無責任賛歌
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2002年02月26日(火) |
伝統と革命の間/『蟲師』2巻(漆原友紀)ほか |
岡田斗司夫さんのホームページ「OTAKING SPACE PORT」の巻頭言に、歌舞伎についての書きこみがあったが、それがチョイと気になる内容であった。 唐沢俊一さんが2月24日の裏モノ日記に、「岡田斗司夫氏は要するに、才能というものは遺伝するものではない(こぶ平を見ればわかる)から、ただ血がつながっているということだけで家元だの名門だのといって御曹子たちをもてはやすことが伝統芸能の衰退を招いている、と主張していた」、と書かれていたのを受けての発言である。
「唐沢さん、僕は『歌舞伎は血統主義のせいでダメになった、と嘆いている』わけではありません。 血統主義だから技術レベルが低いのは当たり前で、そのことから歌舞伎ファンは目をそらすべきではない、と言ってるつもりです。 『面白くないし技術的にもダメだけど、でも伝統芸能だから素晴らしいんだ』というスタンス、いいじゃないですか。 映画とか漫画とかアニメなんていう歴史の浅いメディアは、面白いとか素晴らしくなきゃ芸術的に意味はない。 しかし伝統芸能の恐ろしさとは、『面白くなくてもダメでも、とにかく続いてるから価値があるんだ』という頑迷なようで深みのあるニュアンスまで射程に入れられる、というところではないかと」
実際のところ、岡田さんのこの文章見て、ちょっとアタタ、と頭抱えちゃったんだけどね。 言っちゃ悪いが岡田さん、思いっきりコトバの論理の筋を外してしまっている。 全ての文章を引用するわけにはいかないから、要約するしかないんだけど、唐沢さんはつまり「歌舞伎ファンの神経逆撫でするような言い方じゃ、せっかくの主張が伝わんないから表現考えろよ」と言ってるんである。 簡単に言っちゃえば「誤解を招くような書き方はモノカキならするなよ」ということ。 もっとわかりやすく言えば、「シロウトがヘタなことを言うと、恥かくよ」(-_-;)。 やっぱさあ、「血統主義だから技術レベルが低いのは当たり前」。 こりゃあ、ちょっとマズイんじゃないか。 歌舞伎ファンが激怒するのは当然だがね。 だってね、岡田さんの表現のし方は「新劇」の立場に立っての発想なんであって、「歌舞伎」の伝統性を前提にした言語になってないんだもの。 「面白くないし技術的にもダメだけど、でも伝統芸能だから素晴らしいんだ」。全然誉めてないって、これ(^_^;)。 これをね、「従来の『歌舞伎』を旧劇として排斥し、西洋の心理的表現を取りこむことで成立して行った『新劇』の立場に立てば、『歌舞伎』の表現方法は大仰で古臭く、新劇的手法に慣れた大多数の現代人からはつまらなく見えるかもしれない。しかし、『歌舞伎』には『伝統』の中で培われた独特の技術があり、いわゆる『所作事』を知悉した観客にとっては、『新劇』以上に細やかかつ大胆な世界が映し出されているのである」、こう書きかえれば別に歌舞伎ファンは怒らんと思うんだがな。
たとえば、歌舞伎には「おこつく」という動作がある。 一瞬、舞台上でよろめいて見せる動きを言うのだけれど、これ、よろめいただけじゃなくて、そのあと、必ず「立ち直ってシャンとする」のね(ついでだけど、このときの囃子を通称「ポテチン」と言う。鳳啓助のギャグのこれが元ネタ)。 つまり、「おこつく」ことで心理的動揺を示して観客の注意を引くわけだけれど、そのあとより整った姿勢を見せることで、その動揺から立ち直ろうとする意志すら見せる。けれど内面の動揺が消え去ったわけではない。はっきり言えば「から元気」だ。でも、その複雑な心理を観客は敏感に感じ取って、感動するのだ。そういった一連の動きまでも「技術的にヘタ」と言い切るのは、「無知」の謗りを受けても仕方ないんじゃないか。
そういう「所作事」が、様式化というかパターン化されてしまうと、やっぱり漫才のキメギャグみたいなもので、繰り返されるうちにつまんなくなっていくんじゃないか、と思われる人もあろうが、そう単純なものでもない。 必然性のないところで「おこつけ」ば、歌舞伎の観客だってやっぱり白けるのだ。いや、決められたところだって、ヘタな役者がやれば、舞台は確実に白ける。 歌舞伎ファンの目は存外厳しいのだ。 にもかかわらず、そういう歌舞伎の細やかさが、現代人の我々には見えなくて、つまらないもののように思われちゃってるってのは、例えば男が少女マンガの表現が稚拙に見えるのと同じで、「慣れてない」だけなんだよね。
