無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年10月26日(金) それは愛ゆえの殺人か/『孤島の姫君』(今市子)ほか



オタアミ当日まであと29日! 29日しかないのだ!

 今朝読んだ新聞に、ヒキコモリ息子の家庭内暴力を苦にした父親が、息子を刺し殺して自殺した事件がコラムになって載っていた。
 記事の見出しには「改訂版の出版空しく」とか書いてあったので、何のことやら、と思って読んだら、この父親、数年前に息子との葛藤を手記にして自費出版していたのである。
 で、「改訂版」というのは、「息子との仲もようやく落ち着いて解決を見た」という内容で締めくくられる予定だったらしい。
 しかしご近所の話によれば、ほんの一週間前にもそこの家から罵り合う声が聞こえていたそうで、何のこたあない、不仲の火種はしっかり残っていたってオチである。

 しかし、この記事どこかで読んだことがあるな、いや、今朝の新聞を今朝以前に読んでいるはずはないから、これってデジャブ? とか思っていたのだが、この事件、エロの冒険者さんのご近所で起こった事件だったのである。私はエロさんの日記で既にこの事件のことを知っていたのであった。

 この息子が引きこもるようになったのは、新聞によると、アトピー性皮膚炎で肌が荒れていたのを学校でからかわれ苛められたのがきっかけだということだ。
 不登校に陥った息子は、そんなカラダに生んだ親を恨み、暴力をふるい始めたのだそうな。……それが本当なら、全く甘えたバカガキだとしか言いようがない。ただの不運を親のせいにしてどうする。
 新聞記事は疑ってかかれってのが私の基本姿勢だが、この件も、私の勝手な想像ではあるが、ちょっと様相が違ってるんじゃないかって気がする。基本線は同じであっても、微妙にディテールが違ってるんじゃなかろうか。
 何が言いたいかっていうと、「苛めで不登校になった」ってことで親を恨むってのがどうもピンと来ないのだ。暴力行為の動機としては、ちょっと説得力に欠けている。
 思うに、そこまで親が憎くなるってのはやはり「男の本能に根ざした恨み」なのではないだろうか?
 つまり、「女がらみ」。

 気弱な息子が思いきって彼女に告白する。
 「あ、あの、ボ、ボクと付き合ってくれませんか?」
 「エー? マジ? ホントマジ? ヤッダー、シンジランナーイ! チョーマジ、ムカツクー! なんでェ、アタシがァ、アンタみたいな○○くて○○いヤツとつきあわないといけないワケー? ウッソォ、ヤダモー、ヤメテヨォ、ジョーダン? ベンジョにその○○いカオつっこんで死ねよ、バーカ!」
 ……ああ、なんてリアリティのあるセリフだ……(T_T)。

 いや、それはそれとして、ここまで言われたんなら、不登校になって、親を恨んで暴力ふるったってのも理解できるぞ、男として。きっといたのだ、そんな女が。絶対、そうに違いないぞ。
 でも、どっちかと言えば、そのカタカナ語しか喋れないクサレバカ女を即座に打ち殺してくれたほうが世のため人のためだったように思う。親の方も、息子がグレたのは自分が親として至らなかったせいだ、とか自分を責めたりせずに、「お前がそんなになったのは女のせいなんだろ? 女にバカにされたんだろ? そうなんだね? よし、わかった。その女が誰か教えなさい。お父さんがぶち殺して切り刻んで、ブタのエサにしてくれる」とか言ってやればよかったんだ。

 以上は私の勝手な妄想だが(本気にするなよな)、親が、「子供のために本気になって戦ってはくれなかった」ってのは、間違ってはいないように思う。
 穂積隆信の『積木くずし』の場合もそうだったが、それまでいかに親子関係を修復していても、手記なんてものを出版した途端、子供は、「オレは、親の飯のタネに利用されたんだ!」と思ってしまうものだ。
 親は、そこまで、子供の気持ちを忖度した上で、手記を書いていたのだろうか。どうもそんな感じじゃないような気がする。
 手記をものにした時点で、親は子供から逃げていたのだろう。
 子供だって、そんな欺瞞にはすぐ気がつく。暴力行為がエスカレートしていたとしても、それは結局、本人たちのせいではなかったのか。
 子供は暴力を振るっていたというが、それは家庭内だけに留まり、外部への犯罪的行為にまでは至っていなかったようである。だとすればやはり今回の殺人は、自分がこれ以上苦しみたくないという、親の、自己本意な行為に過ぎない可能性が高い。
 新聞はなんだかステロタイプな親子の悲劇みたいな感じの論調でコラムを締めくくってたが、バカ息子をバカ親が殺したってだけで、琴線に引っかかってくるような話じゃないと思うんだがなあ。なんでこう、大したこともない事件を無理やり悲劇に仕立て上げなきゃならんのか。

