無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2002年07月05日(金) 金曜で〜とだ。一応/映画『マジェスティック』/『気になるヨメさん』1巻(星里もちる)/『クロノアイズ』6巻(長谷川裕一)

 時間帯が合わずに、しげと一緒に映画に行ける日も減っていたのだが、今日は先々週に引き続いてしげの仕事が休み。こういう機会はもう逃せない、ということで、仕事が終わるなり、粕屋方面に向かう。
 何の映画を見るかは随分迷った。私は『パニック・ルーム』を見てみたかったのだが、しげが怖がってまた私の指だの腕だのをつねったり握りつぶしたりもいだり食ったりしそうなので自ら却下。
 ジム・キャリーはできるだけ新作を追いかけているので、時間が長いし題材的にあまり興味は惹かれなかったが、『マジェスティック』を見ることにする。


 映画までの時間つぶしに、「かに一」でバイキング。
 「昔に比べてすっかり少食になった」とほざくしげ、肉を焼き、メシをくらい、新しいオカズが並ぶたびにおカワリに走る。
 つまりしげの「あまり食べられないからバイキングはイヤ」というのは、「2千ナンボ払ってるんだから、五食分くらい食えて当然や! なのに三食分しか食えんやんけ!」という文句なのである。文句かそれは。
 私がカニの脚の身を剥いて、ツルリと引き出すと、しげ、目を見張って「オレも剥く!」と取り上げようとする。
 「なんだよ、食うのか?」
 「食わんけど剥きたい!」
 しげのカニ嫌いはひとえに「うまく殻が剥けない」という点にある。食欲が常に勝っているヤツなので、エビだのカニだの、食うスピードが減殺されるような甲殻類はしげの天敵なのだ。あるいはしげの前世はプランクトンでカニに食われてたものか。
 周知の如く、カニの剥き方は要領さえわかっていれば至極簡単である。しかもこの店のカニ、殻にもう切れ目が入れてある。関節からもぎって引っこ抜けば、スルリと簡単に身が出るのだ。
 「オマエ、剥き方知らんかったんか?」
 「うん」
 「『ここだけのふたり』で『カニってバカだよね、こんな剥かれやすいカラダして』って書いてあったじゃん」
 「だからやると!」
 むりやりカニを取り上げて、首を捻りながらカニの足も捻るしげ。
 うまく身を引き出せて、ニヤッと笑ってカニの身を返されるが、なんだかねー、エサもらってるみたいで食欲が減殺されるねー。


 まだまだ時間は余っているので、道すがらの本屋回り。
 別府(「べふ」と読む。あの温泉とは別場所)の明林堂で本を物色していたが、ふと、金属製のパズルみたいなのがズラリと置いてあるコーナーがあるのに気づく。こういう「知恵の輪」は昔から大好きだったので、箱の空いたサンプルを一つやってみる。ひねくり回しているうちになんとか外してもとに戻す。
 しげにも「やってみない?」と手渡す。つまんないプライドだけは高くて、ちょっとでも恥をかきそうになことになるとプイと逃げることの多いしげだから、もしかしたら「やらん」と拒絶するんじゃないかなー、と思いきや、意外にもすんなり手に取ってやり始める。
 でもやっぱりしげ、どうしても外すことができない。とうとうあきらめて放り出す。なんかな〜、やっぱりどこか根気が足りないんだよな〜。

 突然「わっ!」と声をかけられたので、ビックリして振り返ると、立っていたのは穂稀嬢。
 「どしたの? こんなとこで」
 「何言ってんすか。ここ、ウチの目の前ですよ」
 そいつは知らなかった。っつーか、穂稀嬢をウチまで車で送ったことも何度かあるのだが、住所をはっきりと認識してなかった。そう言えばこのへんだったよなあ。
 「しげさ〜ん!」
 「ハカセ〜!」
 いきなり抱き合い踊るしげと穂稀嬢。踊るといっても、リズム取りながらお互いのカラダを鏡に映ってるみたいに揺らしてるんだが、アレですよ、志村けんと沢田研次の鏡コントみたいな感じね。……本屋でいったい何やってんだか。
 穂稀嬢、お母さんとふたり連れだったが、御母堂はこういう娘御のほよよんとした態度をどう見ておられるか。話によると穂稀嬢の悪行の数々を全くご存知ないようであるが(^_^;)。いやまあ、別にしげと不行跡があったわけじゃないけどね。
 台本の話などして、辞去。


