?」とすっかり株を下げてしまった感があるが、今回は随分と失地回復を果たしている。
 もっとも、未だにドラマ性よりもイベント性を重視した作りのせいで、監督やスターウォーズフリークはともかくも、一般観客には退屈だろう、と思われるシーンは随所にある。
 ドロイド工場の追っかけシーンなどは最たるもので、どうせ助かるってことが解りきってる上に、たいしたサスペンスもそれを切りぬけるアイデアもなく、ただただ音楽がうるさくカットがチカチカ目に痛いだけだ。なんでもあれももとの脚本にはなく、現場での思いつきで挿入したシーンだそうだが、ルーカスが映画学校でドラマツルギーを何も学んでなかったことがよくわかる。
 アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラの恋も、冗長さが目立つ。
 恋の過程にメリハリがないことが原因だが、オトナになりきれていないアナキンは直情径行でも構わないのだが、「抑え役」パドメのナタリー・ポートマンがどうにもいけない。議員としてのストイックな面と、恋に落ちて以後の情熱的な面との演技の落差を表現できるほどの力がまだ備わっていない点がネックになっているのだ。脚本の上でも最初からあんなにラブラブじゃ、見ている観客は白けるだけだぞ。障碍があるから恋は燃えるんじゃないのか。
 ジョン・ウィリアムスの音楽もうるさすぎ。しょっちゅうBGM流してないと落ちつかないのは逆に神経症じゃないのか。

 何か思いきり貶してるみたいだけれど、しかしそれだけの欠点を備えていてもなお、本作は『スターウォーズ』シリーズ中、一番面白い。
 何よりそれはドゥークー伯爵役のクリストファー・リーの名演に負うところが大きい。善玉が悪玉を演じるのは難しいが、悪玉は善玉を演じられるだけの技量を持っているものだ。月形龍之介が吉良上野介と水戸黄門の両方を演じられたように、クリストファー・リーはドラキュラ伯爵とシャーロック・ホームズの両方を演じている。
 今回も、共和国に敵対する悪の親玉風に登場していながら、オビワンに「共和国の元老院は暗黒卿に支配されている、正義は我々にあるのだ」と勧誘するあたり、果たして真の悪はどちらか? と迷わせるだけの風格ある演技を見せてくれる。絶対悪はそれだけでカリスマなのだから、絶対善にも見えなければ意味がないのだ。クローン軍の攻撃にも動じないその余裕ある演技は、後のダース・ヴェーダー卿がただのチンピラにしか見えないほどだ。
 オビ・ワンもアナキンもドゥークー伯の前では赤子同然、唯一対抗できるのはヨーダのみだが、いやあ、この二人の念力合戦の楽しさときたら(フォースってやっぱり念力だよな)、まるで往年の時代劇、忍者映画を見るよう。
 自雷也と大蛇丸か、影丸と阿魔野邪鬼か、はたまたバビル2世とヨミか(マジでルーカス、横山光輝を参考にしたんじゃねーか)、走る電撃、崩れる伽藍!
 フォースでの対決は勝負にならぬと、続くはライトセーバーでの肉弾戦、宙を駆けドゥークーの死角を狙うヨーダ! 余裕でかわし、ライトセイバーを振り上げるドゥークー! 実力伯仲のこの均衡を破る最後の手段は何か!?
 ホントにこのままヨーダが大ガマに、ドゥークー伯が巨竜に変身して戦ってくれないかと願ったくらいだよ。
 それにしてもヨーダがここまで活躍するとはねえ。数十年後にポックリ逝くのが信じられないくらいだ。それともこのときの戦いのムリがたたって、あんなんなっちゃったのかもね。
 さて、敵方にどんどんいいキャラが増えてく『スター・ウォーズ』シリーズだけれども、次作ではクローン戦争のきっかけを作ったジャー・ジャー・ピンクスが自分の罪を恥じて自決してくれることを希望(^o^)。コメディーリリーフはC−3POとR2−D2の二人だけで充分だって。
 あ、でも吹替え版の田の中勇さんのジャー・ジャーはちょっと聞いてみたいかも。それに、クリストファー・リーは羽佐間“プリズナーNo.5”道夫さんだぞ! ドラキュラ役なら私なんかは千葉“フォーグラー博士”耕市さんの声が刷り込まれてるんだけど、これもまたヨキかな。


 帰りにどこで食事をするかでケンカする。結局、金龍でラーメンに落ちつくが、たかが食事のことでどうしてこう争えるかね。

2001年07月06日(金) ニュースな一日/DVD『遊撃戦』第一話ほか



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