 ちょっと思い出したことがある。
 ウチの母親は、私が子供のころしょっちゅうこう言ってた。
 「アンタが何か悪いことをしたら、私もアンタを殺して死ぬよ」。
 今、思い返せば、実際にそんな状況になったとして、本当に母が私を殺したかどうかは判らない。
 ただ、母親が「本気だ」というコトは子供の私にもビンビン伝わってきた。
 法律で裁かれるかどうかってことの前に、私ゃ悪いことしたら自分の親に殺される、そう刷り込まれて育ってきたのだ。
 別に、これは異常なことでもなんでもない、昔の親なんて、みんなこんなもんだったのである。ガキ躾るにしても、もうちっと、やり方考えろよ、と文句言いたくはあるが。
 そこまで極端なことを言わない家だって、親の「権威」には中身があった。いやね、別に「昔に返れ」って言いたいわけじゃないよ、バカはすぐそう言いたがるけれども。
 世間が勘違いしてるのは、その「権威」ってのが、「暴力」とか「家父長制」とかいう、封建主義に根ざしたものじゃなくって、単に「親が子供を育てる覚悟をしていた」だけだってことに気付いてないことだ。
 「躾」ってのは「カタチ」なんかじゃない。スパルタがいいか放任がいいかなんて問題ではないのだ。
 親と子の心の絆をどう作るかってことを考えりゃいいだけなんだが、その覚悟もないのにぽこぽこガキ作ってっから、殺伐とした事件だって起こるんである。極端な話、親が親のすること、子が子のすることをお互いに納得してりゃ、顔を合わせなくても会話を交わさなくても何の問題も起きないのである。
 なんだか私にゃ、事件が起きる家庭ってのが、「あえて事件を起こす火ダネを作りまくってる」ように見えてしかたがないんだがねえ。

 
 風邪を引いてからほぼ十日、ようやく咳も収まってきて小康状態が続くようになった。
 まだ、ちょっと空気の流れが悪くなるとげほげほと止まらなくなることもあるが、なんとか持つようになった。ここまで来れば再発の心配もなかろう。
 しかし、今回の風邪も長かったなあ。

 お仕事はまたしても残業。
 それでも早めに片付けとかないといけない仕事をちゃっちゃと終わらせて帰宅。まだ6時だと言うのに、日が落ちてあたりはもう濃い藍色。まだ風はそう冷たくないのに、もう冬なんだなあ。
 今日は久しぶりに『クレヨンしんちゃん』に間にあったので、じっくり見る。季節の変わり目なせいか、2本とも病気ネタ。
 『園長先生が心配だゾ/熱出し母ちゃんだゾ』。
 一本目は、オー・ヘンリーの『最後の一葉』のパロディ。病気で寝ている園長先生が、庭木を見ながら呟いた「あの葉が散ったころには私はもう……」というセリフを聞きつけたマサオくん、早速みんなにご注進する。
 マサオくんはいつも「てえへんだ!」って問題を持ちこんでくるガラッ八の役目を引きうけてるが、こういう5人組のコントの役割がちゃんと決まっているところ、『しんちゃん』が正統派コメディの系譜の上にあることの明確な証拠なのだ。
 その話を聞いて、カザマくんがみんなに『最後』のスジを話してあげるのだが(いつも思うことだが、カザマくん、幼稚園児のくせに知識ありすぎ)、ネネちゃんが「それってホラーね!」と、意味を読み替えていくギャグが秀逸。
 おとぎばなしの読み替えギャグは多いけど、オー・ヘンリーってのは眼の付け所がいい。オチはまあ、別に園長先生は死ぬこともなく(当たり前だ)、その「一葉」の庭木は、しんちゃんたちがハッパが散らないように塗りたくったノリに、風で飛んできた新聞紙やらゴミがくっついて、エライことになっているのであった。
 2本目は、原作にもあった病気のかあちゃんのお手伝いを、しんちゃんがすればするほど仕事が増えちゃう話だけれど、ラストはやっぱり家族の絆でオチがつく。テレビシリーズのしんちゃんは、スジの型が概ね決まってるので、小出しのギャグをどれだけ詰めこめるかで評価が分かれる。
 後半は、しんちゃんがワザとカニ缶を開けて食べようとするギャグがあるけれど、ちょっと笑いにつながるギャグが少なかった。
 しんちゃんをリスペクトしたホームページ、ファンページは多いけど、ギャグ中心ってのは少ない。ドリフのコントなんかもそうだけど、「面白かった」って評判は残るけど、ギャグ自体は消え去ってしまうことが多いのだ。そのへんをフォローするファンサイトがあってもいいと思うんだがなあ。