 粕屋のサティに付いてもまだ時間は余っているので、あちこちの店を冷やかす。
 しげがCD屋でなにかを探している間に、隣の本屋に行って買い忘れてた本を何冊か買うが、あとで見てみたら、もう既に買ってたやつだった。新装版だったので勘違いしたのである。最近ボケて来たのかこういう失敗が多い。ヤバいなあ。
 ゲーセンでUFOキャッチャー、今日は調子がよくて、クマのプーさんのカップや、ミッキーマウスの飲茶セットなどを立て続けにゲット。
 しげがステッカーがほしいというので、取ってやるが、相撲取りの絵に禁止のマークがついていて、「NO SMOKING」の文字。こーゆーしょーもないものをなぜ欲しがるかな。
 と言いつつ、私もガシャポンで『あずまんが大王』のカプセルフィギュア(こう呼ぶことを最近知った)を三つも手に入れてたから人のことは言えないのだが(^_^;)。


 ワーナーマイカル福岡東(粕屋)で、映画『マジェスティック』。
 フランク・ダラボン監督の映画は実は初見である。すみません、『ショーシャンクの空に』も『グリーンマイル』もまだ見てないんです。エアチェックはしてるんですけど。別にスティーブン・キングが嫌いってわけじゃなくてただの偶然です。でもこれじゃ映画ファンと名乗れませんね。

 「マジェスティック」というのは、映画中では「威風堂々」と訳されているが、本編では実は映画館の館名のことである。エドワード・エルガー作曲の軍隊行進曲『威風堂々』の原タイトルは“Pomp and Circumstance”なので、この曲を直接イメージしてタイトルを付けたってわけじゃなさそうだけれど、辞書を引くと“Majesty”にもやはり「荘重な、威風堂々とした」という訳が載っている。そう言えば、“Her Majesty”と言えば女王陛下のことで、『モンティ・パイソン』では王室関係のパロディのスケッチでは必ず『威風堂々』がBGMで流れてたから、アチラではこの二語は、関連語として認識されてるのだろう。
 もちろん、単に映画館の名前以上の意味を制作者がこのタイトルに含ませたい意図は容易に理解できる。これはもう、アメリカの民主主義をあたかも「絶対王制」の如く、声高に主張した映画であって、深読みすれば「アメリカのやることは全て正しい」と言ってるみたいで、いささか鼻白む点もないではないのだ。

 時代は赤狩り真っ最中の1951年。
 主人公はしがない脚本家のピーター・アプルトン(ジム・キャリー)。
 かつて女のシリに惹かれて(なんじゃそら)、何も考えずに共産党の集会に参加したことのある彼は、非米活動委員会から審問会に召喚される。
 ところが“偶然”自動車事故に遭い、記憶喪失となった彼は、ローソンという田舎町で、その町出身の第2次大戦の英雄、ルークと“偶然”顔がそっくりったために、本人と間違えられる。
 自分がルークかもしれないと考えた彼は、父親だというハリー(マーティン・ランドー!)の後を継ぎ、さびれた映画館、「マジェスティック」の再建に乗り出す。アデル(ローリー・ホールデン)という恋人もでき、順風満帆に見えたピートだが、委員会の調査の手はすぐそこに迫っていた。
 そして、彼の本当の記憶が戻る日も……。

 偶然がいくつも重なるご都合主義はこの映画の場合は欠点にはならない。
 これはまさしく運命の不思議を通して、生きることの意味を問う物語であるからだ。
 しかしこの映画の何が気になるかというと、これがまたヒネクレたものの見方だと指を差されそうだが、欠点らしい欠点が見当たらない点にある。
 設定もストーリーも全くと言っていいほど破綻がない。
 気取った演出も小難しい理屈もなく、俳優の演技も的確で演出も堅実、制作者の意図がこれだけわかりやすい映画もそうそうない。
 でもそれは、映画としての枠組が優れている、というだけのことだ。言い替えれば、外形さえ整っていれば(基本を押さえた映像テクニックさえあれば)、中身がカスでも映画は「名作」っぽくなっちゃうのである。

