無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年06月18日(火) 狂乱の終わり……始まり?/『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』(角川書店)ほか

 職場で今日はほほを紅潮させてる人というか、やたら興奮気味な人が目立つなあ、なんぞ悪い病気でも流行ってるのかと思っていたらと、今日は例のアレだ、ワールドカップ決勝リーグの日本対トルコ戦があるんだったね。
 結果は1−0で負け。これで俄かナショナリストたちの狂乱が収まるとなればこちらも安心して日々の生活を営めるというものだ。
 サッカー自体は嫌いじゃないが、サッカーファンは嫌い、というのは、アニメは好きだがアニメオタクは嫌い、というしげなんかのスタンスによく似ている気がする。人のシュミに文句をつける気は毛頭ないが、押しつけがましくて「自分が世界の中心」てな態度を取られてると確かに困りもんなのである。
 具体的にあまり詳しいことは書けないが、ウチの職場でも今回のワールドカップに関して、下らん諍いが二、三件、起きちゃっててね。バカらしいったらありゃしないのよ。……たかがサッカーだぞ、仕事優先しろって。
 サポーターだかフーリガンだか、サッカー応援してれば、それに付随した行為はたとえ社会の規範に抵触するものであっても許されると踏んでるフシがあるんだよな。んなバカなこと許されるわきゃないんだけども。
 しかし私は、そういうバカ行為すら、あえて否定はしないでいようと思う。
 川に飛びこむなら飛びこめ。暴動も起こして構わない。イベントとか祭というものは基本的に秩序の破壊だ。応援に熱中してりゃあ、そういうバカが出てくるのはイベントの必然なんだってば。そういうバカが出てきちゃ困るってんなら、最初からワールドカップを開催なんてしなけりゃいい。
 バカを煽って作り出してきたのはまさしく過剰報道してきたマスコミなんだから、今更、「もっとマナーを」なんてったって、誰も聞きゃしないのである。コメンテーターとかいった連中がサポーターたちを糾弾するのは間違っちゃいないか?
 けどねえ、俄かサッカーファンのみなさんよ、バカならバカでいいから、自分がバカであるという認識くらいは持っててほしいんだよ。だってそうじゃないと、アンタら、自分がやったことのオトシマエすら付けられないじゃん。タイホされる覚悟くらいはしとけよ。警察に捕まったからって暴れてんじゃねーや。みっともない。

 その狂乱騒ぎも日本敗退でようやく収束するだろう。ニュースでも、「気が抜けた」と言ってたファンが結構いたし。
 考えて見れば日本は実に「ちょうどいいところ」で負けたのではないか。
 予選リーグで敗退せず、ベスト16までは生き残った。これで一応の満足は日本人に与えたし、未来への希望も与えた。
 韓国を先に立てた恰好になったから、韓国から「日本があんなに勝つのはケシカラン」とか難癖付けられる心配もないし、ジャッジの不公平や開催国の有利さに対する批判とかも全部、韓国に押しつけられる。
 案外、計算した「負け」じゃなかったのか、今回の負け試合。もっとも、選手たちは無心に戦っていた者が多いと思うし、お膳立てをした黒幕がいるとしたらトルシェ意外にはいないだろうが。いや、黒幕のワリにゃ目立ってるが(^o^)。もし、この邪推が当たってるとしたら、なかなかの策士だね、トルシェは。サッカーの監督としてはどうかとは思うが。
 でもこれでようやく、遠慮せずに「サッカーファンの9割は猿だ」と堂々と言えるようになるな。やつらが興奮してた時には、下手なこと言ったらマジで闇討ちされそうな気配だったし。
 ……え? そんな「遠慮」なんか、これまでだってしてないだろうって?
 そんなことないですよぉ、ちゃんと人のこと気遣って、遠回しないい方しかしてませんよぉ。だって「猿」なのは「サッカーファン」だけに限定してるし(^o^)。
 けど、ホントに自覚しておけよ。今回のワールドカップ、「選手と選手」の純粋なゲームでなく、「国と国」との「代理戦争」になってたことは否定できない事実なんだってことをな。サッカーファンの連中が、潜在的なナショナリストだってこと、証明されてるでしょ?。