 しげに頼んで、近所のベスト電器まで車でビデオテープを買いに行く。
 今日も私が「車に乗ろうか」と言い出したので、しげはビックラこいているが、だから練習させないと不安なんだってば。
 新車ってわけでもないのに、車の中の匂いが相当キツイらしく、しげは大掃除をしたらしいが、乗ってみるとやっぱりどこか皮の匂いが充満していてクサイ。
 福○空港周辺とか、どこぞの山道の途中で停まってる車の中じゃあ、若いカップルがいろいろ楽しいことをしているらしいが、みんなこんなクサくて暑苦しいところでよくヤレるよなあ。


 DVD『第三舞台 1981〜2001』見る。
 先日の『ファントム・ペイン』公演の時に記念パンフとセットで売られてたDVDだったけれど、最初の5年くらいは音声テープは残っていても、映像はない。でもやっぱり学生のギャグで間の取り方がまるでシロウト。
 なのに「ウケてしまった」というのが、第三舞台の悲劇だったんじゃないかなあ。
 下手な解説を入れずに、公演ビデオのみで構成したのは見識のつもりかもしれないが、芝居の内用すら分らないので、結局第三舞台に詳しい人でないと意味不明な箇所があまりに多過ぎる。
 ブツ切り名シーンのみだが、DVDの容量を考えたら、もうちょっと長めに収録できたのではないか。


 マンガ、今市子『孤島の姫君』(朝日ソノラマ・800円)。
 「目に見えるものが真実であるとは限らない」、それが今さんのマンガのキーワードだろう。
 人間であるように見えたものが幽霊であったり、幽霊自身が幽霊であることに気がつかなかったり。某クソ洋画が大仰に宣伝していた「意外な結末」なんて、今さんのマンガには腐るほど出て来てたし、これは昔ながらの「怪談」の語りの定番でもある。
 事実、マンガ家の中でも、今さんは、怪談の語り部(ストーリーテラー)として屈指の実力を持ってると思うのだが、なんだか今一つマイナーって気がするんだよなあ。……誰かドラマ化しないか。
 これは『百鬼夜行抄』以外の短編を集めた作品集だが、現代ものでもファンタジーでもミステリーでもコメディでも、そういう「我々の感覚のあやふやさ」をモチーフとしている点は変わりがない。
 作品を全部紹介するのは字数の制限もあってできないが、一番気に入ったのは、8ページと短いけれど、『遺影がない!』。
 アパートの不審火で死んだ従妹の夫の通夜にやってきたヒロイン、彼女は実はその夫のかつての恋人だった。火事のせいで、遺影に出来る写真が一枚もなくなっているので、遺族は東奔西走して死者の生前の写真を探すのだが、ヒロインはなんとかして自分とのかつての関係が知られないように、写真を隠そうとする……。
 コメディーミステリーとしてはその意外な結末も含めて、わずか8ページでこれだけの内容を凝縮しきった才能は大々的に称賛したい。
 あとの作品は、『赤い袖』『沈黙』『真夜中の食卓』『孤島の姫君』『文鳥マンガ・美しき獣たち』の5本。
 ああ、実録「文鳥もの」も今さんのマンガの魅力であります。あのトリの点目がねー。ちょっと吾妻ひでおの不気味くんを思い出させてねー、ヨイのですよ(^^)。

2000年10月26日(木) さすがに櫃まぶしは英語字幕になかった/映画『ラヂオの時間』ほか



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