 「赤狩り」がアメリカの汚点であった、それはその通りだろう。マッカーシズムがファシズムであることを認めたというのは、アメリカが自らの罪を「反省」する態度すら持つ「民主的国家」であることを証明していると言いたいのかもしれない。
 しかし、その「反省」の態度にこそ、逆に偽善を感じざるを得ないのだ。はっきり言って、「赤狩り」を題材に選んだのは、そけがアメリカ国民の誰もが「反省」していることを納得しやすいものだったからに過ぎない。あれが一番、わかりやすいし、罪を認めるのにたいした勇気は要らないのである。言っちゃ悪いが「桜の木の枝を折りました、すみません」レベルのものだ。広島・長崎の原爆投下やベトナム戦争や対テロ報復は「重過ぎる」し「正しい」と思ってるし、仮にもしかして間違ってるかもしれないとチラッとは思っても、やっぱり「反省したくない」から題材には選ばれないのだ。
 そういう態度ってフツー、「卑怯」って言わない?
 そんな風に見ていくと、「威風堂々」がただの見せかけ、中身のない薄っぺらな「反省ぶりっこ」だよなあ、という気になってくる。反省したフリして実は主張を押しつけてくるというのは、小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』でしょっちゅう使ってた手だ。
 ああ、そうだよ、これ、フランク・ダラボン版『ゴーマニズム宣言』なんだわ。映画としてはよくできてるしねー、ジム・キャリーやマーティン・ランドーの演技は必見と言ってもいいくらいなんだけどねー、民主主義に則ろうが結局あんたら好きで戦争やってるんじゃんってなもんで。結局は「臭いモノにフタ」して自己肯定、自分賛美してる映画じゃねー、まあ同情はしても共感はしませんわ。

 帰宅して、ガシャポンを開けると、幸いダブりはなし。
 ちよちゃんとともとおーさか。榊さんがなかったのは残念だが、おーさかがゲットできたからいーや。おーさかのムネがぺたんとしてて手の甲が前向きで、脚が外またなのが実にリアル。制作者、よく女の子を観察してるよなあ。もともと原作者のあずまさんがアチラ方面のご出身というのが作用してはいるのだろうが。でも体型をいちいち見られてるってのはやっぱり女性はイヤなんですかね。女性が気にするほどに男はそんな外見的なものを気にしちゃいないんだけど、一部のヘンタイの持ってるイメージに踊らされてるからねえ。
 パソコンの上に並べるが、もうスペースが目いっぱいになってるので、鬼太郎フィギュアを後ろに回す。それでも水木ファンか! と誰かから怒られるかもしれんがやっぱ並べて楽しいのは妖怪よりもきれーなね〜ちゃんでしょう(^o^)。
 ……だからたかが人形じゃん、怒るなってばしげ。