 今日もまた晩飯は「王将」。
 ラーメンと天津飯のセットを頼む。
 日頃は晩飯にとんこつラーメンなど食べないのだが、いつもいつも定食ばかりでは飽きが来ていたのだ。
 しげは相変わらずのスタミナセットで、唐揚げだの餃子だのにパクついていたが、私がラーメンを食べ終わったころになって、いきなり箸を私のラーメンドンブリに突っ込んできた。
 「何するんだよ!」
 「……ラーメン、残ってないかと思って」
 「ほしいなら、先に言えばよかったのに。でなきゃ自分で注文するとか」
 「アンタが食べてるの見たらほしくなったんよ!」
 やっと短い麺の切れ端を見つけると、舌先に乗せてにちゃにちゃ噛みながらニカッと笑うしげ。
 ……人の物がほしくなるって、そりゃ誰にでもあることだろうけれど、まさか実行に移すとは思わない。いくら夫婦の間柄だからって、しげの精神年齢、ちょっと低過ぎないか。
 最近しげは、職場で一緒に働いてるオジサンから「クッカーって、料理全部作れるの? 偉いねえ」と誉められたそうだが、幼稚な仕草から10代くらいに見られてるのではないか。そのことをしげは憤慨しているが、だったら、もちっとオトナな行動取れよ。たかが一本の麺を食べるのに、人のドンブリまで浚うなよ。
 いや、別に私ゃ、盗まれた一本の麺が惜しかったから言ってるワケじゃなくて(^_^;)。


 ドラマ『盤嶽の一生』<第8回>(最終回)「男と女」。
 全9回、とあったが、新聞には今日が最終回、とあったぞ。「幻の1話」でもあるのか。どっちにしろ、8回で終わり、というのは短か過ぎる印象だが、別に打ち切りにあったというわけではないらしい。
 ともかく、ここしばらくで一番上質な時代劇を見せてもらったって感じである。白井喬二の原作が入手困難な現在(それどころか山中貞雄の脚本集まで本屋で全然見かけねーぞ。タイアップぐらい考えてないのか)、貴重な映像化だった。
 『盤嶽の一生』というタイトルを昔聞いたときには、主人公の侍が、死んじゃうまでを描くのか、と思っていたが、『女の一生』などとはやや趣きが違っていたようだ。つまりはこのタイトル、騙されて騙されて、それでも人を信じずにはいられないお人好しの、一生コイツは呑気なまま青空のように生きていくんだろうな、と思わせる侍の「性格」を象徴しているのであった。
 融通が利かない無骨さ、それでもどこか爽やか、というキャラクターならば、本当に往年の三船敏郎に演じてもらいたかった感じではある。けれども役所広司、無骨さの中の軽みを今一つ出しきれていない恨みはあるものの、通して見れば、よく頑張ったと言えるのではないか。
 コアな時代劇ファンなら、殺陣などにもいろいろ注文をつけたくなるところだろうが、役所広司の殺陣は近年の腰の座っていない役者の中では、随分見応えがあるほうである。至芸とも言うべき戦前の嵐寛寿郎、近衛十四郎、昭和3、40年代の三船敏郎、若山富三郎あたりと比較したりするのは酷というものだろう。

