無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年02月04日(日) HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守)

 二日続けて女房の夢を見る。
 いったいどうした、私に何があったんだ。
 幸いなことに内容はもう覚えてはいないが、間違っても「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ」というものではあるまい。どちらかというと、女房から「アンタはなんで私の夢を見ないんだ〜」とネチネチ絡まれ続けたせいであるように思う。

 体調がまあまあ元に戻ったので、これなら映画に行ってもよかったかな、という気にもなるが、大事を取ったほうが無難である。
 日記を読み返していても思ったが、こうしょっちゅう体を壊していては社会人として落第の烙印を押されたって仕方ないなあ、という気もしてくる。実際そういう扱いを受けること多いしな。でも烙印押す方には立派な人がお揃いなのかというと、そうでもないことは歴史が証明している(大げさな)。
 昔、アイアコッカだったか誰かが「太ったやつは自己管理がなってない証拠だから、企業のトップにはなれない」なんてトボケたこと言ってたが、これを真に受けて(というか利用して)デブ差別やってた企業人は多かったように思う。でもアメリカ人やヨーロッパ人の社長にそんなにスリムなやつが多かったかというとそんなことはないのは見ての通りだ。食わなくっても太る体質のやつはいる、ということすらわからんバカがトップに立ってた時代があのバブル期だったわけである。
 要するに人間というものは、お偉いさんは特にそうだが、下の者を縛る口実が常に欲しいのである。つまらんイデオロギーの強制は社会を崩壊させる要因に過ぎないということが解らんのかなあ。
 私は最近はソドムとゴモラの町ですら、神の勝手なきまぐれで滅ぼされたに過ぎず、ホントはそんなに退廃的じゃなかったんじゃないかという気がしてきている。

 ネットを覗きながら、BGMに『懐かしのTV番組テーマ大全集』をかけたりしていると、何とも懐かしい気分になる。大半は昭和30年代のもので、私が記憶しているはずのないものなのだが、そう感じてしまうのは、創世記のテレビが持っていた「大らかな若さ」とでも言えばいいような雰囲気のためであるように思う。
 中学校の頃、担任の先生から「『ブーフーウー』って知ってるか?」と聞かれてハイと答えたのが私を含めて二、三人しかいなかった。年譜を見ると放映終了が昭和42年である。前年に『ウルトラマン』が放映されていたことを思えば覚えていてもおかしくないんだが。人によっては思い出せる最初の記憶が七、八歳のころ、というやつもいて、いくらなんでも人生無駄に生き過ぎてるんじゃないかと思うんだが、逆にあまりに恥晒しな毎日を送っていたのでキレイサッパリ忘れてしまっているのかもしれない。
 子どもの育児日記を付けたり、ビデオカメラで撮りまくる親をバカと呼ぶのは簡単だが、子どもが大人になったときに、「おまえは昔ねえ」と言って苛める材料としては有効である。私もそれでどれだけやられたことか。自己反省の機会を与えるためにも「記録」は必要である。

 女房のアルバムをふと覗いてみる。幼稚園か小学生のころだろうか、どの写真の女房もみな笑顔だ。こまっしゃくれていて、いかにも生意気な顔だが、それでも子どもらしい屈託のない笑顔である。
 こんな笑顔、結婚して一度も見てないな。
 気がついたら泣いていた。
 夢に女房が二日も続けて出てきたのは、やはり私自身の思いのせいかもしれない。

 押井守『犬の気持ちは、わからない』、昔、実家で犬を飼っていたときのことを思い出しながら読む。
 実際、犬や猫って、何も考えてないよなあ。『パト』や『攻殻』でハードなイメージのある押井さんだが、もちろん私生活の顔もあるのであり、犬好きゆえの横暴な頑固親父、という感じはそばにいたらヤなやつだろうが、人としては共感できる。『101匹バセット大行進』はもし作られたなら、絶対見にいくんだがなあ。絶対スポンサーつかないだろうなあ。

 昼過ぎて、鈴邑、愛上夫妻+ふなちゃん、塩浦嬢来る。
 ふなちゃん、昨日節分用に買った豆の付録の鬼の面(赤塚不二夫作画)に見入っている。はや、オタクの片鱗が芽生えたか?
 みんなで公演のビデオ(編集前)を見るが、何か言いたげでズバッと言いきれない感じが強い。と言うか、どのように批評するのがベストなのか、その方法がまだ身についていないのだ。