岡田さんは「歌舞伎に慣れてない」。 それは確実だ。 だから、御本人は「伝統芸能だからすばらしい」と誉めた気になっているようだけれど、結局、シロウトが余計な口を差し挟んでることにしかなってない。 昨日の『アイランド』の話にも共通することだけど、「文化の違うもの」を理解することって、そんなに簡単なことじゃないのだ。「自分とこの文化ではこうだ」、「でもあそこんとこの文化はうちのと違う」「だからあの文化は間違ってる」……そんなことは簡単に言えるもんじゃないって、わかんないのかな、岡田さん。 ある文化の尺度を絶対のものとして、別の文化の価値をダメだなんて言っちゃいけないってことは、基本なんだけどなあ。
これが全く逆に、「歌舞伎も現代人の嗜好に合わせて変わるべきだ」というならまだわかるよ。猿之助さんの「スーパー歌舞伎」はまさにそれだし。 その立場に立って「伝統遵守派」に対してもの申すっていうなら、納得はいくのだ。 でも、「つまんないけど伝統だからいい」なんて立場は、結局なんなのかね? これ、歌舞伎に対してなにも言っていないに等しい。 結局、岡田さんには歌舞伎に対する知識も関心もないのだ。 それはシュミの問題だから別に全然構わないことなのだが、ならば岡田さんが歌舞伎について語る必要だって全然ないではないの。 歌舞伎はね、面白いから続いてるの。それが普遍的ではないってだけのハナシで。 で、歌舞伎ファンだって、世間的には歌舞伎がつまんなく思われてるってことは重々承知の上なのだ。 だから今更、岡田さんに「歌舞伎ファンは目をそらすべきではない」と言われたって、「別に逸らしてないよ」のヒトコトで終わっちゃうのだ。 そんなことより、今の歌舞伎がつまんないのは、その「所作事」をキチッと演じられる役者が減ったってことの方が大きいんだけどな。それは歌舞伎における血統主義が崩壊しかかっているからなんであって、岡田さんの主張とは全く逆なんである。
どうしていきなり岡田さん、歌舞伎について語り出したかな? 夏目房之介さんが歌舞伎ファンだから、なにか言われてカチンときたのか。 そのへんは憶測だから、なんとも言えないし、「知識がなくても発言はできる」のだけれど、唐沢さんがせっかく注意してくれたんだから、せめて「勉強不足でした」くらいのことは感じてほしかったなあ。
ああ、こういうこと書いてるからって、私が歌舞伎についてクロウトだなんて思わないようにね。演劇評論家の渡辺保さんの主張からのウケウリっスよ。私も歌舞伎はたまにテレビで見るくらいです。
『キネマ旬報』2月上旬号に、アメリカ版『鉄腕アトム』の正式発表のニュースあり。 タイトルが『Astro Boy』だってのと、アトムがCGってのは聞いてたけど、アトムだけでなく全てをCGIで制作することに変更されたとか。 これは明らかに『トイ・ストーリー』以降のCGIアニメのヒットがもたらした結果だろう。『シュレック』『モンスターズ・インク』がヒットして、『アトランティス』がコケたとなれば、迷う必要もない。 基本的に人間までCGで作画することを、私はどうも好きになれない。 CGと手描きアニメの違いは、手書きアニメがコマ落としによって残像効果を出せるのに対して、CGはそれをしない、つまり、動きが「滑らか過ぎる」てしまうことなのだが、あれだけ細密な『ファイナル・ファンタジー』ですら、登場人物の動きは「人間」に見えなかった。いや、へたに細密だから、人間との動きの違いが目立つのだ。 『トイ・ストーリー』や『シュレック』、『モンスターズ・インク』の絵コンテなどを見ても思うのだが、完成された映像より、はるかに溌剌としているのである。完成度をわざわざCGで低くしてどうするんだよって、日本の手書きアニメに慣れてる身にはそう感じられるんだが、現実問題としてアメリカじゃ、わざわざCGにしないと売れないのだろう。 アメリカのアニメ後進ぶりはこういうところにも現われているんだよね。 けどなあ、CGのアトムも見たくもないけどさあ、CGのお茶の水博士、CGの天馬博士、CGのタワシ、中村両警部、CGのケンイチ、シブガキ、タマオが出るのかよ。 そいでもって、どうせ原作の絵なんか無視して、リアルな人間キャラになってよ、アメリカだから名前もビバリーヒルズ博士とか、ブラッシュ警部とか、ジョニーとかケンとか(あ、ケンイチだけは名前が同じにできるか)になるんだぜ、きっと。 ……だったら俳優使ってくれたほうがまだマシじゃないのか?