 「騙す」物語となればいつかは出てくるだろうと思っていた宗教ネタ。
 教祖が桃井かおりってのは、どうなんだか。人を騙す新興宗教の教祖としては
呑気過ぎるんじゃないかと思ったが、教祖自身も騙されてたって役だから、まあいいのか。昔と違って、近年の桃井かおり、悪女役が似合わなくなってきてるけど、役者として小ぢんまりと収まってしまいそうで、ちょっと心配である。
 阿地川盤嶽(役所広司)は、源助(梨本謙次郎)とおりん(広岡由里子)という農民夫婦の家に厄介になっていた。
 村の周辺では、お蝶(桃井かおり)という女が「正直庵」という額を掲げて、霊験あらたかというお札を農民たちに売りつけ、農民たちから「生き神様」とあがめられていた。盤嶽は珍しくも、お蝶に疑いをかける。実際、「正直庵」は裏で久左衛門(國村隼)という、怪しげな男が糸を引いていた。
 盤嶽はお蝶に、「人の弱みにつけこんでお札を売るとは」と怒るが、お蝶に「盤嶽さんは強いからいいが、弱い人には神様との間を仲立ちする人が必要」と言い返す。
 実はウチの母親も、晩年、似たようなことを言っていた。若いころは死ぬのも怖くない、と嘯いていたものだったが、病状が進んで、死を覚悟しなければならなくなってきて、信心が芽生えたらしい。気持ちは分らないではない。母が危篤状態に陥った時、私も神様にマジで祈ったし。もっとも、結局、母は助からなかったから、キリストさんもお釈迦様もマホメットさんも、「アンタは神様なんて信じなくていいよ」と言ってくれたんだなと思って、無宗教なまま、今に至っているが。
 もちろん、盤嶽もまた強くなんかない。だから騙され続けている。人を信じないではいられないのは、とりもなおさず自分自身が弱いからだ。
 あえて騙されることに身を投じる人間がこの世に存在するのは、人がみな弱いことの証明である。その何か強いもの、自分のようなちっぽけな存在をすら包んでくれる大きなものに包まれたいという願望は、誰にだってあるのだ。そういった人のニーズに一番手っ取り早い形で答えているのが宗教なのだから、一概に否定できないってのは私にだって分るのである。
 しかし、盤嶽同様、私は自問自答せざるを得ない。
 ならばなぜ宗教は庶民に安易な夢を見させる方向にばかり転んでいくのか?
 人間の苦しみは、そう簡単に消えてなくなるものではない、信心すれば救われるというのは幻想だ。実は有名どころの宗教の教祖はキリスト教にしろ仏教にしろ、たいていそんなシビアなことを語っている。「人間、諦めが肝心」。宗教の教義は実はこんなものだったりするのだ。
 しかし、それでは宗教は広がらない。儲かりもしない。だから「継承者たち」は、たいてい民衆に甘いことばかりを言う。呪文だけ唱えてれば、お布施をあげてれば、それだけで救われる、という安易さは何なのだろう。
 そんな安易さに引っかかってしまうほど、追いつめられている人が多いのか。そんなに自分に自信のない生き方を、覚悟のない生き方をして来た人が世の中には多いのか。それはその人の強さ、弱さとは関係がないようにも思うのだがどうか。
 例えばしげはムチャクチャ弱くてバカな人間だが、それでも宗教にハマることだけはないと思う。人間、どんなに弱っちくても、神様に頼ったって損するだけじゃん、くらいの理性は働かないものなのか。

 生糸問屋の清兵衛(石橋蓮司)が、自分の娘・お糸(田中規子)と久左衛門を娶わせるために、邪魔なお蝶を始末しようと企む。盤嶽の活躍で、清兵衛の陰謀は阻止されるが、不思議なことに、お蝶を殺そうとまでした久左衛門が、またお蝶とヨリを戻し、旅に出る。
 「男と女とは何だ」と考え込む盤嶽。
 男女の中に疎いのはこういうキャラクターの定番だけれど、『人情紙風船』の山中貞雄脚本を元にしているのなら、もう少し深刻な展開になっても、というのはまあ無理な希望か。『紙風船』は山中貞雄の遺作だし、到達点をもって過去の作品を評価していいはずもない。
 サラリと流したその手際も、リライトした脚本家に帰されるべき称賛だろう。