 「演技が下手」と言葉にするのは簡単なのだが、どこがどう下手なのか、どうすればよくなるのか、それを指摘しなければ、意味はない。
 例えば、人形役の桜雅嬢、ラストで本を読む時は仕方がないとしても、人形でいる間はメガネを外させるべきだった。本人の目が見えようが見えなかろうが、「おすましリカちゃん」じゃあるまいし、メガネかけたアンティーク人形があるものか。それを指摘しないということは、メンバーが桜雅嬢を「見捨てている」のと同義である。本人がそれをイヤだと言っても、それを説得するのが周囲の役割である。……私ゃまさか本番までメガネかけるとは思いもしなかったのよ。
 桜雅嬢だけをまな板に乗せてしまって申し訳ないが、役者に限らず、スタッフがそれぞれに、何をするのが自分の役目なのかを考えることは、明らかに今後の課題である。
 私は簡単に「あいつ、言うこと聞かないなら切っちゃえ」みたいなことを言ってしまって、それはそれであまりよくないのだが、仲間のフリしてお互いに妙な遠慮をして、言いたいことも言わないのは芝居を作る上では逆効果だろう。
 たしえば私が「『ロミオとジュリエット』のロミオをやるぞ!」と言ったら誰も反対しないのか。「鏡で自分の顔を見ろ」とハッキリ言わんでどうする。私の心を傷つけたくないと思ったとしても、せめて「体重を三ヶ月以内で30キロ落としたら配役することを考えてやってもいい」くらいのことは言わないといかんだろう。もちろんそれを私が実行できたとしても「やっぱアンタじゃミスキャストだからダメ」と言うだけの冷静な判断が必要になるのである。
 今回の脚本、ウチのメンバーにアテ書きしたものでないために苦労をかけてしまったことは私の反省点である。しかしアテ書きしたらアテ書きしたで、「なぜ私がこんな役?」的な不満が出る可能性は常に有り得る。
 ロデムさんのシノプシス、プロットのみでドラマはまだない。次回作に使うとしたら、ウチのキャストに合うように相当改変せねばならない。かと言って、「やりやすい」ように改変されると思ってもらっても困るのである。ドラマがあくまで虚構の物語である以上、そこに登場する人物はどんなにリアルに見えてもやはり「理想」を体現したキャラクターであることは紛れもない事実であるのだ。
 簡単に演じられる役なんてない、ということを肝に命じてもらいたい。

 ビデオを見たあと、塩浦嬢の似顔絵を描く。ホームページに今度メンバーの顔を載せるのだが、写真がイヤな人は似顔絵を載せることにしたのだそうな。
 二点ほど描いたが、塩浦嬢、どうも今イチ気に入らない様子。そこで女房に、「おまえ描け」と命令する。……念のために言っておくが、女房に絵心はない。完璧にない。彼女のデッサン能力は幼稚園でストップしたままである。
 案の定、出来あがったイラストを見て、一同大爆笑。ピカソやダリも裸足で逃げ出すほどの傑作である。そのうちホームページに載るだろうが、その出来映えを堪能していただきたい。
 私も諸事情で顔写真は載せられないので、美形バージョンと毛虫バージョンを描いたら、みなが毛虫バージョンを選ぶ。くそ。

 塩浦嬢は一足先に帰り、残りのメンツで夕食。今日は女房手製のカレーである。
 女房には何度も注意しているのだが、具はたっぷり入れるくせに、カレー粉をやたらケチるので、毎回コクもなく薄いスープのようなカレーにしかならない。
 鈴邑君、やはり「醤油貸して下さい」と言い出す。見るに見かねて私がカレー粉と隠し味にソース等を注ぎ足して、何とかカレーらしくなる。毎回こうだからなあ。少しは料理も上達して欲しいもんだが。

 鈴邑夫妻、夕方には帰る。次会う時にふなちゃんはどれだけ大きくなっていることか。
 CSで『ダロス』を見ているうちにウトウト。今日は早寝だ。



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