無責任賛歌
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2002年06月25日(火) |
揉んだら出る/『松田優作物語』6巻(完結/宮崎克・.高岩ヨシヒロ)/『仮面ライダーSPIRITS』3巻(石ノ森章太郎・村枝賢一) |
ようやく梅雨らしくなったか、今日もそぼ降る小雨。 ……ちょっと気になったけれど、そぼ降るの「そぼ」って何? 語感から判断するに雨降りの擬音じゃないかとは思うが、自信がないので『日本国語大辞典』を引いてみる。 万葉時代から平安、鎌倉のころまではは「そほふる」と発音していたようだ。「そぼ降る」形に変化したのは近世に入ってから。「そほ」というのはやはり「そほそほ降る」という擬声語からきたもの、という説が有力なようだが、「細小降(さおふる)」の意味、なんて説もある。「そ」は「衣」のことで、「ぼ」は「下に沈む」意、つまり、衣に水が染みとおる意を表す、なんて説は、もうほとんどクイズである。 語源探索の世界は、何万という文献を調べて、ようやく単語一つの語源が類推できる程度という、努力が実を結ばない世界だから、牽強付会な説が横行するのも仕方がない面はあるが、自説を披露するにしても、あと一呼吸して落ちついて考えてから発表した方がよかったんじゃないかと思うが、どうか。
いつものように職場までしげに迎えに来てもらったはいいのだが、途中で銀行に寄って札束を十億円ほど卸したときに(←だから意味もなく見栄を張るなってば)、カバンの中にサイフがないことに気がついた。 さて、職場で背広から出して、カバンの中に突っ込んだのは確かに覚えているのだが、そのときにチャックを締めたかどうかが記憶にない。 となると、考えられるのは、落としたか掏られたかだが、まあ十中八九、前者だろう。ウチの職場には生活に困ってヒトの財布をくすねなきゃいけないような貧乏人は一人もいない。それでもあえて、一番の貧乏人は誰かと問うたなら、その答えは私だ(^_^;)。自分で自分のサイフ盗んでどーする。 またなあ、「ちょっと職場に戻って」とか言ったら、しげのやつ、ブツクサブツクサ15時間ぐらい愚痴りまくるんだろうなあ。 かと言って、ニョーボに叱られるのが怖くて黙ってたって、いつかはバレるのである。それに、私のサイフの中にはカネはほとんど入っていないが、映画館やビデオ屋やカラオケ屋のカードだのはギッシリ入っているので(サラリーマンのサイフじゃねーよ、それ)、もしも誰かに盗まれたら、そいつは「何の役にも立たんやんけ!」と激怒するだろうが、私は大損なのである。 しげが文句つけられるのを覚悟の上で、「ごめん、職場まで引き返して」と頼む。 「なんでいきなり!」 「財布落とした」 「……どこに!」 「多分、オレの机の下」 「ホント? 間違いないと?」 「うん、ハッキリ覚えてるから大丈夫」 ハッキリ覚えているのなら、財布を落としたまま忘れたりするはずもないのだが、そこはあえて自分で自分には突っ込まない。 しげ、なおも疑わしげなジト目で私を見ていたが、どうしたわけか、急に泣き出しそうな顔になった。 「どしたん?」 しげ、ガマンできない、といった表情で、「オナカ痛いと!」と叫ぶ。 「腹が痛いって……なんで?」 「知らん。早く帰ってトイレ入ろうって思ってたのに」 「……なにか悪いものでも食べたんか?」 「知らん。オナカ冷えとうとよ」 それはつまり、寝冷えしたということではないのか。しげはムチャクチャ寝相が悪いので、朝起きるとフトンも毛布も蹴っ飛ばして、下半身丸出しで寝ていることがしょっちゅうなのだ。これではおなかを壊さないはずがない。 「寝冷えだろ? それ」 「わからん。ともかくオナカ痛い」 「腹、さすっちゃろか?」 わざわざいったん帰ってきた道を戻ってもらうのだから、少しは親切にしてやらないと、と思って、しげの腹に手をやった途端、つい、魔が刺した。 しげの腹は太い。 新婚当初のキュッと締まっていたあの可憐な面影はどこへやら、今や「肉の大陸」、家族10人分はあろうかという「鏡餅」と化している。 そんなところに手をやろうものなら、ホラ、アノ、揉みたくなってしまうではないか。 で、つい、揉みました。 途端に走るしげの絶叫。 「揉むなー! 揉んだら出るー!」 揉んだら出るって……出すなよ。
サイフは無事、机の下に落ちていた。 サイフを取り戻した後、トイレに大至急直行したいしげを先に返して、自宅の近所の「ほっかほっか亭」で、ダブルカツ丼に特製ビーフ弁当、やきそばと、消化に悪そうなものばかり晩飯に買っていく。 しかしこれは別にしげに意地悪しているわけではなくて、うどんみたいなおなかに優しいものは、しげは「食いごたえがない」と言って、断固として食べないのである。買って来ても食べないことがわかりきってるものは、買うだけ無駄なので、こんなこってりしたメニューになってしまうのだ。そのせいでしげの腹の調子が悪化したとしても、そいつは自業自得ってものである。 で、しげのやつ、やっぱりペロリと平らげるし。どこが腹イタなんだってんだよ。