更に、ハリーハウゼンの『シンドバッド』シリーズの第四作製作の発表もあったけど、ハリーハウゼン、とうの昔に引退してるのに、なぜに「第四作」なんて謳ってんの? しかもやっぱりCGで作るって、ダイナメーションで作らなきゃ意味ないじゃん! なんだかアメリカさんのやることはようワカラン。 ヽ(´∞`)ノ
この冬の興行成績もどうやら出揃った模様。 トップは今も上映中の『ハリポタ』だけれど、『もののけ姫』の記録は抜きそうだが、『タイタニック』までは届かず、という感じらしい。だいたい200億円くらいで落ちつくのかな。2作目、3作目で前の作品以上のヒットってのはなかなか難しいだろうから、記録破りはもうしばらくはないかな。 あとは『バニラ・スカイ』が35億、『スパイ・ゲーム』が25億、『シュレック』もそのくらい、続いて『GMK』が20億。 去年の『メガゴジ』が10億だってことを思い返すと、倍増だね。全く『ハム太郎』さまさまだ。でも、もう一本なにかアニメをつけて「チャンピオン祭」が復活してくれりゃ、正月だけじゃなくて、春・夏通じて長期のヒットも見込めると思うんだけど。
夕食はしげのたっての希望でガスト。 なんでもドリンクバーのメニューが増えたそうで、「アイスココアが飲みたい!」のだそうな。 なるほど、店に入ってみると、ドリンクバーのコーナーに、なんだか黒っぽいボックスみたいなのが一つ増えている。でもアイスココアと言ってたのに、機械はどう見てもホット用。 どこにアイスが? と思ってよく見てみると、「氷を入れてアイスにしてください」の表示が! ……これ、アイスココアの機械じゃなくて、「ホットココアを氷で無理やりアイスにしてください」ってやつだったのね。 これはつまりこういうことかな、初めからアイスの状態にしておくと、ココアが沈殿して薄くなってしまうんで、むりやりホットをアイスにしているとか……よくわからんな。 けれど、こんなの薄くてぬるくて飲めないんじゃないかと思っていたのだが、実際に味を見てみると、これが意外とイケるのだ。 初めから氷が解けて味が薄くなることを見越して、ちゃんと濃い状態にしておいたのだろう。濃さもいいし、冷た過ぎないのがノドに優しい。 つい、3杯立て続けに飲んでしまったけれど、これ、意外にやみつきになっちゃいそうだな。
マンガ、和田慎二『超少女明日香 式神編』2巻(メディアファクトリー・580円)。 随分簡単にヒロインたちを殺して行くなあ、と思ってたけど、こういうオチに持っていくためだったのか。ちょっとムリヤリっぽい印象もあるけど面白いからいいや。 なにより、タイトルの「式神編」ってこういうことだったのね……、とそのアイデアに脱帽。だってまさかねえ、チビ明日香が(もちろん変身前!)が何百人も出てくるなんて思わないってば。 ごっつかわいい! ストーリーのちょっとしたいい加減さなんてもう気にならないくらい。 おまけとゆーか、和田さんが竹本泉さんと雑誌で対談したときのカットを再録してくれているのも嬉しい。竹本さんの描く明日香、かわいすぎる! まるでホンモノと似ても似つかないくらいに(こらこら)。 和田さんの描くイーナスはヘタだけど(おいおい)。 けれど、いい加減で和也とのすれ違いネタは無理が出て来てるしやめたらどうかな。もう何度も一緒に戦ってきて「危険な目に合わせたくない」もないだろうに。 いったん終わった作品を更に続けるってのが大変なのは解るけれど、「黄金ドクロ編」のような強大な敵はもう出しようがないし、あまり以前の作品のパターンを繰り返すのはどうなんだろう。 それならいっそのこと第一作のウォーカー姉弟をもう一度出すというのはどうだ。たしかまだ死んでなかったし。
マンガ、漆原友紀『蟲師』2巻(講談社・560円)。 ああ、待ちに待った待望の2巻! しかも1巻にも増してハイレベルな作品群! 私のつまんない批評なんか読んでるヒマがあったら、すぐに買って読め! ……常軌を逸してると思われようが、実際面白いんだから仕方ないじゃん。 掲載誌の『アフタヌーン・シーズン増刊』でも表紙になっているくらいだから、そりなりに人気はあるんだろうけれど、珠玉の名編、という看板に偽りナシのこのシリーズ、売れてきたとは言ってもまだまだ世間の認知度は低いと思うんである。 しかし一度読んでハマったらもう、人に伝えて「『蟲師』はイイっスよ!」