 本を少し片付けようと、書庫に篭ったら、つい、藤原昌幸(現・富士原昌幸)の『刑事戦士Xカリバー』全4巻とか、蛭田達也の『コータローまかりとおる!』全59巻とか読み返してしまう。
 そんなことやってたら、本の整理なんかできねえって(-_-;)。
 けれど『コータロー』、やっぱりおもしれーわ。自慢じゃないが、私はテコンドーもグレイシー柔術の存在もこのマンガから学んだ。っつーか、日本でそれらの武道が人口に膾炙するようになったのは、このマンガが取り上げた以後のことだ。『コータロー』は、明らかに、日本に武道を普及させるのに一役買っているんであるが、そのワケは、しょーもないギャグを交えながらも、そのアクション描写が的確であるからにほかならない。……実はホントに「的確」かどうか、格闘技に詳しくない私には断定はできないんだけれど、少なくともそう思わせるだけの密度を持った描写をしていることは間違いないのだ。
 けど、KCコミックス版はもう絶版なのかね。ワイド版だけでも30巻越えてるから、全59巻なんてとても新しい人の購買意欲をそそらないってのは分るんだけども。


 角川書店編『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』(角川書店・1995円)。
 横溝正史生誕100年を記念して出版された三冊のうちの一冊。そうだよなあ、まず角川がこういう本を出さないとなあ。何しろ金田一耕助シリーズはおろか、『蔵の中』まで映画化くらい入れこんでたんだし(もっともコレだけはさすがにヒットしなかったが)。
 文庫もカバー一新で12冊が復刊されるみたいだし、今まで横溝正史の探偵小説(やっぱりホントはミステリーとか推理小説って言いかたじゃなくて、この表現に拘りたいよな)に触れたことがない若い方には、ぜひ、この機会に一冊でも多く、横溝作品を読んでほしいのである。
 坂口安吾が「アガサ・クリスティーに匹敵する実力」と評価した世界探偵小説のベストテンに入れてもおかしくない傑作群を横溝氏は量産してきたのだ。
 復刻される文庫本を、名探偵金田一耕助の事件簿順に並べてみる。
 昭和12年『本陣殺人事件』
   21年『獄門島』
   22年『悪魔が来りて笛を吹く』
   23年『夜歩く』
     『八つ墓村』
   24年『犬神家の一族』
   25年『迷路荘の惨劇』
   26年『女王蜂』
   30年『悪魔の手毬唄』
     『三つ首塔』
   34年『仮面舞踏会』
   35年『白と黒』
 『悪霊島』と最後の事件である『病院坂の首縊りの家』が復刻されないのは残念だが、これだけでも充分横溝正史の真骨頂は伺えるラインナップだ。
 特に、これまで過小評価されることの多かった『白と黒』が含まれているのは、その慧眼を声を大にして称えたい。横溝正史賞を受賞した小川勝己が、本書のインタビューで、「おそろしくフェアに書かれている」と評価してくれているのがラインナップに影響を与えたのかもしれない。
 しかも、カバーデザインまでが「白と黒」のシンプルなカラーで統一されているのだ。これがもう、美しいったらない。横溝正史は全冊持ってるけど、もう一冊、買っちゃおうかな。
 未読の方は、この機会にぜひ、時代順に読んでもらいたい。

 特集記事の中で、個人的に一番の目玉だったのは、やはり江戸川乱歩との往復書簡だろう。乱歩と正史のほぼ全作を読んでいる私も、書簡までは手が回らない。これだけで、しょうもないインタビューだの対談記事の多いこの本を買った甲斐があったというものだ。
 この偉大なる二人の探偵作家が、終生親友であり、同時に憎悪も抱きあったライバルであることは、意外に知られていない。丹念に両作家の作品を見ていけば、必ずしも関係者から話を聞かなくても、お互いを意識しながら作品を書いていったことが分るのだが。