マンガ、TEXT.宮崎克・ART.高岩ヨシヒロ『ふりかえればアイツがいた! 松田優作物語』6巻(完結/秋田書店/ヤングチャンピオンコミックス・590円)。 1989年。 松田優作がこの世を去ってもう、13年になる。 となれば、今時の高校生、大学生は松田優作のことをほとんど知らない。ビデオやBS、CSでチラッと見たことくらいはあるかもしれないが、当然、その「時代の雰囲気」までは掴めるはずもない。 こういう実在人物のマンガ化が、果たして、その人物が生きていた時代までも浮きあがらせることが出来るのか、と言われれば、それはやはり難しいのではないか、としか言いようがない。 昭和40年ごろ、下関は「猥雑なほど活気に満ちていた」だろうか? 昭和30年代をピークに、北九州とその周辺はどんどんさびれていった、というのが福岡から見た場合の実感である。今はレトロ記念館なんか建てて、なんとか持ち直してるけれど、当時そんなに「活気」があったんなら、松田優作がそこを脱出したがった理由が分らないじゃないか。 当時、下関は「死に体」だったのである。 「街は若く、松田も若かった」なんて、某ウールリッチの小説の冒頭をモジられても、「そんな大層な街か、下関が」としか地元民は思わんぞ。「異国情緒」なんて言葉を平気で使ってるけれど、東京人から見たらそうだってだけの話で、そんなの「アメリカ人の見たフジヤマ・ゲイシャの国日本」ってなもので、勝手な思いこみに過ぎない。 松田優作を神格化するための脚色は、かえって松田優作の役者としての価値を減ずることになりはしないか。 『ブラック・レイン』が、本当に松田優作の人生のシメとして相応しい映画だったと言えるのか。「生涯を賭けて創りたいと思う映画があります」と松田優作が医者に告白した映画とは、本当に『ブラック・レイン』のことを指していたのだろうか。 別に松田優作でなくとも、役者なら誰でも自分の命より作品の方を優先する。映画は量より質だ。細く長く生きてたくさんの映画に出るより、渾身の演技を目の前の一本に賭けるほうが普通だ。たとえその映画が『ブラック・レイン』でなく、たいした映画でなかったとしても、同じ言葉を松田優作は語ったように思う。
マンガ、石ノ森章太郎原作・村枝賢一漫画『仮面ライダーSPIRITS』3巻(講談社/マガジンZKC・580円)。 今巻は「ストロンガー」「スカイライダー」「スーパー1」編。 ついに登場、立花藤兵衛に谷源次郎の“二大”おやっさん。村枝さんの絵柄では、小林昭二にも塚本信夫にも似ているとはとても言えないが、キャラクターとしてのエッセンスは伝わってくる。 ただ、谷源次郎はともかく、立花藤兵衛、もう少しキャラとしては「重く」ないかな、とか、ちょっと不満なところもないではない。城茂と岬ユリ子の悲しい別れを経て、戦士をサポートし続けることに「懲りた」と言わせる演出、往年の仮面ライダーファンから見れば、やや納得しかねる設定ではなかろうか。 確かに、『ストロンガー』を最後に、立花藤兵衛は仮面ライダーシリーズに登場しなくなった。しかし、それは戦いに「懲りた」からだろうか? 「スカイライダー」と「スーパー1」のときも、実は他のライダーたちとどこかで戦っていたのではないか。そう考えることのほうがごく自然だと思うんだがなあ。 ライダーたちの戦いをあれだけ見てきたおやっさんだ。新たな敵が現れたと言うのに、黙って見過ごしてはいられないだろう。悲しみを乗り越えて悪の組織と戦うことを、ライダーたちに決意させる側に回るのが、おやっさんとしてのごく自然な行動ではないだろうか。 もっとも、おやっさんに限らず、これまでの仮面ライダー一人一人の描き方自体、9人のキャラクターの違いを際立たせるためだろう、結構誇張されていたんで、おやっさんにだけ「違うんじゃないか」と突っ込むのもヘンだけれど。 けど、かつてのファンは、ある意味、ライダー以上に小林昭二さんには思い入れが深いと思うんである。どうしたって、小林さんの声や演技を想定しながら見ないわけにはいかないんだよなあ。……「ワシはもう懲りたんだ」なんてセリフ、小林さんが言うか? けれど今巻は岬ユリ子が極悪なほどに美しかったので全て許す(* ̄∇ ̄*)。 いやもう、まさかあのタックルのお笑いコスチュームを美しいと感じさせてくれるとは……村枝さん、スゴイよ!
2001年06月25日(月) 1時間日記(^_^;)/アニメ『名探偵コナン』オープニング
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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