無責任賛歌
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2002年02月04日(月) |
チョコレート一本勝負/『何だかんだと』(ナンシー関)ほか |
職場で新聞を読んでいると、三面記事に曲芸師の海老一染太郎さん死去の報が。70歳、死因は胃がん。 なんだか、「死ぬ」ってことが一番似合わない人が死んじゃった、という印象である。正月には必ず染之助染太郎のお二人の曲芸が見られるものだと思ってた。来年、それがもうないというのは不条理にすら思える。 子供のころは、「正月」と言えば「三波伸介」だった。三波さんが亡くなってからは、染之助染太郎がそのイメージを一手に引き受けていた感がある。これでもう正月をイメージする芸人さんって、いなくなっちゃったんじゃないか。 兄は頭脳労働、弟は肉体労働、というイメージが強くて、染太郎さんは何もしてなかったように思われがちだが、そんなことはない。染太郎さんの方がしゃもじか何かをくわえて、その上にヤカンだのなんだのを乗せる芸を昔は披露していた。 「これでギャラはおんなじ」のギャグが当たったので、あえてテレビではそういう芸を見せなくなってたのではないか。結果的に染之助さんの傘回しと、「いつもよりよけいにまわしております」の囃し声だけが突出して印象付けられることになった。不思議なもので、ホントに余計に回していたら、永遠にまわし続けなければならなくなる計算だが、見ていると本当に長く回しているように見えるのである。これもお二人の芸の力であったのだろう。 似たような芸を見せる人はこれからも現れるかもしれないが、もちろん比較できるものではない。芸人というのはつくづく一代限りのものなのだなあ、と思う。 20世紀の「正月」は、これで終わった。 染之助さん、これからどうするのかなあ。
しげ、行きは送ってくれたが、帰りは電話に応答がない。 仕方なくタクシーで帰って、途中でコンビニに寄って買い物、弁当をお土産に渡す。 散財させられたのに親切にするなんて、理不尽なんだが、少しは私の愛情に気づいてほしいのよ。 むりかな。
日韓共同制作ドラマとかいう『friends』を途中まで見たが、こういう合作映画となると、どうして文化摩擦の恋愛ものにしかならないのか。 発想が『蝶々夫人』のころから一歩も出てないんである。 合作でSF作るとか、ミステリー作るとか、それくらいのことはできんのかい。それにしても、フカキョン、デブったねえ。 走るとチチは揺れるようになったけど、見事なくらいにウエストがない。顎の下の肉は、さすがになんとかしないとマズイんじゃないか。 アイドル脱皮して演技派ってのはまず無理っぽいからなあ。 このへんがもう限界なのかもしれないなあ。……『リング2』でちょっとはいいかなと思ったんだけどもね。
しげ、バレンタインデーに向けて、チョコレートを山ほど買って来ている。 ともかくイベント好きなしげのことであるから、「標的」に対してどんなチョコを贈ってやろうかと虎視眈々と狙いを定めているのだ。 しかも、しげは「かわいくて喜ばれる」チョコを作ろうなどという気はサラサラない。 もらった相手がいかに困惑するか、あるいはしげの「挑戦」にいかに立ち向かってくれるか、その反応を楽しみに、「勝負チョコ」を作るのである。 ちなみに、去年「勝負」を受けた其ノ他くんは、しげが贈った「牛乳パックにチョコ流しこんで固めただけの2リットルチョコの塊」を、一週間くらいかかって食ったようだ。 そして今年、既に冷蔵庫の中には直径20センチを越える「ボウル」が二つ並んでいるのだ。 ……私にはささやかなのでいいからね、ウン(^_^;)。
ナンシー関『何だかんだと』(世界文化社・1050円)。 文庫になるまでいつも待ってるのに、しげがさっさと買っちゃってた『何様のつもり』シリーズの最新第7弾。 うーん、なんだかいつものキレがないなあ、ナンシーさん。 つーか、もうこのテレビの末期的状況に、「何を言ってもムダ」と思ってるんではないか。 例えば「橋田壽賀子」である。 世間には『渡る世間は鬼ばかり』を本気で「おもしろい」と思ってる人が多いのだろう。 毎週、あれを見るのが楽しみ、という方もきっとおられるのだ。 けれど、それでもあえて言うけれど、橋田壽賀子の脚本の実力は全ての脚本家、シナリオライターの最下位に属する。 設定・構成のデタラメさ、キャラクター造型の支離滅裂さ、セリフの非現実性、なにより社会や人間を洞察する力の低さ、何一つとっても誉められる点がない。ヒトコトで言って「幼稚」。それが『渡る世間』のレベルだ。 理由は簡単で、作者がもう年寄りでボケてるからである。 なのに橋田壽賀子は未だに権威であり続けている。 ナンシーさんは、『笑っていいとも』に出続けている(2001年4月当時なので今はさすがにもういないんじゃないか)ことに対して、「つまらないからやめろというバラエティの正義を行使しても無駄であるという意識の共有」と書いている。 ……そうなんだよなあ。橋田壽賀子はひとつの例だけれど、それがえなりかずきであろうと、三原じゅん子とコアラであっても同じことである。 もう、「何を言ってもムダ」な状況で、ナンシーさんが「あれはなんだよ」、と言い続けたところで、どうにもなりはしないのだ。 無理にそこでコトバを重ねようとしても、それは空回りするばかりだ。
「『好きな俳優は渡部篤郎』と言う人たちはなぜ自身満々なのか」。 ナンシーさんのこの問いかけ、つまり渡部篤郎のファンが、「私はそんじょそこらのアホタレのファンじゃないのよ、あの渡部のファンなのよ、だからアタシもエライのよ」と言いたいんだろうと分析する。 「非ミーハー宣言」「私はバカじゃない宣言」「感性に自信あり宣言」。 渡部以外でも、浅野忠信や永瀬正敏のファンはみんなそうだとも。 その分析はまあ、当たってんじゃないかと思う。 でも、エッセイの内容はそれでおしまい。っつーか、それ以上、ナンシーさんも言いようがないのだ。 その「エラソウ」な渡部ファンに何かを言ってやれるのか。 「別に渡部のファンだからって、アタマがいいわけでも、イケてるわけでもないよ? あんたはね、ただのブス」 ……言ったって、しょうがないよね。 つまり、ナンシーさんのエッセイ、もうすっかり「ナゲヤリ」になってるんである。 ナゲヤリの文章を読んだってつまらない。 けれどそういう文章がまさしく今のテレビの最悪な状況の象徴ではあるのだ。
ちなみにしげは、熱烈な渡部ファンです(^_^;)。
2001年02月04日(日) HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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