 マンガ、『気になるヨメさん』1巻(小学館/ビッグスピリッツコミックス・530円)。
 オビに「星里もちるの善意と悪意! 同時発売!」とあるのは、『本気のしるし』5巻が一緒に発売されてて、それとはマンガの傾向があまりに違い過ぎるから、注意を喚起するためなのかも(^o^)。
 『危険がウォーキング』以来、ほのぼのギャグが星里さんの持ち味、と思い込んでいたファンにしてみれば、『リビングゲーム』で青年誌に進出して以降、シリアスの度合いをどんどん深めていく傾向(と言えば聞こえはいいが、実体は「人間関係ドロドロ化」)にある星里さんの作風に違和感を感じていた分、この『気にヨメ』の加奈子さんの脳天気さには、ホッとさせられるものがあると思う。
 いや、フツーに考えたらこの加奈子の設定、男の反発くらってもおかしくないいんじゃないかと思うんである。
 後先考えない「飛び入り好き」で、いくら結婚届をまだ出してなかったからって、一応は夫婦生活を営んでるツマがだよ、ミスコンに飛び入りしてグランプリまで掻っ攫っていけしゃあしゃあとしてるなんて、ちょっとひどすぎないかい?
 しかも、そのミスコンを主宰してる会社が、「偶然にも」主人公の塚本くんの取引会社だったせいで、上司命令で一年間「ミスで通させる」ってのは、いくらマンガだからって現実離れし過ぎている。そこまでしてヒロインを「ミス」として立てなきゃならんか? ってなツッコミの一つも2ちゃんねるあたりではやってそうな気がする(覗いてないけど)。
 それでもなお、星里ファンの大半(もちろんオトコ)が可奈ちゃんを「かわいいなあ」と思ってしまうのではなかろうか。それは例えば、ミスコンを主宰したタイヨウ堂の社員が、いきなリ主人公の自宅を訪ねてきたときに、可奈ちゃんがメガネをして髪を上げて、しかも関西弁まで喋って(わざとではなくたまたま関西に行ってたので移っただけってところがいかにも天然)うまく誤魔化したりするそんな健気さにもあるんだけれど、やっぱりファンの「もうあんまりドロドロした人間関係は見たくない」心理も働いてないか。
 でもこれが読者としての私の勝手なところなんだけれど、一度『本気のしるし』であれだけどーしよーもない男と女の関係を描いているのを見せつけられてると、今更『気にヨメ』でほのぼのーとしたもの見せられても、どうしても「ウソっぽいなあ」と感じてしまうのである。
 坪田さんのような恋のライバルを登場させておいても、ライトなシチュエーションコメディだからってことなのか、誰かが傷つくような展開にはならない。もうアレですよ、主人公たちが夫婦であるってことを隠してて、夫にも妻にも恋のライバルが現れるって図式は、設定としては往年のテレビドラマ『奥さまは18歳』と全く同じね。ハラハラはするけどドロドロには決してならない、多分ラストでは二人が夫婦って事実はバラされるんだろうけれど、やっぱりトラブルは丸く収まってハッピーエンド、というヌルイ展開になることは容易に予想がつく。そんなんでいいのかね、ホントに。
 でも、『気になるヨメさん』ってタイトルも気になるなあ。
 知ってる人は知ってるが、このタイトルもやはり往年のテレビドラマ、榊原るみ・石立鉄男主演の『気になる嫁さん』から取ってることは確実。あれも死んだ弟の未亡人(と言っても式を上げただけで結婚生活はまだ)が男兄弟の中にいきなり飛びこんできて、という危うい設定だったんだけど、その最終回、結構、切ない終わり方してたんだよなあ。
 もしかして、ほのぼの路線に見せかけてるのは、実はラストでどんでん返しで悲劇的に終わらせようと考えてるんじゃ……? あんなに二人ががんばってるのにそりゃいくらなんでも悲し過ぎないか。
 ……ってよ、ああ、もう、言ってること支離滅裂。私ゃ結局ハッピーエンドにしてほしいのかほしくないのかどっちなんだよ!


 マンガ、長谷川裕一『クロノアイズ』6巻(講談社/マガジンZKC・560円)。
 第1部完結。
 ううむ、うまいなあ。
 前巻で主人公の大樹が、“確実に”“間違いなく”“絶対に”“何一つタイムパラドックスを起こさずに”死んじゃったので、さて、これをどう解決するかと思ってたのだけれど、あれをああしてこう来たか。
 ちょっと書いただけでもネタに触れちゃうので、書き方が難しいのだが、SF作家たちが時空間理論について頭を悩ませている課題について、実に明快な、しかもこれまでにない新解釈を考案している。
 タイムパトロールたるクロノアイズには、歴史上、何の影響も与えない人間が選ばれるはずなのに、カラミティ・ジェーンはいるわ、宮本武蔵はいるわ、アトランティスの王妃はいるわ、ミトコンドリアイブはいるわ、こりゃどういうこと? って謎にも、ちゃんと筋の通ったリクツが付くようになってる。
 そうか、この手があったか! ってなもんで、久しぶりにセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれるSFマンガに出会えたって印象で、頗る気分がいい。

 でも実は一番気に入っているのは、シリアスなストーリーの合間に差し挟まれるギャグと適度なエッチだったりする(^_^;)。いや。いいぞ、「ニセクロノアイズ」(^o^)。アレだけ活躍しといて、最後はちゃんとオチ付けてくれるあたり、美味しいよなあ。えっちのほうも第1部完だけあって大盤振る舞いだね〜。アナが脱がされるのは当然(^_^;)としても、ペル、パペッティア、ハデスときて、スリーピーまで脱がしてどーする。首から下しかないぞ。いやもー、この、「女の子キャラは脱いでこそ命!」という信念こそ、漫画家の鏡というものでありましょう。
 ……この程度でセクハラなんて文句つけるなよ、エセフェミニスト諸氏。

2001年07月05日(木) 疲れてるとかえって饒舌/DVD『アリオン』ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)