 驚いたのは、正史が、『屋根裏の散歩者』を乱歩が書いた時点で「『明智(小五郎)』はもうそろそろお止めになってはどうでせう」と書き送っていることだ。
 もうそろそろも何も、『屋根裏』は、『D坂の殺人事件』『心理試験』『黒手組』『幽霊』に続く明智小五郎シリーズ第五作、「もう止めたら」というほど作品を重ねているわけではない。これらは全て大正14年に一気に書かれたが、第一作の『D坂』が「いい主人公を考えつきましたね」と人から口々に誉められたから、本来初めの二作で終わる予定だったのがシリーズ化されたのである。乱歩は「誉められないと書かない」といういささか困った性格の作家だったが、つまり誉められれば誉められただけ、傑作を書いてしまう人だったということだ。
 横溝正史がそれを知らないわけはない。しかも、『屋根裏』は、前二作の『黒手組』『幽霊』のような腑抜けた凡作と違って、紛れもなく明智小五郎の事件簿の代表作でもあるのだ。
 横溝正史はこのとき江戸川乱歩の才能に嫉妬し、彼を落とし入れたのではないか。あまり信用してはもらえないかもしれないが、一応、根拠と言えるものがいくつかはある。
 一つは、この直後、乱歩が長いスランプに入ったことである。
 次作『一寸法師』で明智はいきなりそれまでの和服の貧乏書生から、洋装のハンサムに変身する。しかも、どうやら本作を明智シリーズ完結編にしようとしたフシまであるのだ(何しろ最後にはあんなことしちゃうし)。更に『一寸法師』の出来映えに嫌悪を覚えた乱歩は、このあとなんと失踪してしまう。これも正史の手紙がきっかけになったと考えるのは穿ち過ぎだろうか。
 もう一つ、正史は、金田一耕助の造型に明らかに初期の明智を流用している。随筆では一切そのことに触れようとしなかった正史だが、『横溝正史読本』での小林信彦との対談で、「明智が変わったから、金田一をああいう男にできた」とハッキリ語っている。……常識的に考えたら、「金田一は明智のパクリですか?」とは分っててもとても聞けない。小林信彦、よくぞ聞いてくれたってなものだ。

 正史が金田一を造型したのは、明智が変わってから20年を経過した戦後のことだから、その連関性は薄いようにも思える。
 しかし、その「変わった」明智シリーズに、実は横溝正史をモデルにした人物が新たに登場していた、と言えば、驚く方もおられようか。と言っても、それなりに根拠はあるのだが、これもまた私の邪推ではあることを先にお断りしておきたい。でないと熱心な正史ファンの方の中には、ショックを受ける方もいらっしゃるかもしれないので。
 それは明智の妻、文代夫人である。
 ……あ、そこの人、コケたりしない(^_^;)。
 女じゃん、と突っ込まれそうだが、この文代夫人、初登場からしばらくは、スパイ顔負けの女探偵として活躍していたのだが、小林少年が登場してからは体を悪くして療養生活に入ってしまうのである。
 実は正史のデビューは乱歩より早い。しかし、横溝正史は若いころから結核を患っていて、乱歩が招聘するまで、兵庫で引退して薬局の主人をしていた。それを乱歩の旺盛な活動に触発されて、上京してきた。雑誌『新青年』の編集長もやった。作家活動も再開したにもかかわらず、再び喀血して、正史は岡山に隠棲してしまう。
 そのあと、乱歩は衆道趣味の知人である岩田準一と、ソチラ方面の資料収集に深く関わっていく。しかし、もともと乱歩が「美少年に会いに行く」趣味を共通して持っていたのは、正史とであったのだ。しかし正史は乱歩から「捨てられた」。明智が、その伴侶を文代夫人から小林少年に移していったように。
 これを正史はどう受け取ったか。
 明智は乱歩だ。
 文代は正史だ。
 乱歩が呼んでくれたから、正史は作家になった。なのに乱歩は、もう自分のことは忘れているかもしれない。
 戦後、正史の体調が回復し、明智を自分のものにしようと考えたのは、乱歩自身を取り戻したいとする、モトカレとしての代償行為ではなかったか。
 ……長くなったので、続きはまた明日の日記で。

2001年06月18日(月) オンナノウラミ/『うる星やつら 努力、女の道!!』(高橋留美子)



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