と布教して回りたくなるその魅力、これは『エヴァンゲリオン』『オトナ帝国』に勝るとも劣らない。 現に第1巻が発売された時、福岡天神の福家書店では、次々と新刊が発行され続けているにもかかわらず、増刷が入荷されるたびに必ず平積みにし、しかも「試し読み本」を用意して、「だまされたと思って手に取って読んでみてください!」のハリガミまでしてたのだ。 だからプッシュ! これを読んだことがある人はすぐに自分のホームページで絶賛の感想を書き、出入りしているサイトがあったらそこでも「読め読め」と強要し、家族や一族郎党、友人知人には無理やり売りつけ、更に布教の輪を……。 はあはあ。 いけない、ちょっとばかし額の血管が切れちまったい。 でも、一度読んだら、絶対そんな気分になることは保証するでよ。
今巻で、なぜ蟲師のギンコが旅をしているのかも、巻頭の『やまねむる』で明かされる。「蟲を寄せる」体質の人間が「蟲師」になるのだね。しかしなぜ「彼ら」だけが蟲を寄せてしまうのか、その謎まではまだ明かされない。明かされなくても構わないけど。 「蟲」は確かに人をついばむものであるのかもしれない。 しかし、ギンコを初めとして、このマンガに登場する人々は、みなこの「世界との絆」をどこかでつなぎそこなっている人々ばかりである。 口減らしに山に捨てられ、山に育てられた少年、コダマ。 愛する男を里につなぎとめるために山の主を殺した娘、朔。 蟲にその身をささげることで、里の安寧を保とうとする蟲師、ムジカ。 満たされぬ心ゆえに蟲にその身を寄生させて生き神となる少女、あこや。 父の見た虹の幻影を追い求めてさ迷う男、虹郎。 蟲にとって代わられた息子を、それでも愛し育てていく母親、あき。 彼らは、彼女たちは、原初の生命たる「蟲」に触れることでようやく自らの「心」を取り戻す。 その様子はまるで、「悲劇」を経験せねば、人は人でいられないという諦観のようにすら見える。
そして、『筆の海』のヒロイン、狩房淡幽。 参った。 マンガの中の少女に、こうまで打ちのめされることがあろうとは思いもよらなかった。 その健気さ、そして強く、優しく、けれど儚げな憂いをその瞳に常に宿した少女。 これほどまでに深い「思い」をリアルに描ける才というのはいったいなんなのだろう。 蟲封じの家に、先祖の封じた蟲をその身に宿して生まれ落ちた少女の右足は、蟲のために黒く、墨のような痣に覆われていた。 身動きすることもかなわぬその「蟲」を改めて封じるためには、彼女の「筆」で、蟲を紙に筆写し続けるだけの生涯を送らねばならない。 蟲師たちの語る「蟲封じ」の物語だけが彼女を救うことが出来る唯一の望みだが、それはその一生にのみ終わることではなく、何十年、あるいは次の世代に生まれてくる「痣を持つ者」にまで受け継がれる宿命なのである。 ギンコは語る。 「蟲に体を侵食されながら、蟲を愛でつつ、蟲を封じる。そういう娘が一人いる」 彼の言を聞いて思う。 我々人間が持つ「心」そのものが実は「蟲」なのではないだろうか。 我々は自らの心に侵され、それでも自らの心を愛し、自らの心を封じていく。 我々が心と心で絆を作ることに悩み苦しむのは、まさしく「生きる」ことが、心に侵されていく過程に他ならないからのように思えてくる。 なのに、淡幽は自らの宿命を受け入れる。 蟲を受け入れる。 自らの心を受け入れる。 そして最後にギンコに語る。 「生きているんだよ」と。 そうだ。 「生きる」ということは、このどうにもならない「心」を抱えていくことを憂えることではないのだ。この苦しみも、悲しみも、引き受けねばならない者たちが共通して持っている共感を持つこと。 それが「絆」だということをこの足萎えの少女は語っているのだ。 「蟲」は「群生」する。 しかし、我々人間も、その儚い命を群生することにより満たしあっているのではないか。 それは「癒し」などという適当な言葉で表せるような軽いものではなく、もっと深く、原初的なもののように思える。
さあ、みんな、『蟲師』の2巻を買いなさい。
2001年02月26日(月) しみじみ草枕/『エクセル▽サーガ』(六道神士)7巻ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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